わが青春のあやまち?(大学時代の思い出)
年間海外旅行者数が一千万人を超えたという。人口で十人に一人が海外旅行を楽しんだことになる。もちろん仕事ででかけることもあり,かならずしも物見遊山とはかぎらない。私の学生時代は一般に海外旅行は許されておらず,どこでもよい海外にさえいければ,と熱き夢を見ていた。昭和三十年頃の為替レ−トは一ドル三百六十円の固定であったが,ドルが強くヤミで一ドル四百円とも六百円ともいわれていた。丸善で書籍代を清算送金するときは,一ドル六百円で計算されていた。戦後の復興途中であったが,世の中もだいぶ落着いてきており,外食券がなくても,十円余分に支払えば米食にありつけるようになっていた。
丁度こんな時,YMCAでフィリッピンでのワ−クキャンプの参加者が募集された。日本からの参加定員は五名あったが,事業の継続性等の理由から学生から三名,スタップの主事から二名が選ばれたが,多くの学Yからは学生の参加者数の少なさから,公開質問状が出されたりして,以後数年間はたいへん紛糾した。ワ−クキャンプといっても井戸掘り作業が中心であったが,とりえず外国にいけるということであり,各国の参加者との楽しい交流の情景が御殿場の東山荘(全国の学Y学生が毎年八月に集り修養会が開かれた)で報告された。当時フィリッピンでは対日感情が非常に悪く,日本から参加した学生は中国福建省から来たといっていたとのことであった。日本からの参加学生はよく働くし,まじめであったが,フィリッピンあるいは米国等からの参加者は,午後になれば昼寝し,目を覚ませばギタ−を引き,歌を唄い踊る。まず日本人以外は午前中二時間程度しか働かないとか。まだこの頃の日本人学生は真面目だけで,遊び方もしらなかったのであろう。参加費用は十五万円ほどかかったようだが,個人負担はたしか小遣いをふくめて三万五千円程度だったと思う。外国にいけるめったにない機会と若き血が燃えたが,一ヵ月の学費・生活費が二千五百円から三千円程度の学生にこんな大金が用意できるわけがない。結局三万円の大金を用意できず初めての外国旅行は夢と帰した。
アルバイトといえば,当時家庭教師はもっとも人気があり月額一千五百円から三千円位稼ぐことができた。そのほか祭の人足,映画のエキストラは一日二百五十円から三百円,大掃除の手伝いも人気があり,たいていは昼食つき,ときには晩飯もついたし,道路建設,石運びの重労働とともに三百五十円位あったが,しかしいくらがんばってもたかがしれたものであった。学生にとって家庭教師は時間・労力等よりみて最高のバイト条件とおもうのだが,最近の学生さんはきまった日時・時間に束縛されるのが苦手のようで,あまり人気がない。昭和二十年代の後半頃には学生援護法なる制度が発足し,三十年頃より学生バイトの斡旋にのりだした。当時学生相談所は百万遍のあがった所の学生会館内にあり,アルバイトの登録申込をしておけば,カ−ドが発行されバイトの仕事を紹介された。毎日受付順に次々と,仕事が紹介されていくが,学生側は長期の,楽な仕事の,割の良いのをねらっていた。早い順番をとろうと,寮生は交代で前夜からカ−ドを相談所の玄関に置きにいったが,だんだんとエスカレ−トし夜中に数回,学生たちで自主的に点呼するようになり,その時不在なれば,順番は後にまわされた。しかし雪のふる寒い夜,あすの仕事を求めて,相談所のあたりをうろつき,道端で焚き火をして,暖をとるわけだが,ついに重要文化財である百万遍の知恩院の塀の板をはがし焚き火する学生があらわれるにいたり,新聞で報道され,受付順紹介は中止されるにいたった。これ以後は仕事にあぶれた回数がカ−ドに記入され,求職回数の多い者から紹介されるようになった。室町あたりの反物の問屋に長期のバイトにいったことがある。地方からの注文に合せて反物の長さをはかってきり発送するのだが,長さをまちがえ,たいへんおこられたこともあった。医大の学生はわりあい裕福であったが,なかにはたいへんだった者もいた。このころわたしは家からの仕送りもあり比較的めぐまれたほうであったが,友人の中には仕送りのないものもいた。仕送りが全然ないばかりでなく,逆に家に幾らか送金しなければならない学生もいた。文科系の学生ならともかくも医学生で自分の生活費いがいに家に送金しなければならないのは大変だ。奨学金もしれたもので,生活費で全部パ−,本代に回せるわけでない。自分の生活でせいいっぱいなのに家に送金している友人をみるとほんとに頭のさがるおもいだった。
