僕のワイン物語
僕のワイン物語(ワイン歴8カ月のウンチク、お笑いである)
ワインとグルメ
最近のワインブームは凄い勢いだ。以前からときどき、ほんのまれにワインをたしなんだことがあったが、ワインの味は殆ど理解できないじまいだ。白の方が口当たりも良いようで、白ワインを少し冷やして飲べば、また格別である。嗜んだと云っても、僕のワインはこの程度のモンで、ホントに悲しい限りだ。でもワイン通に言わせれば白より赤の方が美味しいらしく、奥が深いと宣う。
ワインとグルメは切っても切れない関係にある。ワインはグルメにとってはなくてはならない存在だ。なんぼ立派なグルメであってもワインなしでは寂しい限りだ。ワインなしではグルメと言いがたいかもしれない。食事の楽しみは美味しいワインと美味しい料理の調和したものから、初めて創り出されるに違いない。フランス料理の美味しさは、美味しいワインによって醸し出される。この両者のハーモニーがなければならない。
世界の3大珍味と言われる、フォアグラ、トリフ、キャビアが出てくる料理は一応高級料理なのだろう。フランス料理では最高級に属するものに違いない。最近では和食の創作料理でも、こういう類の高級素材が取り入れられて、高級感を煽っているようだ。しかし、この種のものは珍しいものであるには違いないが、それ程美味なるものだろうか。僕は決して美味なるものだとは思わない。少しぐらい色どりに、あっても良いが、それ自体少なくとも美味しいものとは思わない。下司の勘ぐりには違いないが、鵞鳥のレバーも人工的に量産される時代になったし、キャビアもそれらしく人工的に量産されているらしい。でも、特に天然物だからと言って、格別美味しいものではなさそうだ。
ワインも、もともと、食事の前後、食欲増進の触媒として、あるいは食後のムード作りに用いられてきたようだが、最近では一本数万円もする赤ワインが流行してきたが、これなんかは、その味の、それなりに理解して飲むことが出来る者はいかほどいるのだろうか。悲しいことに、下戸の僕にはさっぱりだ。
ワインと体調(必要十分条件)
ビールを飲むとき、喉が乾いていることが必須の条件だ。喉越しにグッグッと染み込んでいく感じが、何とも表現しがたい。特に風呂上がりのキューと、一杯が堪られない。でも二日酔いなんかで、異常に喉が乾く時でも、ビールが苦く感じるときもある。喉の乾きだけが、全ての条件ではないようだ。喉の乾きは必要条件となっても十分条件ではないようだ。
同じことがワインについても言えるようだ。ワインをいただくときの受け入れ側の体調によって随分と、美味しくなったり、不味くなったりするようだ。なんぼボルドー特級をいただいても、胃の調子がいまひとつでは、不味いものになるに違いない。これはアルコール類全てに共通している。酒を飲むときは万全の体調が必要十分条件である。反対にワインの美味しいときは体調が万全であるようだ。
美味しいお酒と上等な酒
京都祇園のある料理屋で天狗の舞(敦賀)の大吟醸を飲んだことがある。酒の味の解らない僕にとってこれが美味しいものかどうか、良く解らなかった。元来下戸の僕には、少し辛口の冷や酒の方が美味しいようにも思うのだが。少し辛そうで旨い冷やがグッグッと喉に来るようだ。ビールの美味しいときは喉元にグッグッと来るように、日本酒も冷やでも美味しいようだ。
美味しいお酒の条件は解らない。でも一般的には水のような酒、つまりなんの抵抗感もなく喉元を過ぎていく酒がどうも上等らしい。つまりここでは、美味しいと感じられるのと上等の酒はその基準が全く異なるようだ。美味しい酒は上等な酒の十分条件であるが、必要条件では決してないようだ。
Malidain(グロ ブラン ドメーヌ コアン)、Ch. Plagnac '92 (シャトー・プラニアック・ボルドー・メドック)と言うワインがある。これらのワイン香りはするが、味がしない。つまり全く水のように喉元に流れ込む。いくらでも戴けるようだ。こんな日本酒にしてもワインにしても、度を過ぎると悪い酒になるようだ。こんなお酒は値段もお高いようで、いろんな意味で、お気をつけ遊ばせ。
僕の蘊蓄(ワインと詩) 1
ワインには夢とロマンがともなう詩と哲学が必須である。髭づらの、たいそな、難しい顔をした人相が相応であるようだ。チンドンヤではないが、粋な蝶ネクタイが似合う。なにごとも、理解した上での、それを超越した哲学者が必要だ。話す言葉は詩のようであり、理解しがたい、意味不明であることが要求される。意味不明の言葉であるからこそ、価値がある。判然とした言葉はこの場合必要でない。
