足立美術館を鑑賞して(横山大観と富岡鉄斎)


画面右上部に滝が見られる。この滝の水は循環式で再利用されているという。


 珍しいことも起こるものである。平成18年度は所用のため3回松江を訪れた。6月、10月とこの11月の3回である。今まで数回この地を訪れたが、同じ年に3回も訪れるのは初めての経験だ。しかもこの3回ともほぼ同じコースを観光して回った。出雲大社にお参りし、お堀のコースを小船に乗って廻り、足立美術館を訪問するコースであった。ある時はティファーニイの美術館(美術館というより庭園)を鑑賞し、玉造温泉に入浴し、あるいはワイナリーでワインというより葡萄液を試飲したり、境港では海産物のお土産を買い求めた。

堀端の田部美術館の不昧公ゆかりの焼きもん(もの)も興味を注がれたが、武家屋敷跡や小泉八雲の旧居跡もそれぞれ雰囲気があり、それぞれに味わい深いものだった。昔読んだハーンの作品を思い出しながら、遠い昔に思いを馳せ、松江は日本の故郷を呼び起こす何かがあるようだった。

松江訪問時に必ず訪れたのは、いずれの時も足立美術館(昭和45年秋開設)であった。昔(5〜6年前)訪れた時は確か借景の滝は無かったようであった。いつのまにか鶴亀山の高さ15mの立派な滝が出来上がっていた。滝によってこの日本式庭園(?)も一段と格式が上がったようだ。注意して見ないと、この滝に気づかないかもしれないが、写真を見るとハッキリと認識されるようだ。ただし、この水は枯山水の庭園に流れ込むが、循環式の装置が組み込まれているようで近代的システムとなっているようだ。庭園の中に川が流れ(池庭)、枯山水や黒松と白い砂(白砂青庭)、あるいは苔(苔庭)の緑のハーモニーが素晴らしい。置石も風情が感じられ、なかなか手の込んだ名園だ。創設者足立全康さんの「庭園もまた一幅の絵画である」という言葉どおり、来館者を魅了してやまないようだ。

米国の庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」(JOJG)は、「2006年日本庭園ランキング」を発表し、足立美術館の庭園が2003年、2004年、2005年に続き、4年連続で「庭園日本一」に選ばれたという。
JOJGは、米国在住のダグラス・ロス氏が日本庭園を世界中に紹介するために1998年に創刊した英語の隔月刊誌で、大学や図書館などの教育関係者、造園関係者ら、英語圏を中心とする世界37ヵ国の人々に親しまれているものである。このランキングは、日・米・豪の専門家たちが03年までに日本全国389ヵ所、04年には631ヵ所、05年には693ヵ所、06年には731ヵ所の 庭園を調査し、庭そのものの質、建物との調和、利用者への対応などを総合的に判断し順位がつけられ、そのうち足立美術館の庭園は「日本一、いやおそらく世界一の庭園としてトップの座を守り続けている」とし、「成功の要因のひとつは、美術館スタッフ一人ひとりが行う毎日の徹底的な手入れと管理計画である」と評価されている。確かに奇麗な行き届いた庭園であるに違いない。でもあくまでも現代的、近代的庭園の範疇から外れるものではない。自然と人工の調和美の集大成かもしれないが、日本庭園独自の侘び寂びの感覚からは、外れたものに違いないようだ。

庭園同様、美術館も素晴らしかった。今回の展示物は10月に訪れた時と同じものだった。同館は四季折々に展示替えを行うようだった。

圧巻はやはり、紅葉(第18回院展出品作)なる6曲1双の屏風である。昭和6年に書かれたこの作品は絢爛豪華なもので、群青に彩られた流水のバックに白金泥で漣(さざなみ)を加え、秋の景色を表現されている。左の半双は真っ赤な紅葉で画面を覆いつくされ、右の半双には彼方に飛び去る鶺鴒(セキレイ)と流水の古岩の上に飛び散る数葉の紅葉と小さな滝が表現されている。どこか深遠の渓谷の風景だろう。張り詰めた気品を画面一杯に保持されているのは、さすが大観ならではの人格的高潔さの発露かも知れない。完全無比、完成された完璧な作品なのだ。日本式家屋との調和によって、庭園に彩(いろどり)を添える、あくまでも計算された演出だろう(イタリアでの日本美術展覧会の出品作)。丁度玄関を入った右側にこの作品の複製画(模写図)が架かっていた。あまりにも緻密過ぎて、写真のコピーかと想ったのは僕だけだろうか。

もう一つ気になる作品がある。10月と今回(11月19日)には展示されていなかったが、やはり大観の作品「無我」であった。この作品は明治30年の第2回日本絵画共進会に出品されたもので5位(銅牌)入賞の作品(本年6月には展示されていた)である。顔のふくよかな、仏の童子を髣髴させる平安の袍(ころも)をまとい、大人の草鞋を履き、川辺に佇んでいる。足元には菫(すみれ)の花が数輪咲き、ふっくらした猫柳が春のそよ風にそよいでいる。禅の世界の無を形にした童子を通じて表現する大観29歳の新進気鋭の思考を凝らしたもので、当時の新聞報道(報知新聞)によれば「無我は無我にあらず、大いに野心を筆致に存するに似たり」と評価されたものだ。背部の猫柳の描線、慈姑頭(くすしあたま)の繊細な毛描など伝統的日本画の手法は東京美術学校(東京芸大)で身に着けたものだろう。良く理解できないが素晴らしい作品に違いない。昔この作品を東博で鑑賞したことがある。東博(東京国立博物館)の館蔵リストにも掲載されている。

真物(ほんもん)は唯一無二のものである筈だが、いづれがホンモンでいづれがニセモノだろうか。でも、美術愛好者に聞いてみれば、高名な作家の作品には習作というものがあり、いづれも真物だという。こういう作品は、それぞれが面白く、高潔な気分にさせてくれたら、それで十二分なのだ。それ以上詮索すべきでない。

僕の好きな作家に富岡鉄斎がある。鉄斎ならこういう題材ならどう描くだろうか。変な想像を描きたてながら、作品(紅葉)を鑑賞していた。鉄斎ならこんな立派な作品にはならなかっただろう。紅葉も古木も苔岩も太い実線で力強く、墨で描いただろう。遠近法も違うだろう。彼なら簡単なほんの数字だけの賛を入れたに違いない。けっして端正な調和のとれたものには、仕上がっていないだろう。

仏(禅)の無欲の童子も寒山拾得のような形相になったかも知れないし、例の賛もどう書いただろうか。こちらは簡単な賛では済まされないだろう。鉄斎と同月日生まれという北宋の蘇東波の詩でも引用しただろうか。変な連想が次々と浮かんでくる。

大観の画は緻密で奇麗過ぎる。神州第一峰でも神国日本でも端正すぎる。同じ富士山が好きでも、鉄斎の富士山(奈良大和文華館蔵)には大胆さと面白さがある。まさに、大観と鉄斎とは奇麗さと面白さに尽きるようだ。(H18.11.19)


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