考える葦 死生学 
行くへ不明者高齢者多数発生に思う
老人の行くえ不明者が激増している。全国で数百人単位で所在地が確認の取れないお年寄りがいるらしい。ホントにいい加減なことだ。お役所の仕事の怠慢だ。国がいけないのか地方自治体がいけないのかその仕組みは良く判らないが、何事にも緻密で誠実な日本人としては全く考えの及ぼさないものだ。住民登録と戸籍は連携しているものとばかり思っていたがこれでは日本人の考え方の根本が崩れ去りかねない。この問題に関していろいろの条件があるようだが、いづれにしてもほぼ完全無欠のものと考えていたのが根本的にその根拠を失ってしまった。世界一の長寿国もその基本的基準が無くなれば砂上の楼閣だったようだ。そう結論付けられかねないのだ。最新の情報によると、全国では何十万人かの行くえ不明者がいるという。戸籍と住民票(基本台帳)の一致しないケースだという。どうしてこういうことが起こってしまったのか。
悲しいことだが世の中のすさんだ社会情勢もあるだろう。働きたくても仕事が無い。働いても食っていけない。低賃金、低報酬、生きる希望が得られない。いくら働いてもゆとりある生活が得られない。育児放棄、児童虐待等人間関係の喪失が現在の社会なのかも知れない。この希望のない社会がこうした風潮を生みだした。特に最近では殺人事件がやたらと多い。昔なら1年間に数件しかなかった殺人事件も、報道されない日が無いほどあまた見られるようだ。悲しい現実に涙するものも多いはずだ。最近悲しき事件が多すぎる。
親は子を育て教育し立派に社会人として送り出していくのが人間としての最低の義務であり責務であろう。こうした関係のもと社会秩序も社会道徳も形成される。これが人間の本能であり、根本がここに基づいている限り何の問題も生じない。親子の関係、家族の関係とは一体何なのだろうか。
昔から田舎の小高い丘に上にお墓があった。代々お盆にはお参りしたものだ。あるいは村のお寺であるかもしれない。子は親の墓掃除をして今ある自分の存在を先祖に感謝したものだ。明日も家族も無事健康で暮らせるようにとお祈りしたものだ。夕焼け空に何か悲しい情緒があふれ出てきたものだ。考え方が古いのかもしれない。墓参りは日本の伝統の文化なのだ。でも最近では子孫に子供に負担をかけるのは忍びないという理由から墓を造らない考えが台頭してきた。子供たちに余計な負担を懸けないでおこうとする親心らしい。自分の遺骨を海に山に散骨したいという。それで全てが終わる。全てさっぱりとだ。そいう考えもあるだろう。それはそれだ立派なものだと思う。が悲しい。割り切れない何かがあるようだ。
ある社会学者は宗教はアヘンだとのたまった。僕はそうは考えないがチベットで輪廻l転のため人生の大きな部分を懸けるエネルギーを目の当たりに見て抒情的な部分もあると確信した。何年もの時間と体力、お金をかけて巡礼する。五体投地の巡礼。何事も全て叙事的なものと割り切ってしまうことは不可能なのだ。損徳とは別の生きるエネルギーそのものだ。お寺のお坊さんが嘆いていた。最近実入りが少ないと。でもお寺の葬式商法は結構なものだという人もいるようだ。現在ではお寺は人生と云うよりも仏事の催事の関係が中心なのだ。現実には人間とお寺と人生は分離した状態だ。日本は典型的な葬式仏教でありそれ以外の道は無い。それにしても仏教界も新しい考えを取り入れていかねばなるまい。現代の檀家の子どもの時代はともかくも孫以下の時代になれば檀家の組織も無くなりお寺自体もその存在が無くなるかもしれないと。伝統と云うか先祖を祀り敬い感謝する風習がだんだん廃れて来ようだ。若い人の間では常識となって来たようだ。なにもお寺の為に尽くし善財を寄進する考えは毛頭ないようだ。これが現在風風潮なのかもしれない。お寺さんも大変だ。
社会環境の変化と云ってしまっては味も糞もない。兎に角も落ちるところまで落ちたのだ。ある意味経済的弱者である筈の老人が豊かになり過ぎた。社会保障制度の充実があるいみ社会の構造の変化に順応しきれていない。昔あったという姨捨山の伝説は親が子を思う悲しき説話かも知れない。柳田国男(遠野物語)のいう「ハカあがり」「ハカさがり」の伝説も同じ思想からきている。限られた空間、その中での相互扶助の精神だ。老若世代間の基礎的関係だ。神隠し伝説からこれらの現象を理解することにやぶさかではない。老人の思いやりの思想、子を愛する考えを日本的よろしき伝統としてきたのは間違いだったのか。放浪癖、認知症等様々な失踪理由はる。経済的身体的弱い立場の高齢者は家族の負担に負い目を感じ家を出ていくこともあるだろう。でも縦割り行政の悪弊を認めざるをえない。明白になったことは行政の連携の拙さが浮き彫りにされたのだ。