ローソクの薄明かりが肝要。明るすぎてはムードがない。暗すぎてもグラデュエイションが判りにくい。何事も間接照明の中庸の明るさが必要だ。行動動作もまたしかり。何事も、厳かにゆっくりとしたペースでやらねばならない。ゆっくり過ぎてもいけないし、早すぎてもいけない。ここでは場にあった早さが要求される。
まず最初、ソムリエがボトルをかざす。ラベルの確認だ。おもむろに軽く頷く。1回だけ、2回頷いてはいけない。ほんの軽く一回だけである。それから、顔をあげて、ソムリエと目を合わせながら、少しだけにっこりと笑みを浮かべる。必要以上に大きく頷いては様(サマ)にならない。
ソムリエは大げさな仕草でコルクを抜く。空を切る手の動きが大切だ。このコルクを抜くシーンは、通常、席の横で行われる。抜かれたコルクはテーブルの上の陶製の小さな皿の上に置かれる。おもむろに手を伸ばし、コルクを取り上げニホイをかぐ。あまりすばやい動作は禁物、あくまでもゆっくりとした、タイミングをえた、スマートな仕草が必要で、ソムリエと2人した絶妙のコンビネイションが要求される。
コルクを取ってニホイをかぐ。ニホイなんて、個人的な嗜好が烈しいもので、特別の悪臭さえなければ良しとする。たまたま、風邪でも引いてニホイが理解できないなんて問題ではない。ようは、ニホイをかぐ仕草が必要で、ニホイなんて、どうだっていいのだ。ニホイなんて始めから判らないのだから、かいでいるふりだけすればよい。コルクを取り上げ、鼻に近づける。鼻にくっつけてしまうと様にならない。この場合、コルクを持った手を左右に振ってはならない。コルクを持った手の方は、そのまま、じっと固定さし、鼻(顔)だけを2〜3回、左右にゆっくりと動かすと様になってくる。コルクをテーブルに返す前に、神が与えた香りがするとか、花束(ブーケ)が甘(アマ)いとか意味不明の言葉をつぶやく。あくまでも呟くのであって、ハッキリと宣うのではない。
ソムリエはグラスにワインを注ぎ、グラスを取り上げ、透かしてみている。ついで、ニホイをかぎ、例によってグラスは静止のママ、鼻の方を少し左右に動かしながら、これを含み大きく頷く。この動作は全てお客さんから後ろ向きに行う。最後の頷きが大切で、あくまでも、おもむろにやる。高い高い貴重なワイン、味見のテストをするだけで、しかも一番最初に、しかも仰山注いだりして、もったいない、なんかと考えてはいけない。これは儀式なのだ。あくまで鷹揚に、心しずめて、振る舞わねばならない。
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ソムリエがテーブルの上のグラスにワインを少し注ぐ。ホストティスティングだ。この時、ソムリエがしたようにワイングラスをかざしてはいけない。ただグラスの足に指を添える位の感覚で、テーブルより5cmだけ持ち上げてみる。決して目の高さまで持ち上げてはならない。それでは様(サマ)にならないのだ。ワインの色を見るわけだが、ちょっと遠めになるかも知れないが、そのままの姿勢が必要で、まこと色だってどうでもよい。ついでグラスをその位置で30度ほど向こう側に傾けてグラデュエイションを観察する振りをする。グラデュエイションなんて明るいところでやったってわかりやしないのだから、しったかぶるりで、全て理解したような顔つきをするのが大切だ。理屈をこねてはならない。あくまでも知ったかぶりの儀式が大切だ。この時、パリの空は茜をさしているとかなんとか、訳の判らないことを呟くのも良い。ついで、少し間をおいてからニホイをかぐ。つづいてグラスを軽く3回ほど左回り(右回しはいけない)に廻してから、どんな香りがするか、再び見るわけだが、特別異臭でもないかぎりOKだ。顎を引き、けっしてグラスを持った手を動かさず、鼻(顔)の方を左右にゆっくりと動かしてみる。あくまで儀式なので、それなりの阿吽の呼吸が大切である。
