混沌と拡散と密集のイスタンブール
イスタンブールという街の印象は、ヨーロッパとアジアのせめぎ合うポラボラスの街で、大変特殊な響きを持ち、西洋と東洋をルツボに入れて混ぜ合わせたような、たいへんエキゾチックで不思議の国とか、またイスラムに支えられた、単純に表現されえない得体の知れない込み入った、非幾何学的な、あたかもアリの巣のごときで、混沌と拡散と密集を具現しているようである。紀元後4世紀、東西にまたがる巨大な帝国を築き上げた古代ローマ帝国は、その膨らみすぎた領土のためにも、古代奴隷制度の崩壊によっても、またその統治の堕落、腐敗、文明の退廃によっても、巨象の崩れ落ちるが如く衰退していった。AD330年、コンスタンティヌス大帝が、古くからの多神教を捨てて、それまで迫害を加えてきたキリスト教を古代ローマの国教として定め、これを機に、帝国の首都を、地中海のはるか西、ここエーゲ海の最深部、東洋と西洋の交差点に遷都した。かってのローマ的残滓の存在しない土地でなければならず、「信じよう、唯一の神を、大地と天の創造主を、万能の父を、全ての目に見えるもの、見えざるものの造り手を」と全く新しいキリスト教的社会の建設を謳っている。考えて見れば、あのローマで華を咲かせた、帝国が何故オリエントに接する辺境の田舎に都を移すことになったのか、わからないことばかりだ。歴史はその謎を内に包含しながら、変遷をたどり、395年にはローマは東西に分裂、アナトリア地方は東ローマの所属するところとなるが、日時とともに、帝国からローマ的色彩は薄れ、変わって東洋的色彩が濃くなっていった。
広大になりすぎた領土を統治するには、皇帝は自らも神と等しい存在にならねばならなかったし、ユダヤ人が考え出した唯一の絶対的な神と、それを頂点として厳格に秩序づけられたキリスト教の世界像は、そのまま皇帝の絶対権とそれによって統治されるべき大帝国の姿と似通っており、こういうやり方でのみ生き続けて行く可能性を持っていたのである。いつしか、ビザンチン帝国となっていって、その最盛期を迎えるが、8世紀頃になるとイスラムの侵攻を受けるようになって次第に衰退していく。帝国は、1071年マラズギルトの闘いでセルジューク(イスラム・スンニ派トルコ王朝)に破れ、1453年にはオスマントルコのムハメッド2世が帝国を滅ぼし、歴史よりその足跡をを消して行くことになる。今から約545年も前のことである。戦いは凄惨なものであり、イスラム法では3日間の略奪が許されるが、その略奪が戦争そのもの以上にすごい凄惨なものだったという。
コンスタンティヌス父子のどちらが建てたのか知らないが、神の英知(アヤ・ソフィア)のファサード(正面)はローマのフォールムにある巨大なバシルカを再現し、そのクーポラ(円蓋)はパンテオンと同じ本格的なドーム工法を用いたもので、パンテオンをはるかに凌ぐもので、建築史上最高のものであるに違いない。こんなにも大きな空間はヴァチカンのサン・ピエトロ寺院以外にはもう見ることが出来ないだろう(専門的なことは判らないが、カンボジア・アンコールに見られる巨大石造建築はセリダシ工法による単なる見せかけのもので本格的なドーム建築とは別種のものである)。アヤ・ソフィアの巨大ドームが完成したとき、その床の上にひれ伏し、ユスティニアヌスはエルサレムのソロモンの神殿に勝ったと絶叫した。旧約聖書に描かれたあの幻の神殿を再建することが、ビザンチンの皇帝にとっても、ルネッサンスの法王にとっても同じ野心であったに違いない。この時ユスティアヌスの叫んだ床には花崗岩と変成岩の円形のモザイクからなる玉座が残存しており、以来伝統的にここが玉座としてまもられ、ヴィザンチンの中心、すなわち世界の中心とされた。