我が町、我が 故郷(素人からの提言)


      第一章 すばらしきかな我が故郷

 私の生まれ育った町はごせである。良いにつけ、悪いにつけごせに生を受けて以来、今日までたいへん世話になってきたのになんの恩返しも出来ずに還暦を迎えるに至った。

 御所なる町名の由来、あるいはその故事来歴に関しては、市医師会員森本秀子、吉村良樹先生、あるいは故桑山氏(円照寺住職・桑山城主の末裔)等によってすでに詳細に紹介(1・2・3)されているので、いまさらここで話す必要はない。西は金剛葛城二上の山なみに接し、大和盆地の西南に位置するが、自然環境は抜群、この世の天国であると小生は思っている。 

 春は小鳥が囀り、山菜は豊富でまことに平和で穏やかな田舎である。五月になれば、その数百万本ともいわれる自生のつつじで葛城山は真っ赤に燃え(4)、 夏は地上との温度差十度にもおよぶ葛城の山頂は絶好の納涼地、ケーブルに乗ればほんの数分でいけるパラダイス、蝉のシンフォニーもたのしめる。
 秋、ススキの草海から出る月は日本列島最高折り紙つきだ。黄金に燃える山とはこのことで、ほかでは味あうことがまず出来ない。
 冬の積雪はあまり望めないので、山頂スキー場の開店休業は残念なことだが、シーズン中、いちにかい見られる程度の雪は庭にサビとワビの精神を思いうかばせ、ちょうどころあいである。

 古さは古き、大和は国のまほろば、ごせは、また、その大和のまほろばである。高天ヵ原は国のまほろばであることには異論をさしはさむ余地はない。鴨の豪族の故郷、大和朝廷に先んずる日本国の発祥の地であることは、全国民共通のコンセンサスなのだ。

 阪神大震災では震度3の強震にみまわれたことがあったが、まずまず大事にいたらなかった。そういえば南海道大地震で前栽の灯籠がたおれたことがあったし、伊勢湾台風では屋根の瓦の一部が吹き飛んだ。しかし明治以来の百数十年間は取り立てていうほどの災害の報告は見あたらない。昨年なんか、台風何号か忘れたが、吉野から奈良市にかけて大和盆地を縦断したときも何時通過したのかも判らなかった。

 数百年かまえに、御所流れの記録(2)があることにはあるが、まずは自然災害から無縁である。四季を通じて自然に恵まれ、大坂から直通電車で四十分たらず、こんなにすばらしいところは、日本国中どこを探しても見つからない。

      第二章 日本一地価は安い

 おまけに土地が安い。安いことにかけては、県下随一、日本一かもしれない。大阪より三十Kmの通勤圏内にもかかわらず、バブルでもあまり高騰しなかったし、現在も低価格のまま推移している。こんなに住環境に恵まれているのに地価は日本一やすいのである。

 大より70Km圏の名張桔梗が丘あたりの六掛け、隣町の約半分、山の向こうの五条の二割引きぐらい、なぜこんなに安いのか理解できない。バブルのはじけた、今日このごろでも、発展目覚ましい生駒学園前辺りの数分の一以下で容易に購入できる。

      第三章 50年間変化のない町(ごせは地の果て、十津川の隣)

 先日奈良、生駒地区の先生方と神戸で会食する機会があった時に、県の小児科医会の会長であられるF先生が、私に今日は神戸にお泊りですかと尋ねられた。午後の八時頃ともなれば、とうてい終電車には間に合わないのではないかとご心配いただいたようだ。いやいや勿論日帰りですと、お答えしたが、この先生のお考えでは、ごせは地の果て、十津川の隣ぐらいにお考えのようだ。何々ごせから大阪までは近鉄電車が十五分おきに走っており、ふべんながら、JRもござる。もちろん奈良交通も県内のターミナルなのだ。

