スルタンメフメット2世とアタトゥルク


 ファティーフ(征服者)と言われるムフメット2世は19才の若さでオスマントルコのスルタン(王)となり、若干22才でビザンチン1千年の帝国コンスタンチンノーブルを陥落させた。どこか織田信長や豊臣秀吉を連想させる。

 1452年ボスポラス海峡の最峡部にアジア側(アナドルヒサール)とヨーロッパ側(ルンメリヒサール)に要塞を建築し、この2つの城(ヒサール)によってボスポラス海峡の守りは固められた。翌1453年ムフメット2世は、大城壁に囲まれたコンスタンティノーブルへの攻撃を開始したが、ビザンチン側は金角湾の入り口に巨大な鎖を渡し船の進入を防いだ。鎖で塞いだ金角湾に大きな船など入ってこられる筈のない湾に突然オスマントルコ軍が入ってその姿を現したのには全く吃驚してしっまった。なんと驚くことに、ムフメット2世は、ボスポラス海峡から軍艦70隻を海でなく、陸のガラタを越えて移動させて来たのだった。陸の山に丸太を敷き牛を使った力で、船を引き上げるという奇想天外の発想を持って大胆に行動した。金角湾に現れたオスマン軍艦にびっくりした、ビザンチン軍はすっかりおののき、一ヶ月の後陥落することになった。この時の鎖は軍事博物館に展示されている。

 メフメット2世について話したからには、アタトゥルクについても述べねばならない。アタトゥルク(トルコの父)なんていったい誰のことを指し示しているのだろうか。ムスタファ・ケマルはギリシャで生まれたが生粋のトルコ人で、トルコで育ちバルカン戦争に参戦して戦功を挙げている。第一次世界大戦では英仏連合軍を撃退し、1919年5月19日イスタンブールからサムスンに上陸した。当時スルタン・マフッメト6世は健在でその政府もあったが、これは英仏の傀儡に過ぎず、ケマルによる革命の嚆矢となった。1923年10月29日アンカラを首都にトルコ共和国の誕生するする事になり、ケマルは共和国の初代大統領についた。そしてトルコ国民会議会からアタトゥルクの称号が送られた。

 ケマルは優秀な軍人としてではなく、その政策がふるっており、近代における最も優れた人物の一人であるに違いない。彼の外交政策は「内に平和、世界に平和」ただそれだけであり、これが全てであった。また宗教と政治を完全に分離した。現在の政治状況を見ても、中東で、イスラム諸国で宗政分離を唱えるだけでも大変なことなのに良くぞそこまで決心したものである。一夫多妻制の廃止、フェズ(トルコ帽子)の禁止、男女同権、新民法の実施とやつぎばやに新しい政策を打ち出した。世俗国家化する事はイスラムの古い教義に背くもので、アッラーの神を冒涜するにも近いもので良くもそこまで決意できたものである。イスラムの環境を考えるとき。ケマルは世界に類の見ない立派な政治家の一人であるにに違いない。


homeに戻る  随筆・評論に戻る  旅雑学  トルコ紀行