便秘 一郎の憂鬱(創作)
一郎は当年69才、腎臓の病気を患ってから、かれこれ8年になろうとしている。かれはサラリーマンで毎年会社の検診で尿素窒素の異常値を指摘されてきたが、多少は気になるものの、自分自身の体調は頗る良好でなんら問題なしと思ってきた。一郎は63才で定年退職したが、彼は薬剤師の免許をもっており、その免許のおかげで傍系の会社の管理薬剤師として重宝がられ、定年後も引き続き、お世話になっていた。まあ、いってみれば気楽なサラリーマン稼業をやってきた。若い頃少し商売をやっていたが、持ち前のボンボン育ち、激しい商売の世界ではついていけずの落伍者となってしまった。これが大きな人生にたいする劣等感となってしまい、いつまでもついて纏うこととなってしまった。こんな事情で、同窓より少し遅れて始めたサラリーマン稼業も、持ち前の誠実で正直な性格で、特別職場でトラブルを起こすことなく平々凡々とやってきた。それこそ猛烈社員ではないが、特に会社に害するわけでもなく、それなりに会社に貢献してきた。もともと型にはまった、単純な、変化のない生活の方が向いていたのかも知れない。決して無駄使いするでもなく、アフターファイブ、ちょっと一杯やるわけでなく、それこそ、いんげん実直、365日自宅と会社を往復するだけ、決して寄り道することなく、この40数年を過ごしてきた。臥薪嘗胆よくもできた男である。何の変化もない人生を歩むのもこれまた難しいものだが、ここまで徹底して聖人君子の道を歩むことが出来たのは、まったくその性格であり、若い頃の商売の失敗により、世の中に自信を喪失した結果である。
一郎は若いときからいわゆる便秘症である。一郎のメランコリー症候群はすべてこの便秘に由来している。便秘の原因はいろいろあるだろう。便通自体、腸の蠕動運動の結果として行われてくるので、腸管麻痺なんかで起こってくるかも知れない。交通事故なんかで、脊髄損傷、腸管麻痺の結果、頑固な便秘が起こるかも知れない。反対に、世の中、変わった御人もおられ、2週間ぐらいの便秘はへっちゃら、場合によっては1カ月位便秘してもどうもないというお方もいらっしゃる。こういう方の出し入れ、収支決算はどのようになっているのだろうか。100%消化吸収されているのだろうか。物言わぬは腹ふくるる思いするなりとは、よくもいったもので、出る物が出ないといろいろと不都合が出てくるものである。普通一般には糖質を沢山取りすぎれば、軟便に傾くものだが、野菜類を殆ど取らない食生活では、どうも便秘になり易いようだ。一郎の青春時代はそれこそ戦争の真っ最中、「欲しがりません勝つまでは」の物なし時代、毎日毎日食い物の夢を見て育った。こんな時代的背景があったのだろう、このころ育った奴はみんな、みんな食い気が旺盛、言い方を変えれば食い意地が汚い。そらそうだろう、エネルギーの有り余った青春時代、なんでもよいから腹一杯食べる夢ばかり見て暮らしてきたので、飽食の時代に変わって、いまこそ腹一杯何でも喰ってやろうと思うのも、あさましことだが無理ないことだ。そのうえ一郎は7人兄弟、家庭内でも生存競争が烈しかった。一郎は長男の甚六、もともと盗み食いなんて出来るわけでなく2人の弟たちや姉たちによって、家庭内での生存競争には、いつも一敗地に追い込まれていた。彼は戦争中学徒動員で名古屋の飛行機の部品工場で働いていたが、それこそ家中総出で彼の食料事情を支えてきた。食べ物のない時代、何処でどう都合をつけたのか、真っ白いお餅を搗き、丸ごと差し入れた。一臼、少し小振りなら54個、普通サイズなら48個は出来たはずだが、9人の家族にもかかわらず、家には一個たりと残されなかった。徹底した管理下に置かれていた54個のダイヤ、これをそっくりリックに詰めかついで、名古屋の工場まで挺身差し入れ隊がやっていった。もちろん、途中の交通事情は悪く、空襲警報の出た時なんど日帰りすることができず野宿するはめにあったこともあるようだ。ここまでした、母親の気持ちががボンボンの一郎には十分理解できなかったようである。でも悪ガキの弟どもはこの貴重なダイヤモンドの2〜3個はすくねていた。母親は、自分は1個たりと口にするわけでなく、弟たちの行為を黙認していた。まあ、戦時中の食糧難の時代、お国のためには致し方ないことだった。