最後に、黙って頷き、満足した顔つきでワインを口に含む。あたかも口の中でうがいでもするよう、ほっぺたを脹らましたり、せばめたりしながら、アジを鑑賞する。すこし、下品な感じもするが、口の中でグジュグジュと音を起てて、ワインをすすり味わう。フランス料理では、スープを飲むにも音を立てずに、お上品に飲むのに、ここではちっとばかり様子が違うようだ。こうやると神の芳香が広がるようだとか、自分自身しか、あるいは自分自身さえも理解しえないような言葉をはく。彼は哲学者なのだから、意味不明の言葉が大切なのだ。全ての儀式が終われば、左手の親指と人差し指で輪を作り、他の3本の指も少し湾曲させながら、テーブルに向かって3cmほど下の方に押し出すように、ゆっくりとOKのサインを出しながら、軽く頷く。この頷く動作は大切で決して大げさであってはならない。右手でも良いが左の方が様になっているようだ。このホストティスチングも儀式である。ここで気にイランと断ってはならない。気にイランものはどうしょうもないが、ここで新しくもう一本を注文すれば、都合2本のワイン代を支払わねばならないことを覚悟してかからねばならない。
ワインの心はあくまでも知ったか振りで、鷹揚であるべきだ。紳士なのだから。ワインのような高級なご趣味のばあい、あまりコセコセしたことが禁物だ。彼奴(ソムリエ)は真っ先にこの俺の上等なワインを飲みよったし、たいそにローソクなんか灯しやがって、デカントしたが、おり(澱)のあるボトルにはまだグラス一杯分以上のワインが残っている、なんて未練がましく考えないことだ。これがワインの心である。
僕の蘊蓄(ワインと詩) 2
口の中で味を味わうのはどこらあたりで行うのだろうか。舌の先、真ん中、側縁、皆違うはずだ。甘い味、酸っぱい味、苦い味、渋い味、辛い味等、五味、すべてこれを関知する場所は舌の上でも違うはずだ。味を知覚する味蕾はあちこちに散らばっているはずだ。考える以上にまばらに存在するようだ。
まず最初、ベロの先で舐めてみる。口に含む前に舐めてみるが良い。甘味(アマミ)がハッキリ自覚できる。ベロの先でなければならない。ワインを口に含んでしまっては、この感じは掴めないだろう。
口腔粘膜はどうだろうか。ワインをティスチングするとき頬粘膜をクツクツ云わせてウガイするが如き状態で味、香りを吟味するが、これは頬粘膜からの味見をしているに違いないようだ。ブーケの広がりはこうして初めて味わうことが出来るのだ。でもこれは才ある人にだけ許されるもので、僕には関係ない。
7月、ブドウの開花後、高温乾燥を迎えると、果皮は肥厚し、それから作られるワインはタイニックとなり、深い色調と優れた香気を増すと言うが、優れたソムリエはこれらをすべて識別するようだ。銘柄だけでなく何年のものか、かぎわけるという。やはりこれらは天賦の才であるに違いないようだ。
ブドウには葡萄酒にする種類のものと生で食する種類のものがあるという。でも街の市場や街頭なんかで売られている生のブドウは、それぞれの土地の産であり、フランス、イタリア、南米、世界中、何処でもそれなりにウマい。でも日本に勝るものを経験したことはない。その点、日本のマスカットは味は上品で、適度の甘さと香りがあり、全く素晴らしい。世界一だ。甘味だけなら巨砲がある。甘味ではこれに勝るものはないし、種なしブドウも随分甘いものだ。日本のブドウはそのまま食してはおそらく世界一だろう。
日本では、葡萄といえば、そのまま生で食する果物というイメージがあるが、ヨーロッパでは、葡萄といえぱ「ワイン」となる。事実、日本では98%が生食用で、ワインになるのはほんの少量だ。ところが、ヨーロッパでは約90%がワイン用となる。生のまま食べる葡萄からでもワインは造ることができるが、水っぽいワインになってしまうようだ。これは酸味(タンニン)が足りないためで、生食用は甘いことが第一であるが、ワイン用の葡萄には、糖分と酸味が必要になる。酸味は、ワインを造る上で、まろやかな味とコクを出してくれるし、ワインにするときは破砕するので、皮の厚さや粒の大きさなどの見ためのよさは、生食用とは違い重要ではないようだ。しかも、皮の厚い粒の方がタンニン量が多いようで、このタンニンがえも云われぬワインの風味をかもしだすようでもある。また、余り香りの強い葡萄は、よいワインにはなりにくいとされているようだ。
フランス辺りの土地は痩せており、みずみずしい、甘味たっぷりの美味しいブドウは育たない。生で美味しいブドウが育つには土地が痩せすぎているようだ。南アや南米、オーストラリアなんかも同様のことが言えるようだ。なるほど、なるほど、シルクロードのブドウは水気が迸っており、甘味たっぷり、乾燥した風土と共に素晴らしく美味しいものであるに違いないが、日本のブドウには勝てっこないだろう。シルクロードの干しぶどうは素晴らしく美味しいものだったが。