 私の幼少の頃は、学園前から生駒あたりはイノシシが走っており、失礼ながら生駒の富雄・高山あたりは陸の孤島といわれていた。奈良から大坂にでるには、ながいながい生駒トンネルを通らなければならないし、終戦後トンネルなかで大きな衝突事故があり何十人もの死者が出た。また数年前はこのトンネルなかで火災事故があり、このときも数十人の死傷者が出ている。

 昭和三十年頃、奈良電で京都から橿原神宮までかえるとき、やはり急行停車駅の西大寺駅周辺はバラック風建物が散在するだけだった。数年後、山の中に出来た奈良国際カントリーゴルフクラブの株券は、一口十万円であったがなかなか売れず、当時近鉄と取引関係のあった銀行に勤務していた兄貴は、割当て分を消化できず、ずいぶんとぼやいていた。世の中変われば変わるものだ。

 しかしごせはこの五十年間何の変化も見られなかったが、生駒・学園前は高級住宅地に変身し、奈良国際は関西の、いや日本の有名コースとなった。昔から県内での街といえば奈良(旧市内)、桜井、郡山、御所、五条ぐらいのものであったが、奈良はじめ、それぞれが住宅開発されたり、それに伴って街なかも変化をとげた。橿原は交通の要所として発展し県下第一の活気ある町となった。

 しかしごせはどうしたことか、ほんとに何の変化もしなかった。なるほど近鉄の駅周辺では、小規模の団地も造られたが市制発足以来三十年間で人口は約一割がた減少した。市民に一番良く利用されている近鉄御所駅から自宅までの約四百メートルは一応商店街となっているが、この五十年間何も変わっていなし、家並みは昔のままだ。この区間には三階建て以上の建物は一つも見あたらない。周辺地区には最近のバブル華やかなりし時、できたただ一つのマンション(買い手がつかず分譲から賃貸に変わったがそれでも空室がめだっている)は八階建てであるが町中には三階建ての以上の建築物はまったく見当たらない(別に規制等はない)。国道24号線が駅前を走るようになって、この付近の数軒の住宅が変わったのが唯一の変化で、青物屋の隣は靴屋、その横は食堂、しもたやと住んでいる人も何の何兵衛と五十年前とまったく同じである。こんなに変化のない町も珍しい。topに戻る

      第四章 教育の町ごせ

 ごせは、また教育の町としても有名である。戦前から旧制県立三中学を有していたのは県内広しといえどもごせだけであった。戦後、各町々に教育の機会平等の精神により県立高校が多数設置されてきたが、ごせには戦前より旧制三中学があり、ごせの母々は戦前・戦中・戦後をとおして、それはそれは教育に熱心である。学P活動もなかなか盛んで、学習塾への就学率(?)も県内最高という統計もある。

 昔からごせでは、いわゆる水商売が育たない。最近24号線沿いには数軒のカラオケ喫茶やスナックができたが、町中には昔からいわゆる飲み屋など一軒もない。教育の町なるゆえかも知れないが、午後も八時を過ぎれば、電車からおりてくる勤め帰りの人以外、駅前商店街と言えども人っ子一人歩いていない。ときどき突然飛び出してくる猫以外、ほんとに、人影もまったくみられない。

      第五章 都市計画と過疎化

 当初の市総合計画(5)によれば人口十五万人の公園都市として企画立案されてきたが、諸般の事情により見直しされ、十万人から五万人まで二段階にわたって縮小されてきた(6・7・8)。平成5年、例のゴールデン計画(14)でも人口五万人として策定された。しかし、計画は大きいほど結構なことであるけれども、市民の誰一人として人口五万人なんて夢にも思っていない。

 現実は過疎傾向なのだ。事実昭和五十年代より始まった自然的要因と社会的要因との微妙なバランスの平衡も、六十年代にはいると前者(出生率)の減少と後者(転出人口)の増加で市人口は減少傾向にある(6・7)。京奈和道路もいよいよ現実のものとなってくるようだし、今年中には三百九号線の水越トンネルも開通予定となってきた。これが完成すれば、県内から関空まで最短のアクセスとなる。 