一郎の便秘症の原因はこれだと特定しがたいが、食生活の異常によるものと想われる。甘い物が好きで、節制が効かない。大福餅をスーパーの安売りで買ってきて、一日で10個位平らげる。家族に見つかると、不平不満の苦情を効くので、買ってきてもどこかに隠して食べることになる。自分自身は2個も食べれば満足するのだが、少し糖尿が出ているので、家族、とりわけ妻淑子より強い不満を聴くのがいやで、どうしても隠れて食べることになる。残った物を捨て去ることは、もったいない感覚で、どうしても全部食べてしまうことになる。もったいない、腹にいれとけば腐らない思考過程、どうしょうもない。お酒はもともといけないたちで、ビールの一口でも飲めば顔から真っ赤になり、それ以上は体が受けつけない。ビールさえも飲めないのに、ピーナッツを買ってきて、これまた一度に袋毎全部平らげてしまう。どうも節制がきかない。食い物のない戦中、戦後を過ごしてきたので、その反作用の如きだ。サラリーマンになってからでも、喫茶店でコーヒ一杯飲むわけでなく、無駄使いと無縁の一郎が、こと食い意地にかけては全く自制が出来ない。会社帰りにパチンコするでもなく、一杯飲みにゆくでもなし、人生に何が面白いのか、倹約する意識はなくても、ただただお金は使わない、これが生活のモットーとなってしまったにちがいない。月給を家に運ぶだけの人間に成り下がってしまったので家のローンはすっかり払い終わり、最近ではまた新しく家を新築した。蓄える一方、出すことはせず、上下大いに違う。まことに立派なことだ。
特別偏食があるわでなし、大福を一度に10個も喰らう食生活の異常さが全てである。大福を喰らうのも良いだろう。しかし、3食を減らすとか、何処かでバランスを取らねばならない。バランスを取るのは健全な食生活の常識である。通常の食事を減らすと、それはそれで理由をしっこく聴かれる。何処かしんどいのではないか、どうしたのかと問われるのが、わずらわしい。無理してでも沢山食べることになる。まったく、ガキじゃあるまいし、自制のきかない、精神病者だ。暴飲暴食、この食い意地の汚さは、精神神経学的にフラストレイションより来ているのである。商売の失敗後の無機質な生活の中で、10年一日の如く、何の変化も求めない、変化するのが恐い、この生活のヘドロがしらずしらずのまに、つもりつもってフラストレイションを形成していったに違いない。ここらあたりに夫婦の確執の基礎があったのだろう。
会社の検診システムは異常値が出れば各個人で精密検査を受けることになっている。ただこれこれの項目で異常値が出たので診察を受けたほうがいいといってくるだけである。一郎はいつも腎障害の疑いを指摘されてきた。腎機能の血液検査なんて常時移動しており、日差変動があって当然だ。腎透析を始める基準はハッキリと決まっているだろう。しかし現実はどうだろうか。数年も前になるが、神戸のK病院では、透析の必要でない患者さんまで透析していて懲発されたことがある。腎透析の患者さんは身体障害者に認定を受けることになり、患者さんの医療費の自己負担はなくなり、病院側にとってはこれほど有り難い患者はない。ある意味で、病院にとっては透析患者は大変な財産なのだ。噂だけでハッキリしたことは判らないが、大病院から透析専門の病院に患者を紹介すれば、1人頭、数十万円のリペートが支払われると言う。透析医院は、良く繁盛しているし、あちこちに、チェーン医院を開設しているのが良く見られるというのも事実である。こんな話は実のない虚の話であるが、透析専門の病院は多額納税者ばかりであるのも事実だ。一方病院側も大変だ。素人目には良く見えても、透析患者や患者さんを預かるというのはほんとにたいへんなことなのだ。48時間中、昼も夜も、日曜も祭日もない、毎日毎日大切な患者さんの命を預かっているのだ。笠置シズコさんじゃないが、たまの日曜、サンデーと言うのに休みなし、365日働かねばならない。もちろん、これに関わるコメディカルも必要だ。たまの土曜日の晩なんかビールの一杯でものみたいのにこれもままならない。とにかくも隣の花は赤く、綺麗だ。