生で食して美味しいものでないからこそ、葡萄酒に加工したもので、それ以外に使い道の無かったものである。幸いフランス人に広く受け入れられ、まさしくお茶代わりに使用されるような習慣となってきた。フランスではワインはミネラルウオーターより安価であると、伝説のようにいわれてきた。事実、街中のレストランではいつも経験することだった。このように、民衆にこよなく愛され受け入れられてきたワインが最近急騰(ことにボルドーに)し庶民の感覚からづれてきたようだ。水と同様の存在だったワインが急騰し庶民の生活からかけ離れたものになってきたようだ。ことにボルドーなんかにこの傾向が強く見られるようだ。これはまさしく老獪な狡賢いフランス商人ネゴシアンに甘く乗せられた日本人愛好者の責任でもある。ボルドー高騰の責任はまったく、うまく仕掛けられた罠に日本人がのってしまったようだ。いや乗せられてしまったのである。
ブドウの樹の種類が違うとだけで、片づけてしまう質のものではなさそうだ。確かに種は違うようだ。でも、不味いからこそ、それを加工するようになった。それが原点なのだ。なんでもかんでも、伝統だ伝統だと言ってる間に、美味しい安価なチリワインが出来てしまった。
格付けとは何か。はたして 不変の格付けは必要なのであろうか。
約150年前の1855年、フランスはパリの万博で、ボルドー地方のワインの格付けが行われた。当時よりフランスは葡萄酒の国として有名であったし、中でもボルドーは有名でその中では何千というシャトウ(醸造所)があったと言われている。現在も8000を越すシャトウがあると言われているが、この数多くのシャトウから61のシャトウだけが格付けされたのである。なるほど、当時はあらゆる基準から判断して特別に格付けされたものでなんら文句の付けようがない。流通価格や土壌、葡萄園の状態などを反映させ格付けされたと言われている。でもJリーグのように入れ替えがあるわけでなく、一度入ってしまったら未来永劫に格付けされるということだ。過去に格付けされたことがあるということだけでなく、いまも、今後も、たとえワインが飲むに値しないものになってしっまっても特級であることにかわりないようだ。1855年に、下位に格付けされながら、生産者が変わり、トップシャトーの名声と実力を兼ね備えたシャトーも沢山あるようだし、反対に当時格付け上位でありながら、現在では取るに足らない実力のシャトーが存在するのもまた事実で、この格付けと実力の、アンバランスが起こっている。
インターナショナルワインチャレンジン
物事の評価には絶対評価と相対的評価がある。あのワインは美味しい、美味しかったというとき、それは絶対評価であるべきだ。金銭に拘らないおおらかさが望まれる。美味しい、美味しかったで充分なのだ。美味しければそれでよし、それ以上の条件はなにもない。
美味しいと言っても、人間個性がある。好き嫌いはどんな人間にも存在するようだ。普遍的なものなんて元から存在しないのだ。でも比較的多くのものが好むという場合、それがよいのであろうし、それが一般的というものだ。
美味しいと一言に云っても、客観的基準はなにだろうか。パッカードさんのように、100点満点で採決する方法もよいだろうが、なにか客観的基準も欲しい。客観的基準があれば、価値判断は容易なものになるだろう。一本10万円を越えるボルドーから一本500円のチリー産まで、どれが美味しいのやら、人気投票でもしたら、如何なものだろうか。値段は別にして、ただ美味しいものを選んだら如何なものだろうか。あるのである、そんなコンクールが、しかも世界的な大規模な奴が。
イギリスにインターナショナルワインチャレンジと言う企画があるそうだ。いわばワインの品評会であるが、生産者が出品するのでなく、実際小売りしている業者が出品するらしい。まあ色々理由もあるようだが、また違った見方からして面白い企画だろう。俺のシャトルはソン所そこらのワインと同列に比較検討して欲しくないというかたも、みんな一括まとめて審査にかける、こんな愉快なことはない。伝統を重んじるイギリスもなかなかやるものだ。
