ワインの蘊蓄(ワインと詩) 2
口の中で味を味わうのはどこらあたりで行うのだろうか。舌の先、真ん中、側縁、皆違うはずだ。甘い味、酸っぱい味、苦い味、渋い味、辛い味等、五味、すべてこれを関知する場所は舌の上でも違うはずだ。味を知覚する味蕾はあちこちに散らばっているはずだ。考える以上にまばらに存在するようだ。
まず最初、ベロの先で舐めてみる。口に含む前に舐めてみるが良い。甘味がハッキリ自覚できる。ベロの先でなければならない。ワインを口に含んでしまっては、この感じは掴めないだろう。
口腔粘膜はどうだろうか。ワインをテスチングするとき頬粘膜をクツクツ云わせてウガイするが如き状態で味、香りを吟味するが、これは頬粘膜からの味見をしているに違いないようだ。ブーケの広がりはこうして初めて味わうことが出来るのだ。でもこれは才ある人にだけ許されるもので、僕には関係ない。
7月、ブドウの開花後、高温乾燥を迎えると、果皮は肥厚し、それから作られるワインはタイニックとなり、深い色調と優れた香気を増すと言うが、優れたソムリエはこれらをすべて識別するようだ。銘柄だけでなく何年のものか、かぎわけるという。やはりこれらは天賦の才であるに違いないようだ。
ブドウには葡萄酒にする種類のものと生で食する種類のものがあるという。でも街の市場や街頭なんかで売られている生のブドウは、それぞれの土地の産であり、フランス、イタリア、南米、世界中、何処でもそれなりにウマい。でも日本に勝るものを経験したことはない。その点、日本のマスカットは味は上品で、適度の甘さと香りがあり、全く素晴らしい。世界一だ。甘味だけなら巨砲がある。甘味ではこれに勝るものはないし、種なしブドウも随分甘いものだ。日本のブドウはそのまま食してはおそらく世界一だろう。
日本では、葡萄といえば、そのまま生で食する果物というイメージがあるが、ヨーロッパでは、葡萄といえぱ「ワイン」となる。事実、日本では98%が生食用で、ワインになるのはほんの少量だ。ところが、ヨーロッパでは約90%がワイン用となる。生のまま食べる葡萄からでもワインは造ることができるが、水っぽいワインになってしまうようだ。これは酸味(タンニン)が足りないためで、生食用は甘いことが第一であるが、ワイン用の葡萄には、糖分と酸味が必要になる。酸味は、ワインを造る上で、まろやかな味とコクを出してくれるし、ワインにするときは破砕するので、皮の厚さや粒の大きさなどの見ためのよさは、生食用とは違い重要ではないようだ。しかも、皮の厚い粒の方がタンニン量が多いようで、このタンニンがえも云われぬワインの風味をかもしだすようでもある。また、余り香りの強い葡萄は、よいワインにはなりにくいとされているようだ。
フランス辺りの土地は痩せており、みずみずしい、甘味たっぷりの美味しいブドウは育たない。生で美味しいブドウが育つには土地が痩せすぎているようだ。南アや南米、オーストラリアなんかも同様のことが言えるようだ。なるほど、なるほど、シルクロードのブドウは水気が迸っており、甘味たっぷり、乾燥した風土と共に素晴らしく美味しいものであるに違いないが、日本のブドウには勝てっこないだろう。シルクロードの干しぶどうは素晴らしく美味しいものだったが。
生で食して美味しいものでないからこそ、葡萄酒に加工したもので、それ以外に使い道の無かったものである。幸いフランス人に広く受け入れられ、まさしくお茶代わりに使用されるような習慣となってきた。フランスではワインはミネラルウオーターより安価であると、伝説のようにいわれてきた。事実、街中のレストランではいつも経験することだった。このように、民衆にこよなく愛され受け入れられてきたワインが最近急騰(ことにボルドーに)し庶民の感覚からづれてきたようだ。水と同様の存在だったワインが急騰し庶民の生活からかけ離れたものになってきたようだ。ことにボルドーなんかにこの傾向が強く見られるようだ。これはまさしく老獪な狡賢いフランス商人ネゴシアンに甘く乗せられた日本人愛好者の責任でもある。ボルドー高騰の責任はまったく、うまく仕掛けられた罠に日本人がのってしまったようだ。いや乗せられてしまったのである。
ブドウの樹の種類が違うとだけで、片づけてしまう質のものではなさそうだ。確かに種は違うようだ。でも、不味いからこそ、それを加工するようになった。それが原点なのだ。なんでもかんでも、伝統だ伝統だと言ってる間に、美味しい安価なチリワインが出来てしまった。ボルドーよ、さようなら、いつかまた合う日もあることだろう。
何方か教えて下さい。アロマとブーケの違いの味わい方を。どうしたら、各々の香りがかぎわけられるのでしょうか。やはり、何事も経験かな。まだまだ修業の足りない次郎さんにはむりだろうねえ。