皇帝は地上の神となり、天にある神とは、地上の神である皇帝を通してのみ、人々は天の神と結ばれることが出来た。この政教一致の強固な秩序がコンスタンチヌスが建国した新体制を千年にわたって維持しえたのである。皇帝は偶像化され、その肖像には神聖なものが宿っているとされ、全身宝石で飾りたて、それを礼拝の対象とした。神や聖母、キリストを表した姿をイコンといい、皇帝の偶像はまったくこのイコンを意味し、神そのもののように礼拝する習慣が出来てきたし、ビザンチン美術の独特の性格や様式もここから生まれてきたのである。金銀の背景に煌めく青や赤の礼拝像、イコンがビザンチンの精神の基本であり神の力の変わらないように、変わらない形式を保っている。
1453年ムハメット2世がヴィザンチンを征服し、アヤ・ソフィアに入るとこれをモスク(イスラム寺院)に変えてしまい、ドームの十字架は三日月にかわり、玉座と祭壇とイコンは取り払われ、床に絨毯が敷かれ、メッカの方向に祭壇の向きが変えられて、ここだけが斜め方向になっている。ニッチ(彫刻等を置くための壁のクボミの部分)には巨大なアラビア文字でアッラー、モハメッド等の予言者の名前とか書かれた木製のプロパガンダが掲げられている。しかし、祭壇の上のアプス(キリスト教の聖堂や礼拝室の奥に設けられた半円や多角形の空間)に残っている聖母子のイコン等は破壊されておらず、プラスターで塗り込められていただけで、19世紀にはいるとトルコ政府はこれを復元、祈りの場としてでなく歴史博物館とした。保存状態のもっと良いものはカハーリエ・カミエ教会に見られる。偶像を作らず、ただ戒律と祈りの中でのみ、非現の神に祈るイスラムが、形と偶像を尊ぶキリスト教の文明を消去し、幾何学的に完璧なまでの見事な、放射相称で作られ理想の実現といわれたバシリカにミナレット(尖塔)がたてられ、アザーンとコーランの響きがこだまする。コンスタンティヌスは世界を征服しようとして、ここ東西の要衝に都を持ってきたが、最後には東洋の風土が勝利を納め、どのようにもがいてもう再び変化することはあるまい。街の円屋根とミナレットの姿を赤紫に変えて日はゆっくりと落ちてゆく。コンスタンチティノポリスは闇の中に静かに沈み、かわりにイスタンブールが浮かび上がってきた。
アラビアの伝統のうちで近代西欧文化が深く影響を受けたのは詩文学の世界をまっさきにあげねばならない。男女の戒律が厳しく、階級差も強かったイスラムの文化の中で特に著しく発達したのが「かなわぬ恋い」の伝統であった。遠く隔てられて生涯寄り添うことの出来ない男女の恋物語は、胸を引き絞るような、引き裂くような叙情詩によって発露され、それがアラビアの旋律にかさねられ、何とも云えぬ叙情詩を形成していった。女たちは髪を見せない、顔も満足に見せない、だから男はただちらっと見た黒い瞳に恋をした。黒い目の彫りの深い美人が多い。アラビアとラテンとの混血が東洋でも西洋でもない風貌を与えている。このアラブの叙情詩が世界の、この叙情詩世界の規範となっていったのである。勿論古代におけるこの地に伝わる女神信仰がその基礎となったに違いない。
この雑然とした街は文化と歴史のルツボであり、二つの大陸にまたがった街、それがイスタンブールなのだ。たんに西洋と東洋を繋ぐだけでなく、ギリシャとペルシャの文明の支配から、それを昇華させて新しい創造に関与していったし、またコンスタンティヌスが中世の始まりであり、ムハメッド2世が近世への変貌の始まりでもあった。つまり、ここは世界の歴史の古代、中世、近世の3つの時代の結節点であるに違いない。(8/24/89)