このワインチャレンジの特徴は価格には関係ないということだ。コストバリュウーを考えるのでなく、どれが美味しいか決めるのだ。コストバリュウーはべつの範疇カテゴリーなのだ。1本10万円のワインも500円のワインを同列に評価しようとするのである。絶対評価だ。誇り高きボルドーも、ソン所そこらのワインと同列に並べられてはかなわないとおっしゃらずに、すべて一緒に審査される。チャレンジのもう一つの特徴は、ボルドーのシャトルが、ネゴシアンが出品するのでなく、実際これらを売っている小売業者が出品すると云うことである。これだと、ワインの評価に随分と公平さが保たれるようだ。出品品数も10000件近くに達するという大規模なものになったようで誠に結構なことだ。
テストはブランドブラックマスク方式で、ボルドーのクルー・クラッセもチリー産のものも、全て同じ条件で行われた。どれが世界一美味しいか、単純に比較するだけである。価格は関係ない。評価はくだされた。チリー産がフランスを押さえて世界一になった。チリーの500円ワインが10万円のボルドーを押さえて世界一になったのだ。繰り返そう、チリーやオーストラリアワインが世界最高と折り紙をつけられた。愉快ではないか、ワイン通の一つ蘊蓄の多いお兄ちゃんも顔面蒼白、イギリスのエセ紳士も結構やりおる。
たしかに、ボルドーは伝統もあり、フィネスやコンストラクションも理解するし認めるものであるが、1855年の格付け以来、伝統の中でどっぷりと浸かってしまって新しい工夫に研究に慢心してしまった結果ではないだろうか。150年の安心がチリやオーストラリアの後塵に甘んじることになったようだ。しかし、ボルドーの熟成された古酒には、絶対に500円位のチリやオーストラリアのワインには見られない洗練さや優雅さがあるのも事実である。ワイン通によればフィネスというものがあり、これ抜きに審査しても無意味だという意見もあるが、あくまで絶対評価を貫き通すなら、これは無意味であるかもしれない。フィネスを感じた時の感動は鳥肌も立つというのはあくまで個人の感性であり、決して普遍的なものではない。10人飲んで9人が美味しければ美味しいものだし、絶対的な評価をえることが出来るのである。味覚の差異を知り得る、あるいは感じることができるのは、「ボルドーの本質(?)を知っている」者にしか分からないということでは、あくまで洗脳された認識があり、あるいは隠れた天才ソムリエかに限定される。ここが問題なんで、歴史の事実が証明していることと主張するのは奢りであって他の何者でもない。俺にしか理解できないと云うことは、天才ソムリエ以外にありえるものでなく、普通の凡人には関係ないことである。
ボルドーの熟成型ワインとチリやオーストラリアの促成型ワインと比較対象にすること自体間違いであると主張する方もいらしゃるようだが、話はそんなことではない。そのワインの絶対評価を問うているのであって、相対評価を求めているのではない。今日のこの日、どのワインが美味しいか問うているのであって、1年後、何十年後どちらが美味しいか、問うているのではない。
ボルドーワインは、品質の割に値段が高すぎる、オーストラリアやチリのワインの方が、値段の割に質が良いと久しくいわれつづけてきたが、はからずも、それが、このコンテストの結果によって立証されたようだ。
パリコンテスト
フランスでも公開のブラインドティスティングコンテストが行われた。フランスボルドー対するカリフォルニアワインである。1976年5月21日パリのインターコンチネンタルホテルでイギリス人の主催するワイン学校が、世界的に有名な葡萄品種「カベルネ・ソーヴィニヨン」、「シャルドネ」を主体とした「フランス」、ならびに「カリフォルニア」のワイン目隠し品評会を開催した。審査員はフランスの有名なワイン関係者でAOC委員長、3つ星レストランシェフ、ソムリエ達やロマネコンチの経営者等であった。意外と結果はアメリカ側の圧勝に終わったようである。勝ったのは無名に近いカリフォルニアのカベルネ・ソーヴィニヨンは「スタッグス・リープ」シャルドネは「シャトー・モンテリーナ」で、負けたのはフランスの「シャトー・ムートン・ロートシルト」、「バタール・モンラッシェ」であった。これからカリフォルニアワインの奇跡の伝説が始まった。
フランスこそが本場中の本場、成り上がりものアメリカになんかにマケルとは、とっても信じられないフランス人によって数年後(1986)再び、今度は舞台をロスに移し同様の企画(76年モノの試飲会)がされたが、結果は同様アメリカ側の圧勝に終わったようだ。