妻の淑子は田舎の商家の娘で、高校をあがるとこれまた、商家の一郎のもとに嫁いできた。淑子は5人兄弟の長女で兄弟はみんな女ばかりだった。まあまあ、典型的な中流家庭に育ち、世間のことなどなにもわからず、親の言うまま嫁いできたので、どっちもどっちボンボン育ちとお嬢さんと、まあすてきなカップルだった。 淑子はもともと、暢気もので物事に余りこだわらない性格であった。それがいつのまにか病的神経質者となっている。やはり、夫の商売の失敗が響いているのだろう。それ以来の生活の激変が、生活環境の変化がそうさせてしまった。2度目の自宅の新築では、何にもやってくれない夫に変わり、自分自身が業者との折衝する立場にたたねばならなっかし、女手一つで切り盛りする重圧がだんだんと、精神的圧迫を加えていったのだろう。一郎の諦めににた不甲斐なさが淑子をそこまでおいつめていった。新しく2度目の自宅が竣工するだんどりになったが、自分自身業者に騙されているのではないかと、強迫観念に追い込まれ、全く精神病者の如くなっていってしまった。床下にはベンチレイションを入れ、白蟻対策も万全をきしたのに、夏の盛りの夜、迷い込んできた昆虫を捕まえ大騒ぎした。アリを試験管にとっては親戚中を見せて回り、自分の家は、欠陥住宅だと断定しその対策に苦慮した。建設業者に苦情を申し込むことも、一日数回、毎日毎日一年以上も続いた。もともと潔白癖もあったのだが、この頃になるともう立派に病的状態となってしまった。病的意識もないということは、立派な分裂病のはしりかも知れない。
潔癖症といえば、淑子はいつのころからか、大変きれい好きになった。きれい好きと言うより、それを通り越した、潔癖癖と言うべきかも知れない。特に2度目の家の新築の頃から、少し病的なまでに昂進していた。朝から掃除機をかけるとほぼ一日中かけている。そらそうだろう、はじめの建て売りと違い、一戸建ての注文住宅、大切な大切な財産、むざむざ汚してしまってはなるものか。あさから、一日中掃除に手を出すのも、無理からぬこと、でも人間程々がよい。未分不相応に良いものを持つと、ろくなことがない。神経を使いすぎ、余計なことに悩まねばならない。それも本人の自制を効く範囲ならともかく、それ以上になってしまうと神経衰弱にならざるを得ない。とどのつまり精神錯乱状態だ。
一郎が学校を出たのが22才、こんな若造に商売なんて厳しい世界がわかるはずがない。一郎の父は、自分がたたき上げのため、自分の手で一郎を商売の道で育て上げようとした。これがすべて歯車を狂わせたもともとの原因であり、父親のわが子可愛さの甘さであり、これが一郎をして商売に失敗する原因であった。得意先を回っても思うように売上げが伸びない。たまに売れると集金が出来ない。それでも数年間は、親の言われるまま、まじめに得意先回りをした。大和は昔から富山と並んでいわゆる配置売薬の盛んな土地であり、大阪のメーカーより仕入れた医薬品原料を、これら売薬メーカーに卸すのが一郎の商売であった。医薬品業界なんて比較的新しいもので、いまでこそときめく、T薬品、S株式会社、F貿易、T薬品等の大会社は全て個人商店であり、戦前、戦後を通して、田舎の地方の問屋と直接取引していたようだ。資本金数百億の大会社のオーナーも一郎の父と個人的親交をもっており、これを息子の商売に利用しようとしたが、戦後の経済の仕組みの変革を読み違えた父の誤算であり失敗であった。すくなくともはじめから甘やかすのではなく、一郎にも他人の飯を食わせ、世間の厳しい風を体験さすべきだった。一郎の父は文字どおり苦学して、わずか18才で県内では一番最初の一桁で薬剤師の免許を得ており、これを武器に東京に遊学したりしていた。10代後半の学生時代、実家に帰る10数キロの道のり、藁草履は使うと消耗し、もったいないので素足で歩きとうしたと、日記に記されている。