ここらで死生学についても考えたい。上智大学のアルフォン・デーケンズさんの話である。日本人ならばこんなに割り切った考えは思いつかない。如何にもドイツ人らしく整然と理論建て解釈を積み重ねていく論理的方策論には敬服する。生きる問題は死の科学から生まれる。死につて考えそれを定義してからこそ生の学問も始まるのである。明治の初めの人生50年から人生80年に延びた。喜ばしい限りだが世界最長寿国としての誇れるものはなにもない。単なる記録の不備だけでは済まされない。脳死臓器移植の問題も考えたい。生と死は別にあるわけじゃなく連続した一つのものだのだ。別々に考えないで一体のものとして取り扱うべきだ。科学技術の発展が事情を複雑にしてきた。遺伝子操作、分子レベルでの科学的操作が無制限に広がり発展してくると、世の関係そのものがややこしくなる。正誤の判定ができない。何が真実で何が幻か判定できないところま追い詰めれている。
年金受給の犯罪的行為も無きにもあらずだ。親の年金を不正受給する。地に落ちた話だ。子は親の面倒を見ず、親は餓死、保護責任者の責任は何処にあるのだろう。これは正しく犯罪だ。悲しい世の現実、面倒を見る能力とゆとりが無いのだ。何とも感じない子ども達、家族の問題、血は水より濃いと云ったのは昔の話し、現実はすでに夢物語になっているのではないか。仏教儒教の精神は何処え行ってしまったのだろうか。嘆かわしいが、これが現実の世界で世知辛い世の不安環境が充満しきっている。汚い、この世の現実がそこまで追い詰めたのだ。政治の不信、明日の展望のなさ、社会不安が醸し出す末期的危機世相、奈落の閻魔さんも苦笑しておられるだろう。やはり強力な政治の指導者の登場を待つしかたが無いのかも知れない。あるいは救世の哲学者の登壇を待たねばならないのかもしれない。
家族関係の喪失、人間観が変化した。なんでも自分ひとりで自分の力だけで生きていく。自分を自己を過信していく。結構なことだ。これで全て解決されるならそれで満足かも知れない。あとはなるようになるさ。ケーセラケーセラ。ここには虚無感以外何もない。味も色もない世界だ。無責任時代の到来。反対にこの世界、精一杯生きて行くので100%フル回転だ。他のことに関わる煩わしさ余裕がないのだ。世知辛い世の中ゆとりも余裕もない生活。これで人間幸せだろうか。
人生観も死生観もすっかり変わってしまった。老若男女仲良く暮らしていた世界はすでに遠く遠のいてしまった。新しい命の誕生を祝い祝福した社会は何処に行ってしまったんだろうか。無抵抗な幼い命を絶つなんてどうして出来るのだろうか。世の中何かが変だ。新しい死生学を構築していかねばなるまい。本日は終戦記念日、65年前の反省に加え新しい出発と出来るのだろうか。社会を構成する全メンバーのお互いの幸せの為一層の努力が必要である。(2010.8.15)
民生委員
民生委員は厚生労働大臣の委嘱を受け、悩みや問題を抱える住民の自立した生活を目指して、ボランティアや介護保険、生活保護などのサービスを紹介する。交通費の実費程度が支給され、原則無給で活動。全国に約22万8千人の民生委員がいる。自治体によっては民生委員の年齢制限を「75歳未満」としているが、民生委員全体の高齢化は著しく進んでいる。一方、民生委員が安否確認をしている独り暮らしの高齢者世帯は急増している。 さらに活動を制約しているのが「個人情報保護」の壁だ。17年の保護法施行にあわせ、高齢者名簿の民生委員への提供を取りやめた。民生委員法では、民生委員に「守秘義務」を課しているが、それでも高齢者名簿を保有する各区役所では、個人情報保護法を理由に情報提供には二の足を踏んでいるのが実情だ。このため民生委員は、町内会や老人会などから独自に情報収集し、高齢者世帯を把握している。こうした情報網から漏れた高齢者は、そのまま放置され、仮に死亡しても住民登録上だけで年齢を重ねていく恐れもある。「安否確認の頼りとなる民生委員の活動は先細りの状態で、このままでは、ますます高齢者は孤立していく」と危機感を募らせている。
行旅死亡人