またこのころは,若かったのであらういくら食べても腹がへつた。ちょっとお金があると五十円の定食を食ったが,お金のないときは,メシとラ−メンの汁だけを注文した。出町柳の河原,銀閣寺道の交差点に評判の美味しいラ−メンの屋台があり,学生には汁だけ提供してくれ人気があった。また寮の近くに夜の十時頃から店を開けるラ−メン屋があった。カストリ・ドブロク・ウワズミもあり,老女一人で開けており,安さと遅く迄あいているのでたいへん重宝がられ人気があった。寮内ではこのラ−メン屋にいくことを鬼が島に遠征すると称して,ここでもメシとラ−メンの汁だけを所望した。現代はカロリ−を計算し,栄養のバランスを考えるので,こんな馬鹿げたことはだれもしないが当時はトンコツス−プの油ぎった,ねばっこいおいしさだけが忘られない。あまり腹がへつたので,友人と京都駅に駅弁の残りをひらいにいったことがあった。新幹線のない当時東京から着く長距離汽車が西大路の操車場に回送され車内清掃でだされたごみが,山陰線のプラットホ−ムにあつめられており,ときにはまったくのむきずの駅弁を手に入れることができた。美味しかった味だけはよくおぼえている。先輩と二人で御殿場東山荘の帰り,熱海の駅で京都までの乗車券を求めると,二人で残金三十数円,菓子パン二個で約二十円,急行券を購入することができないので夜汽車のドンコウの出発まで十数時間,うごけば腹がへるので,海岸のベンチで寝ていた。金色夜叉じゃないが,空に浮ぶ入道雲はおいしい御馳走に見えたりした。もちろん京都駅からは市電代があるわけでなくあるいて吉田の寮まで帰った。先輩の家を訪問夕食のでるまでねばつたこともあった。ゲルピンは学生の代名詞のようなものだったが,最近の学生さんはゆたかになったものだ。でも寮では朝から夜中まで人生とはなにかと口角泡をとばし論じたものだ。他大学の学生らとマルクスの資本論を原語で読む読書会をひらいたこともあった。読書会で医大生以外とつきあうのもまたたのしかった。
このころ高校の同級生二人が司法試験に合格したというので寮の自室にてお祝いのスキヤキパ−ティを,一緒に医大に進学した同級生と四人でした。分野がちがうのでよくわからないが,二人とも三回生の現役で合格したのはめずらしいことだそうで,しかもとうじ発足した青法協なる組織によると,その一人はトップ合格だとのこと,京大に首席合格者がでたのは二十年ぶりとか,来年は助手で教室に残ろうか,司法研修生になろうかとまよっているという。われわれ二人はまだ親のすねかじり,あまりの境遇のちがいに,われわれは,ただ、いまは勉学に励んでおればよいのだとお互にはげましともなぐさめともつかずぼやきあっていた。またスキヤキで寮内に牛肉のなんともいえない香を充満させ後刻数人の先輩からひどく叱られた。このスキヤキ事件以降寮内の自室内では匂のでるコンパは禁止されることになった。この二人はその後裁判官の方にすすみ,一人は長い間最高裁に勤務していたが,平成三年四月より奈良地裁所長として任官してきた。
金もないのにどこで都合をつけたのかよく山えいった。比良山系の深谷には年間百日間近くいたことがあった。アルバイトと山行の繰返しで学校の授業にはあまり出なかった。新制の六年制医科大学の一期生として入学したわたしたちは,講師の先生がたにはたいへん恵まれていた。美学の井島勉,フランス文学の桑原武夫,ギリシャ哲学の田中美知太郎,心理学の佐藤幸生教授等その分野での最高の教授連によって講義されていたのに,まじめに出なかったのは,いまでもこころのこりだ。戦災で顔面を負傷された田中教授におあいできたのもこのころだったし,豪放大胆な井島教授,几帳面で年間の講義予定を詳細に解説までされる桑原教授,鐘をならしながらイマジネイションの世界へみちびかれる佐藤教授,最初の一回だけ講義され,あとは全部代講の先生ですまされた社会学の臼井教授等いわゆる名物教授のめぐまれた講義が与えられたのに残念なことをしたものだ。またアフリカのシュバイツァ−博士のもとで,その仕事を手伝われたこともある村山白十字会の野村実博士の講演会を開いたのもこのころであった。講演会後の座談会では,シュバイツァ−の個性の強さ,頑固さ等講演会では話せない裏話もきかせていただいた。ヒマラヤのひげドクタ−として有名な,鳥取から神戸大学にかわられた岩村昇先生のネパ−ルでの働きをすこしでも支えようと学生仲間でなんかいとなく会合をもった。現在の古切手集めの原点はこのキ医連の活動からでているのである。