フランス人の云うことが揮っている。確かに若いうちはカリフォルニアのほうがうまいワインも中にはあるかもしれない。というのも、ボルドーは長期熟成を前提として作らているワインなのだからだ。
念の入ったことだ、20年後の1996年にも同様ティスチング(ParkerJr)が行われた。20年経過後の、この年の結果もいわずもが花である。
ボルドーよさようなら、チリさん今日は
ボルドーのネゴシアンは凄い。ボルドーは猫も杓子も暴騰した。コストバリュウを考えるイギリスではもう売れない。アメリカは軽い、オッチョコチョイでは少しぐらい売れるだろう。成金のヤンキーは珍しいモノには飛びつくだろうし、金を惜しまないようだ。でも、世界中で一番売れているのは日本だそうだ。ボルドーでも高いのが良く売れるらしい。どうも金持ち日本人は高いものに飛びつく習性をもっており、この習性が遺憾なくボルドーのネゴシィアンに利用されたようだ。シャトウのオーナーさん達も、ゾクゾク日本訪問となった。こんなに沢山買って貰らってお礼の一言でも云わねばなるまい。でも日本人は昔から繊細な感情の持ち主であったに違いない。それが証拠に世界一のソムリエさんも日本人から誕生したが、普通一般の人はどうだろうか。まあ、特別の方を除いて、味もわからず、感性も持ち合わせていないのが日本人であり、一般的、日本人の像ではないだろうか。ワインブームにのってワインの消費が上がると、我も彼もがボルドーに殺到した。その結果がこのような状態と相成ってしまった。イギリスのワインチャレンジは確かにおもしろい。最近では、オーストラリアやチリ産のワインが美味しいことは常識になってしまった。一本1000円の方が100000円のワインより美味しいというたくさんのレポートを見るにつけ、「ボルドーよさよなら、チリさん今日は」と言わざるをえない。
狐と狸
どちらが狐でどちらが狸かそんなことは判らない。どっちだって似たようなもの、どっちに、どっちの名前を付けてもかまわない。全く同じ穴の狢である。ワイン戦争が起こっている。フランスとイギリスとの間でである。フランスのボジョレーヌーボー、採れたての新酒、さぞかし美味しいに違いないがイギリスでは輸入禁止処置が取られて、イギリスのレストランで飲むことが出来ない。全くモッタイないの一言だ。でも、もともとヌーボーに合うような料理はイギリスにはなかったかもしれぬ。ご存知、牛肉では欧州が揺れに揺れている。例の狂牛病だ。いまだ収束していないと欧州各国はいまだ輸入禁止を解いていない。フランスもご多分に漏れず英国産の牛肉を輸入禁止処置にしている。イギリスのワイン輸入禁止はこの対抗処置だそうで、どっちもどっちだなあ。坊主にくけりゃ袈裟までにくい方式というものだ。どちらも大人になり切れていないようだ。これが今日の両国の象徴だ。
プルサーマルと言っても、突然出てきて戸惑うに違いない。そうです、関電の原子炉で使う燃料をイギリスの国営公社に依頼して購入していたのに、そのデータをイギリスは国家ぐるみ改竄していた。驚くばかりか、呆れてしまって開いた口がふさがらない。紳士の国とはもともとこの程度のものであり、人を馬鹿にするにも程がある。日本人はどうもイギリス人に甘く見られているようだ。そらそうやら、日本は地の果て野蛮人の国だから。
ワインと世にはばかる話
世にはばかる話というもんがある。食事中に汚い話とか言うもんは世にはばかる話だろう。その場その場に合わない話はしないほうがベター、それにこしたことはないようだ。どうも雰囲気が壊れるようで、場違いというものだ。匂いも同様世にはばかる臭いがある。
たとえば、食事中おいしい果物の話をしてもなんら支障ない。おおきな、色鮮やかな、つぶらなイチゴ、色とりどりのリンゴ、珍しい形の南国のフルーツ類、どれもこれもすばらしい。フルーツといえばその王様はなんといってもドリアン、すばらしい味覚、まさに王者の風格だ。パパヤもラグビーボールに匹敵する大きさ、レモン汁をぶっかけて食する。すべて豪快に。すばらしい、とろけるような味わい、全くすばらしい。これらは全く支障のない話だ。
