囲碁におぼれて


 おかたいことで有名な岩波新書に”囲碁”なる書物がでてきた。囲碁プロ六段の中山氏が書かれているがたいへん興味深い。囲碁人口一千万人を超すといわれる昨今のことでは当然のことかもしれない。

 私自身十数年前よりプロの棋士について習っているが,なかなか一目が上達しない。こんなに面白く,奥が深く,かつまた誰にでもすぐに取っ付ける遊びは他にはない。むかしから囲碁に夢中になると親の死目に会えないといわれるのは当然のことだ。こんなに面白いものなら、もっと早くからやっておけばよかったとくやまれる。 碁盤の線の数は十九本と決っている。点の数は三百九十一である。ただ白,黒の石を相互において,より多くの陣地を取合って競うゲ−ムだが,なかなか面白い。単純なようで奥が深く,一種の哲学だと思う。数学的頭脳が必要かもしれないが、また別のところの大脳皮質が必要なのかもしれない。

 石の置くことについては,たいしてル−ルなるものがあるわけではない。ただ相互に置けばよく、二度続けて打つことはできない。どんなに強い古近東西の名人本因坊がでてきても三百九十一個の点以外に打つことができない。原則として同じ点に二度打つことが出来ないので第二手は三百九十個の選択しか出来ないことになる。第三手は当然のことながら三百八十九ヵ所とだんだん一ヵ所づつすくなっていく。すなわち、誰がやっても数学的には390ヵ所以下の選択しかなく、全く単純な遊びナノだ。実際には打つ(碁石をおくこと)場所は大体きまっており、ふつう初手でも数十カ所のものだ。数学的には最大限にかんがえても390X389X388X387---とおりの打ちかたしかないはずだ。中山六段によれば、この掛け算は無限におおきな数字だそうで、古代から江戸現在まで同じ棋譜は二つとないとのことである。

 囲碁に似たゲームでチェスとか、オセロがあるらしい。両方とも私は知らないのであるらしいとなったが、この二つのゲームにはコンピュターのソフトプロクラムが開発されておりコンピュターが人間様と大分いいところまで戦えるそうである。ところが囲碁にはいまだ適当なところまですすんだプログラムが開発されていない。私のようなレベルの初心者ぐらいは、打ち負かすかもしれないが?

 この単純な遊びのなかに哲学が存在する。打ち方でその人の個性が表現され思考の構築過程まで証明される。おだやかな紳士が性格まるだし豹変したりする。

 囲碁はかけないでも充分に楽しめる。目碁というのもあるらしいがいまだかってお目にかかったことはない。麻雀は体力を消耗し、疲労感のみ持続する。遊びの(かけない)麻雀は空虚だ。碁を打ってしばらくの間、体に碁の興奮がのこっている。それは胸の中のどこかにあって、ふとした拍子に触れ、ああそうかとにんまりとおもいだされる。

 闘争心!勝負ごとに必要なものは、まずそれである。下手にでては、もう負けたもどうぜんである。常に最善を求め、相手を叩き伏せねばならない。こういう努力が大切でストレス解消になるのだ。相手に叩きのめされたら、また挑戦するのだ。なにがなんでも勝つまでがんばるのだ。

 仕事でつかれた頭をもみほぐには、お酒よりずつとましだ。頭は使うほどよくはたらき、なににもまして老化しないし、ボケ封じになるし、性的にも衰えがスピードダウンするそうである。

 ある文人は”碁は君子の遊びだ。将棋に較べればずっと上品で上流階級の人が嗜み、将棋は下層階級のものが好むものだ。いまはどちらも大衆化されたが、碁の品の良さはのこっている。”などと言っているが、僕はこの意見には同意しかねる。彼は花札や麻雀は下司で危険だが、碁は勝っても負けても淡泊でおれるのがよいというが、勝負にこだわらぬ心境にはとうていなれない。性格丸出しで、闘志満々、ポロリと人間くささが出てくるところがおもしろい。囲碁のなかに人間のくさみがしみついて、そのなかからドラマがうまれてくるのである。


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