マルキストである立命館大学山本一郎教授や実存哲学の若手のホ−プ京大の武藤武雄助教授をまねき公開討論会を開いたことがあった。武藤助教授には,その後関西学院大学千刈りキャンパスで一日八時間以上連続三日間”学Y運動史”の講義をうけた。同志社大学の総長にまでなられ,結婚式ではお世話になった遠藤彰助教授(現広島女学院総長・学長)との出会いがあったのもこのころであった。若い頃は進歩的な考えにあこがれるとともに,じぶんなりにいろいいろと思索していたのであろうが,こうした先生方にはずいぶん影響をうけたとおもう。
新制度ということで,学部へは現在と同様無試験で進めたが,この頃より内科学教室でラボチンのバイトをするようになり,ますます講義からとおざっていった。当時DMの研究をなさっていた先生のもとで,ゾモジィの変法による血糖値の測定がおもな仕事だった。コ−ルマンの比色計か,ベッグマンの分光光度計ぐらいしか,設備も無い状態で実験がすすめられた。アロキサン糖尿ラッテも何千匹となくあの世におくった。ラツテの膵,肝臓等の組織標本作りも脱水から固定,染色まで,すべて手作業,ミクロト−ムでいくどとなく手指を傷つけた。基礎の病理学の試験の時は,教授室がどこかわからず,たまたま廊下で出会った人に教授室のありかを聞いたら,それが教授本人だったりしてさんざんしぼられた。試験はほとんど面接で,授業に出ていなかったので教授の顔も知らなかったのにはまいった。試験はいつも友人のノ−トあるいは教室助手の手助けでどうにかビ−コン・トリコンを一度も受けることなく最低でつうかした。しかし六年の最終学年にすすむころから,家庭の事情で仕送りがなくなったのにはひじょうに困った。学生の身分では有利なバイトにつくことができず,病院ポリクリ実習はほとんど欠席だったがどうにか卒業にこぎつけた。ちょうど日米安保改正の時期とかさなり,大学内は騒然としており個人の欠席ぐらいは,あまり目立たなかったようである。これから四,五年をえて大学も学園紛争にまきこまれていくことになった。大学の掲示板には授業料未納者の張紙がだされた。これはいつも常連で心配なかったが卒業式までには完納せねばならないとのことで,これにはたいへんよわった。私の卒業証書は授業料一年分三千円の領収書のようなものだ。卒業,インタ−ン,ふたたび大学院生,副手,助手と身分は変ったが,生活はなんの変化もない。医師免許のおかげで大学時代よりはすこしましな当直,時間ぎめ代診のバイトにつくことができるようになった。大学病院は下宿と同じ,分娩室の風呂で洗濯し,脱衣場で膚着をほして,臭気を発散させたと先輩にこぴっどくやられた。大学院終了時結婚したが,当直のバイトでアパ−トの部屋代から嫁さんのメシ代まで稼がねばならないのには大変だった。教室の教授はきびしいかただったので,昼間アルバイトにいくことができず,当直だけがただひとつ生活の糧をえる手段だった。当直は週に五ないし六日におよびアパ−トに帰るのは週一,二回程度で結婚したからといって生活のリズムは変らなかった。結婚式は保育園をかりて,キリスト教会でもった。保育園の椅子は小さく,でていただいたかたには,たいへん窮屈ですわりにくかったとおもう。教室の同窓生たちはだいたいホテルで挙式したようだが,大学時代からの友人はおおかれすくなかれ,わたしとおなじように同窓会館等で挙式披露宴を挙行,なかには会費を沢山集め新婚旅行の費用をうかしたやつもいた。四十年代初めの学園紛争時代のことはあまり思いだしたくない。いい思い出はなにひとつなく,苦々しいことばかりだ。中学時代からの友人は大学を卒業して全学連から全共闘の指導者となり,神戸大学のドイツ語の先生をしていたが,試験は全員零点,教壇でたこ焼をやきながら授業していて大学から追放されたという。何がどうなったのかさっぱりわからないが,わたしは学園紛争後郷里に帰り,おなじプロゲスチンの生体内代謝を研究しておられた奈良医大の前山昌男教授にひらわれ,一年間の助手生活ののち開業するにいたっている。(H3記)
追記(1997.11.8):6年後の今年(H9)奇しくも、文中の友人二人の消息が新聞で報ぜられた。
1 東大文学部ドイツ語学科をでて、すぐ神戸大学のドイツ語の教師になった中学時代からの親友のM君は、今年5月初旬交通事故で亡くなったと新聞報道されていた。ことの善悪は別として、全共闘の教祖として、また闘志として闘ってきた彼は、早くして大学を追放され、係争事件も決着を見ることなく、学者としても大成することなく不本意な人生だったに違いない。よのなか諸行無常の哀れを感ずる。
2 最高裁に就職したK君、とうとうやりおった。寮の部屋でスキヤキコンパをやって先輩からひっどくしかられたあのK君、ついにやりおった。平成9年10月より最高裁判事となってしまった。記者会見するTVの彼は、ほんとにおおものになった。ほんとにめでたい。コングラチュレイション。