ところが、これらドリアン、パパヤ、ジャックフルーツ等すべて、熟し切ると大変な香りがする。急に変身するのだ。なによりの証拠にこれらの果物はホテル持ち込み禁止されているところがおい。南国の郊外、車窓より変なニホイがやってくる。これもこうした果実の香りだ。そのように、パパヤしかりドリアンも、えも言われぬ臭気を発するものだ。ここでは「えも言われぬ臭気」とだけ記しておこう。こういうたぐいの話は食事中はタブーとなっている。
ワインの席はお上品だ。ウィットの効いたフランスの小話ならともかく、できるだけ、お上品でありたい。おでん屋の日本酒で議論する場とは少し異なるようだ。音楽でも都々逸ではなく、弦楽4重奏曲だ。でも、ワインの味、香り、タンニン等々おいしいワインの条件でもある。ワインのフルーティな香りとはいったいどんな香りだろうか。木イチゴ、ブルベリー、等々いろんな香りがする。10本飲めば10種の香りがする。いや10種以上の香りがあるかも知れない。全く爽やか自然のフルーツの香りがするのである。ワインは香りで勝負するようだ。
ところが、芳醇なワインにも中には、熟れきったパパヤのドリアン、ジャックフルーツの香りのするものがある。ワインの席にはどう考えたって合っていないようにも思うのだが、どうだろうか。ドリアンにとりつかれたら、女房を質にでもおいて買ってでも食べたいという男がいるというように、ワインでも、この匂いに取り付かれた、一種のホビーがいるのだろうか。僕はこんな、世にはばかる匂いのワインはご遠慮申し上げたい。
インドールなる化学物質がある。これはトリプトファンの腸内細菌による分解産物で「得も云われぬ」ニホイの正体である。パパヤ、ドリアン、ジャックフルーツが発酵したときもこのインドールが多量に発生する。人間にも、どんな美しい人にでも存在する。ただ、体内にあるときは目立たないが体外にでると目立ちやすいようだ。しこうして、「得も云われぬ」ニホイが発生する。でもこのインドール、非常に稀薄な状態ではジャスミンのようなクチナシのような香しい芳気を発し香水の原料にも用いられるようだ。こういう種の化学物質は他にも沢山見受けられるようだ。同じものであるに関わらず、ときには芳香を発し時には「得も云われぬ」臭気を発するのである。
マリアージュ
料理とワインが合うとか合わないということは、よく耳にすることであるが、かなりあいまいな表現で、主観的要素が入り込み、大変分かりにくく、普遍的なものではないようだ。科学的には赤の抗高脂血漿作用、白の殺菌作用ぐらいが妥当なところであるが、どんな料理にどんなワインが合うかということは、個人の個性の問題でもあるようだ。立派なフランス料理のテーブルにつき、美味しく頂く、白や赤、まあ単純に考えて旨かったらそれで充分なのではないだろうか。
一般には、魚には白(冷旨系)が、肉類には赤(温旨系)が良くマッチすると云われているが、それもあくまでも一般的な話であるようだ。その環境は勿論のこと、料理人の性格、調理環境、素材の選択、あるいはそれに要する時間の問題等が全てからみあって、料理が出来上がるように、飲食する側に立てば、その日のコンディションによっても随分と異なるようだ。
たとえ肉類をいただくにしても、良く働き、少し疲れ目で喉の乾きを感じるときなんかは、冷旨系の白が合うようだ。喉元にグッグッとくる美味しいワインは赤よりも白の方が美味しいモノだ。また、たとえ魚料理であっても、彼女と2人、ムードのあるディナーでは、顔はカッカとしていても白よりむしろ赤の方が美味しいやも知れぬ。考え方によっては、料理にワインを合わせるのではなく、環境、雰囲気にワインを合わせた方が良いかも知れない。
4〜5月の高知の初鰹には白が良く合う、最高にマッチするようだ。採れたての、ぴちぴちカツオは癖もなく、あっさりしており、白でも赤でも良く合うが、とりわけ辛い目の白とピッタリである。でも7〜8月の油の乗り切った戻りカツオには白よりむしろ癖のない赤が良く合うようだ。
鮎の塩焼きには、どんなワインが良く合うだろうか。小骨もろとも頭ぐち食する熱々の5月鮎の塩焼きは、フウフウと息をかけながらタデ酢で食べるのは最高によい。どちらでも合いそうだが、これは明らかに赤のようだ。赤がよさそうであるが、レモンを利かし、少し冷やせば白の出番である。同じモノでも、温度、調味料によっては、ワインも変わってきておかしいモノじゃない。でも15cmあるいは20cmにも及ぶでかい奴の塩焼きは赤に限るようだ。囲炉裏で竹串に刺したまま炙るあやつは赤に限る。