住所や氏名が分からず、かつ親族などの引き取り手がない死亡者。死亡場所の市区町村が葬祭会社に依頼して火葬を行い、官報に遺体の特徴、発見状況、所持品などを記載する。火葬などの費用は都道府県が負担する。住所や氏名が分からず、かつ親族などの引き取り手がない死亡者。死亡場所の市区町村が葬祭会社に依頼して火葬を行い、官報に遺体の特徴、発見状況、所持品などを記載する。火葬などの費用は都道府県が負担する。全国各地で報告が相次ぐ100歳以上の高齢者の行方不明。その中に「少なからずの『行旅(こうりょ)死亡人』が含まれているのではないか」という指摘が、自治体など関係者らの間で出ている。遺体が「身元不明」として処理されたために、戸籍が生き残ったままとなってしまうケースだ。ホームレスなど身元不明者の死後事務を扱うことがあるという葬祭業者「富士の華」(東京都)の担当者も、「行方不明者の多くが行旅死亡人となり、戸籍上だけで生き続けているのではないか」と指摘する。法務省などによると、行旅死亡人は官報に遺体の特徴などが掲載される。しかし、家族らが気付かなかったり、失踪(しっそう)宣告の申し立てなどを行わなかった場合、その人の戸籍は生き続けることになる。悲しいことだが致し方無いのかも知れない。市区町村は所在不明の高齢者の生死が不明の場合、法務局の許可を得て戸籍を除籍する「高齢者消除」ができる。だが、対象は「100歳以上」となっているうえに、すべてに除籍がとられるわけではない。
戸籍管理と所在確認
自治体のずさんな戸籍管理と不十分な所在確認が浮き彫りになった。何十年も前に死亡届が出ているのに戸籍が抹消されていないケースも発覚してきた。自治体の戸籍の管理は一体どうなっているのであろうか。行政の縦割り機構も問題だ。住民登録と戸籍は連動するものではないのか。何処に最終の責任があるのか判然としない。こんな状態では全ての記録上の統計基準は失われかねない。
省庁の足並みそろわず
政府は6日、関係5大臣会合を開き、連携して実態把握や問題の洗い出しを急ぐこととした。しかし、省庁の足並みはそろっているとは言い難い。もともと国内最高齢者や100歳以上の高齢者数の把握は厚生労働省がしてきたが、住民基本台帳は総務省、戸籍は法務省の所管だ。厚労省からは「あらゆる施策の基礎の住民基本台帳が実態と違えば、社会保障番号などにもかかわり大変。行政不信が広がりかねない。総務省は危機感をもってほしい」との本音も流れ漏れてくる。だが、総務省の担当者は「住民登録と実態の食い違いの確認は自治体が行うが、死亡確認の『本筋』は戸籍」と語る。一方で法務省は「戸籍の修正は最終的なもので、所在不明であっても原則できない」と、今回の件で特に対応は取っておらず、省庁が連携した取り組みは見通せない。
家族関係の希薄化
そもそも、100歳以上のような超高齢者については、行政が所在を確認し、必要な支援を提供する責務がある。住民基本台帳のあり方について、「現代は家族や友人関係が希薄になり、つながりそのものを絶ってしまっている人もいる。高齢者保護の観点からも、住民からの届け出に依存した現行システムの見直しを検討してもいいのでは」と考えられる。(2010.8.15)
生命の創造
無から有を造り出す。いとも簡単に。日本の有名な女性代議士さん、夫と他人の卵子を受精させて、自分の子宮に移植した。ほんとに勇気ある行動だ。次郎は以前からこの女代議士さんを応援してきた(つもりだ)。考えにブレが無い。信念の方だと思ってきた。
パスカルじゃないが最近の人間は思考する動物ではないらしい。安易に流れる、風にそよぐ葦かもしれない。昔の考えの基準がスッカリ変化してしまった。基準が変わったのだから、昔流に考えれば想像も絶しないことが起こりえる。常識外のことが起こりえる。常識外と云ったが、常識とは何ぞや。これからして定義を定めねばなるまい。全く生きるのが難しい。肩が張る。住み難い世の中だ。可愛い子には旅をさせろというが、それを実践する馬鹿親父が居るようだ。可愛い筈の我が子を虐待し、その命をチジメル様な事を平気でする。世の中ハルゲマドンの終末期だ。社会の組織全体が変化したのだ。人間関係が希薄なのだ。血は水よりも濃いと言ったのは昔のことであって、係累の煩わしさのみ存在する。年金を不正収得するため、親の遺体をそのまま放置する、悪く考えれば殺人も起こしかねない。起こしかねないのだはなく、実際殺人事件も起きた。親子関係や家々の伝統や仕来たりはもうとっくに消えうせたのだ。
(文中敬称略)