なぜ手を洗うのか?(禅的精神遺産)


 なぜ日本人は事後、手を洗わねばならないと思っているのだろうか。

 勿論事後とは用便の後のことである。早とちりしないで下さい。東南アジアで見かけるトイレに付属した水槽の水は、西洋風の、日本風の考えに基づいたものとは、けっして同じ手洗いの水ではない。彼らは左手で直接ブツを拭く。日本人は紙という媒介物をとうして尻を拭く。けっして直接ブツに触れない。これが鉄則である。

 でも事後、手が不潔であろうとなかろうと、手を洗う習慣は現代では一部の例外を除いて、ほぼ全世界で一般的なありふれた習慣であり、なんら違和感のあるものではない。

 昔より洋の東西を問わず、建物のなかには、独立した部屋としてのトイレはなかった。独立したトイレの登場は19世紀以降であり、樋箱(昔のトイレ用オマル)にせよ、馬桶にせよ、トイレという独立した空間に置かれていた訳ではなく、廊下の隅に一時的にそれを置き排泄していたのである。もちろん、トイレが無い以上、そこに付属した手洗い場もなかってはずである。

 トイレに手洗い場を付属させ、「手洗い」と言う言葉をトイレの意に使うきっかけとなったのは、禅宗の思想に由来するという。インドでは左手は不浄の手とされ、排便後の尻は見ずとも左手の指で拭くことになるが、それが中国を経由し日本に禅の作法の一部として形骸化した形で入ってきたのだ。日本の禅寺の作法では手で直接拭かないにもかかわらず手を念入りに洗うという儀式を行う。この行為には宗教的な不浄観が影響しているように考えられ、排泄という行為、あるいは排泄する空間が不浄だと言う。だから香を焚き、手を洗うという儀式でそれを清めねばならないし、一種のみそぎである。現代に生きる我々が全く意識することの無い禅的な精神の伝統が、今も強い強制力でもって我々の手を洗わせているのかもしれない。

 なぜ禅では左手を不浄とするのか?昔から禅寺では厠籌なるものが、用いられてきた伝統がある。左手の思想はもともと、インド・中国から入ってきたモノで日本の禅もここから入ってきたことの証明の一つであるに違いない。どうように厠籌もインド、中国より伝えられたモノで、事実現在でも中国の一部のお寺で一般に使用されている。たとえ仲間内とはいえ、他人と共に使用の及ぶなんてなんだか、馴染めそうにない。

 今日的にはO157も流行して、かの大腸菌の撲滅のためにも必要最小限の行為であるに違いない。手を直接接触したか、いなかにかかわらず、B.Colli なんて何処にでもいる。B.Colli の存在しないものなんてものは、地球上に存在しない。かようにありふれた、ポピュラーな細菌の反撃にあって人類は慌てた。東南アジアではO157が流行しないのに日本やアメリカでは大流行。世の中いったいどないなっているのかしら。やはり手洗いの奨励しかないのか?


参考文献  トイレ雑学
      哲学する小部屋(世界トイレ紀行)
      大徳(だいとこ)の野糞
      食物連鎖
      ベルサイユのトイレ
      不潔なヨーロッパの街
      中国のトイレは何故汚いか
      正しいトイレの使用方法(世界トイレ紀行 2)
      トイレ曼陀羅(世界トイレ紀行 3)
      トイレ雑感・変遷史(世界トイレ紀行 4)
      会社トイレの利用法
      トイレと束子
      棹を大切に 


homeに戻る  随筆・評論に戻る  旅雑学