 総理府から発表された住みたい町、住みよい町なる資料によると、環境、将来性等総合点で、御所市は全国自治体中トップテンにランクされているそうである。しかしこのデータが発表された頃、市の財政状態は極度に悪化、全国ワーストテンに入っており、平成七年度にはついにワーストテントップにおどりでてしまった。財政状況は全国六百十市のなか六百十番目となったのである。平成八年度中には財政再建指定団体となるかもしれない。どこがどうなったのか、さっぱり解らない。

      第六章 公園都市ごせ(ふるさとの川モデル事業)

 この間都市計画とともに御所工業高校の移転に伴う跡地利用から、中央公園整備事業として自治省並びに建設省から助成をうけ、葛城川の河川敷きまで含んだ一大プロジェクト(9・10)が現実のものとなった。

 中央公園も平成六年末にはほぼ完成、市民待望の小さな音楽ホールや図書館も出来た。またライオンズクラブより花時計が寄贈され公園にいろどりがくわえられた。多くの市民が朝夕散策しているのをみるとき、苦しい市財政のなかから英断を下された市の理事者に敬意を表したい。

 しかしこの公園を見るとき、殺風景で、なんだか様子が違う。勿論奈良公園のように大きなものではないし、隣町の屋敷山公園とも違う。立派な公園なのだが、樹木がないのだ。なるほど公園中には何種類ものの、たくさんの植樹がされているのだが、まだまだ細く小さくまばらで、緑影は全くない。夏の暑いさかり、木陰でちょっと一服とはいかないのである。しかし三十年後には立派な公園になることには間違いない。topに戻る

      第七章 歴史は繰り返される

 戦前、御所の葛城川の堤防には多数の立派な桜が育っていた。直径四・五十センチもあろう見事なものばかりで、さくらのトンネルがあり、四月の花見どきのころ大坂アベノより近鉄の臨時花見電車もでて、たいそう賑わったそうである。この頃高田の葛城川はどぶ川でたいへん異臭をはなっていた。が、このふるいドブ川をうめて中央道路とし、新しく付けた葛城川の堤防には、直径二・三センチの細い細いさくらを植樹したのが、今日の高田大中公園の桜並木なのだ。

 ところがごせの立派なさくらは敗戦と同時にすべて切ってしまわれた。町議会の議決によってすべて伐採されてしまったのだが、敗戦により進駐軍がさくら見物に町にやってきて、市民に乱暴をはたらいたりして、町の古き良き秩序が保てないというのがその理由である。戦中の中国・東南アジアにでかけた日本人や戦後中国東北地方にやってきたロシア人やあるまいし、いまから考えると、ものの考え方の発想がどないなっていたのかしら?

 いまから十年ほどまえ、ライオンズクラブによって、この葛城川の堤防に市民憩の公園(11)として、二年間にわたって数百本の植樹とあずまや風・ちん(亭)が寄贈された。最近になって棒樫は見事な生き垣に成長した。また小学校の通学路にもなっているこの公園は、四月の入学式の頃には、桜並木となり、新入生の一生の思い出となることだろう。また市民によって、このチンで歌会が催されたり、茶会も開かれた。とにかく市民にとってたいへん親しまれてきたのである。

 ところが平成七年の集中豪雨でこの付近の堤防が一部決壊(12)した。立派な生き垣の一部は流出したのは残念なことだが、幸いにも樹木のほとんどが無事残った。しかしこの堤防決壊の影響により河川敷き公園の一部計画変更とかで、折角立派に成長してきた公園が取り除かれることになった。まことに残念なことだが天災ともなればいたしかたない。しかも、堤防の補修工事の関係でこれらの無事残った樹木が邪魔になり、すっかり、さっぱりとすべて切ってしまわれた(13)。コブシ以上の太さに成長した棒樫や幹の直径数十センチにおよぶ桜など、切り株のみがわびしい。