天ぷらには割合白が合いそうだ。白でもシャンパンが最高に良いようで、口中の油を洗い流してくれるようだ。白身のあっさりした魚には勿論白がよいが、脂身の多いアナゴなんかは、香の少ない癖のない赤も良さそうだ。香りの強い新鮮な野菜類には、もちろん芳醇な白であるべきだ。
でも、やはり、シャブリ(白)と生ガキは天性に相性がよい。科学的にもピッタリでこれ以上のモノは見当たらない。でも毎日毎日が生ガキでも飽きが来るだろう。たまにはカキの土手焼きに赤も良いのではないか。
東南アジアでもっともポピュラーなタム・マク(フン)、若いマンゴやパパヤ、パインを用いた一寸酸っぱい奴、小奴は意外と白辛に相性がよい。もともとフランスの植民地だった関係からかしら、食生活にワインが取り入れられているベトナムなんかでよくみられるようだ。日本の糠味噌沢庵、納豆でも同様なことが言えるようだ。でも、一番ありふれた麺類にはどんなワインが合うのだろうか。ラーメンにどんなワインが合うだろうか。これはやはり文化が異なるのかなあ。この点ビールは相手を選ばず、飲む方の体の調子次第であるようだ。少し疲れた、喉が乾き、暑いとき、体調の良いときなんかの、風呂上がりのグッと一杯には、勝る物なしである。
マリアージュなんてきまりはないのだ。原則どうだっていいのだ。自分自身の状態によって大まか決まると考えた方がよいようだ。
ワインは哲学する場を与える。
なんのブーケかわからない。とにかく強い香りがする。鼻に感じるのでなく、口の中一杯に広がる。大きな海原の中に一人オッポリだされたような、ただただ広い空間の中に漂うブーケの香り、これは何処よりきて、何処え消え去っていくのか、余韻が東大寺の鐘の音のように、力強く、何処までも広がっていく。腹に応える。消えそうで消え去ることがない、不思議な余韻である。ことにタイソなボルドーを飲んだときにする。
このブーケは決してアロマではない。しかしアロマも少しは加わっているに違いないようだ。145年の伝統に支えられ、フィネスを培い、エレガントなコクのあるボルドー、あまりの上手さに全身が痺れる。突然血の気がひき、貧血を起こしかねない。口腔に引っ張り付くフルボディはグリセリンか、コンセントレイションだけでなくストラクチュアがしっかり存在してござる。マリアージュのハーモニーが素晴らしい。1たす1は何も2とは限らない。3であっても不思議ではない。意味不明の文章もまたOKである。
思考し、物思いに耽る。少々のアルコールはデンケンする度合いを深める。アルコールは血液の流れを増し、スムーズにする。快い思考を提供する。飲み過ぎてはダメだ。これでは麻痺が起こってくる。快い覚醒と麻痺との境目の、微かに覚醒側の辺りが良く似合う。この瞬間に閃きが起こる。
暗い闇の世界に入ってしまっては行き過ぎだ。そこでは何のデンケンもない。ただただ怠惰だけが鎮座しておわす。この世界に、はまりこんでしまうと、楽であろう。しかしそれ以上の向上はない。怠惰の世界だけである。
白は血液を浄化する。浄化された血液は、研ぎすまされた、新たな命を宿し、体の隅々にまで及ぶ。脳細胞はレフレッシュされる。脳細砲は軽くなり、冴えてくる。ここではアルコールの酔いは感じられない。むしろ正反対だ。体は軽くなり、血液は薄く清められ、酔いとは別の異次元の世界の話である。白には殺菌作用があると言うが、また違った意味での、心の脳の殺菌作用があるようだ。即ち、哲学する立場を与えるようだ。
赤は亢進さし、白は低下さす。赤は血液を濃厚にさし、白は稀薄にする。赤は熱を上げ、白は下げる。赤は動脈硬化を予防し、白は食中毒を予防する。赤と白は陽イオンと陰イオンだ。全て作用は反対なるも、哲学するにはいづれも陽である。
怠惰と哲学、まったくの反対語で、ワインにはこの両者の力量がはまりこんでいる。両者の綱引きが、どっちつかずの結果を生むが、その相互互換の上になにか判らない分野が創造されるようだ。それが新しい哲学の場なのだ。
ワインを飲み思考する。新しい思索が次から次ぎえと涌いてくる。ワインは思考を深みに誘導し、誘発する。まるで宇宙遊泳するか如きだ。哲学するにはワインは絶対でない。ワインにも哲学が絶対でない。でも、両者は明らかに相互補完の関係にあるようだ。
(2/29/2000)
参照:お酒の話<http://www.gulf.or.jp/~houki/essay/zuihitu/alk.html>