じみつな商売、大きなことさえ考えなければどうということなかったはずだ。商売の調子の良いときは、よかったが、ぼんぼん、ぼんぼんとおだてられ、掴まされるのは不渡りの手形のみ、家に帰ると不機嫌な親父の顔色、商売なんて少しもおもしろなかった。毎日毎日、月給取りのように家を出てゆくが、行くところなんてあるわけでなし、得意回りも手を抜くようになれば、世知辛い世の中、おかしな道にはまりこんでいくのが世の常、商売もせずに麻雀に明け暮れするようになった。平日の昼間から麻雀に明け暮れするような人達はどんな種類の方か大体相場通り、負ければもともと、たまに勝ってもお金なんか貰えない。これでは適当に遊ばれているばかりだ。でも賭事にでも、時間をつぶさなければ、どないにもならない。そうこうしているうちに、商売の金に手を出し、商品を横流しするやらで破産状態、親父が最後の力を振り絞って、尻を拭いたが、ボンボン育ちの大名商売も、考えるまでもなく始めから結果が見えていたのだ。20才代前半の若造に、結果だけを求める親父との日常の軋轢、確執があったのだが、自分の考えだけ押しつける親父の責任なしとは謂れはしまい。
一郎が透析を受けるようになってから、水分の摂取の制限によりその便秘は一段とひどい状態となってきていた。腎機能が低下しているので、腎臓に負担をかけるものは出来るだけ排除しなければならないのは自明の事実であるが、なにも浮腫の見られないものまで(腎機能が代償されている)、極端な水分の成分の制限を強いるのは如何なものか?血液検査のデータのみが万能でもない気もするのだが。普通の緩下剤では、全く用をたさず、グリセリンを直接注入しなければならなかった。しかも一度に60cc以上、場合によっては200cc〜300cc位用いることもあった。浣腸と排便後の壮快感は忘れられるものではない。しかし、あの薬液の注入後の、あの、たえにたえて我慢しなければならない瞬間、これを耐え抜かねばならない苦痛に何回かに一回は確実に失敗していた。慣れているはずなのにどうも粗相する。われながら、まことに嘆かわしい。またたまにトイレを汚すこともある。随分念を入れて奇麗にしとくのだが、淑子には不満足なのだ。このような毎日の儀式の中で、一郎と淑子との確執はほぼ頂点に達していた。また今日もやってしまった。自分ながら嘆かわしいがどないもならん。嫌われているのは良く承知しているので出来るだけ公衆便所を利用しているが、寒い冬の夜更けなんかどうもしようない。この浣腸もまめにやっておればともかく、糞詰まりの状態が著名に出てくるまで放置しているものだから、いざ浣腸と言っても大事になってしまう。
とうとう運命の日がやってきた。妻の淑子の機嫌が頗る悪い。トイレを汚したことを謝ったがゆるしてくれない。それに今日は同居の娘まで母親の方を持ちよる。理知的な、冷静な娘は、何も自分まで母親の方を持つわけでないが、母親のヒステリックな振る舞い、神経質までのその性格から、おとなしい父親を裏切り、母親の方を持たねば収まりがつかないのを十分承知しているのだ。一郎の新築した家も、娘の協力もあったが、自分のサラリーマン生活から捻出されたものであり、何も自分が追い出される筋合いのものでないが、淑子に荷担した娘にまでののしられ、寒い夜更けの中、家を出ていった。
この事件の数カ月後、一郎は平成10年12月9日享年70才、慢性腎不全の心機能低下により息を引き取った。幼児よりボンボン、ぼんぼんとおだてられ、成人してからは奈落の底に陥れられ、40年もの長きにわたり平々凡々とサラリーマンをやってきた。暇があれば孫を連れて、自分自身が入るべき墓地の草むしりに精をだしたり、あるいは仏壇を早く購入したいという、もう既に仏の境地に入っていたのだろうか。この一郎にとって人生とは何であったのか、何が楽しみがあったのだろうか。悔やまれる人生であったに違いない。