 市は工事は国の仕事だから高田土木の責任だといい、国は管理主体は御所市だから市の責任だという。誰に責任があるのか知らないが、寄贈をうけて立派に成長した数百本の樹木を伐採したのは現実であり、伐採した代わりに植えられた桜は、ほそくほそく、ちいさくちいさくてわびしい。あまりにも風通しがよすぎて、殺風景である。

      第八章 素人からの提言

 昔からこの付近の葛城川堤防沿いに直線2車線の道路が走っていたが、河川敷き公園化構想により、この直線道路がとりのぞかれ、遠回りに円を描いたように曲線道路がつけられほぼ完成した。円の内側には、葛城山を借景に舞台のようなものが出来、堤防が観客席となる構想である。またこの部分の水域は広く拡張され、淀みのようなものがつくられ、川の真ん中に五本ほどのポール様モチーフが立てられ風景に彩りが添えられるらしい。

 夏の水に親しむ頃ともなれば、夏祭り等いろいろと催し物も計画されるらしい。なかなか結構な話だが、素人的発想で恐縮なことだが、川のなかにはなにもないのが良いように思う。葛城川にかかる橋の橋脚をみるとき、何時もゴミや流木が引っかかって、見苦しい景色を呈している。最初の五年間ぐらいは市当局によって清掃にも配慮されるだろうが、それ以後、又もとのもくあみにならなければと懸念される。

 ふるさとの川モデル事業そのものは、多数の審議会委員によって議論が尽くされ決められたことだし、土木の専門家によっていろんな角度から充分検討された遊水池構想、下流の治水対策等難しい問題もからんでいるので、私のような何も解らない素人が口出す筋合いのものではないが、何だか将来にわたって心配だ。

 たかだか数百メートルのことだが、他の道との出合いぐあいもあり、交通事故が増えなければ良いのだがと懸念される。事実、開通後六か月ほどしかならないのに、もう既に数件の事故(人身事故をふくむ)が発生している。

 素人的発想だが、道はまっすぐなのが良い。まっすぐな道を、何の必要があってわざわざ曲げるのか理解に苦しむ。川もくねくね曲がっているのもきれいで格好良いかもしれないが、やはり真っ直ぐのほうがよいように思う。道路も川も、真っ直ぐなのが道路であり、川であると思う。折角立派に育った樹木は、切ってしまってはならない。木々は一夕一朝には成長しない。(平成八年四月記)topに戻る

1 奈良県医師新報    昭和年月

2 奈良県医師新報    昭和年月

3 奈良県医師新報    昭和年月

4 葛城山のツツジについてはいろんな説がある。昔は一面熊笹が繁っていたが、百年に一回といわれる竹の花が咲き笹が枯れたあと自生のツツジがしげったといわれている。

5 緑豊かな生活文化都市 第一次御所市総合計画(基本構想)    昭和四十八年十二月策定

6 第二次御所市総合計画    昭和五十六年十二月策定

7 第三次御所市総合計画    平成三年九月策定

8 御所市総合計画策定のための現況分析報告書  (株AAP:堺屋太一主査)    昭和五十五年二月

9 葛城川ふるさとの川モデル河川事業指定    昭和六十二年十二月

9 葛城川ふるさとの川整備計画認定       平成二年七月

10 御所市中央公園整備事業    平成三年から五年

11 御所ライオンズクラブ結成二十周年記念事業として昭和六十二年より二カ年にわたり総額壱千万円ちかい費用をかけてつくられた。すでにふるさとの川モデル河川事業指定を受けていたので、憩の公園は河川事業にかかわらないとの確認を受けてのち完成、市に寄贈された。

12 平成7年集中豪雨に見舞われ 葛城川の堤防に多大の損傷をもたらし、あわや決壊寸前となった。全く自然災害との事であるが市民の中では、丁度この付近で河川を拡げる工事をしていたので、そのため災害を引き起こしたと考えているひとが多い。

13 樹木の伐採に関して婦人団体、はじめ市民から多数の抗議がよせられた。市は高田土木(国)に連絡するといい、高田土木は御所市に連絡するという。

14 御所市老人保健福祉計画    平成五年九月策定


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