素人の芸術論(陶磁器編)
備前焼編(藤原啓論)
僕の好きな焼物に備前(伊部)焼がある。うわぐすりをかけないで、良質な陶土をじっくりと焼き締める、このごく自然な、土と炎の出会い、その融合によって生み出される素朴な、そして、手づくりのぬくもりの感じられる焼き物が備前焼なのだ。その土味を生かした焼成、姿の美しさ、巧まない作行きによって生み出された枯淡で素朴な味は、日本美の原点であり、時代の風潮とか流行を超越して、多くの人々に愛されてきた。備前焼は田んぼの土を利用して焼かれる。原則として何の釉薬も使用しない。唯丹念に長時間に渉って高温(1300度)で焼続けて、窯変の変化を愛でるものである。燃料も松(赤松)に限られるようだ。松のエキス成分が胡麻垂れとなって景色を表現する。同じ焼〆のなかまに信楽焼がある。山土を利用した信楽は土は荒く石櫨も見られ豪快だ。でも乾燥感が強くドライな感じだが、備前(田土)は何かしっとりとして水気が迸っているようだ。両者とも火色、石櫨、胡麻垂れ、緋襷、サンキリ等の変化を楽しむわけであるが、なるほど自然のなせる業には敬服せざるをえない。人工的再現性は無い。同じような焼〆(窯)に伊賀焼、常滑焼、越前焼、丹波焼等もある。僕は備前の焼物、特に壷が好きだが、世の中備前なんてババッチイし美しくないといって敬遠する人が多いようだ。
古びた備前の徳利に唯1本の椿を入れて楽しむのも良い。ここに美味しいお茶でもあれば最高である。菓子は辞退する。侘びとか寂とか難しいことは除外する。唯単に時間を遊ぶのだ。
備前焼には無形文化財に指定された作家が五人輩出している。一つの窯から五人ものの指定無形文化財作家が輩出していることも珍しい。まず始めは金重陶陽である。独特の性格で自負心も人一倍強いようだ。陶陽自身天下一と名乗っていたようだ。かの有名な魯山人(北小路)と友人であったが人の良い陶陽は世話をやきすぎ、魯山人と仲たがいをするようになる。魯山人が自分の庭に備前焼風窯を作るとき陶陽に相談したが、陶陽は親切すぎてわざわざ鎌倉まで出向き助言するが、気難しい二人は仲たがいすることになったという。天才同士気脈を通じ合うのは全く難しいものである。魯山人自身備前の土を愛し、備前に最高の評価を与えていた。
陶陽は桃山備前の再現に取り組んだ。備前特有の窯変の技法をものにした。備前焼中興の祖と言われる陶陽は桃山回帰の大願望を遂げたし、桃山備前の再現に心血を注いだのだ。不人気な備前に新しい息吹を吹き込んだ。陶陽は初めデゴ師と言われる細工物を作っていたが轆轤に転向し、華麗な桃山陶器の再現作陶に成功したのである。魯山人によると備前の土は世界最高の土味といわれ、陶陽によって陶土の作成過程が完成された。現在もこの方法で広く備前の陶土の形成がなされている。
魯山人(北小路)が備前焼を初めて経験したのはこの伊部の金重陶陽(備前焼始めての無形文化財認定)の窯であった。この時イサム・ノグチ氏も同行した。古備前の窯跡を廻ったり陶陽の窯で作陶したり、たびたび土を分けて貰うなど深い交流が続いた。そして鎌倉の山崎にも自らの備前風の窯を作った。そのとき陶陽はわざわざ鎌倉まで出向き助言した。この時魯山人と陶陽は自己主張の違いから、意見を異にし喧嘩になったという。芸術家の気性の激しい一面なのだった。
陶陽は当時すでに、独自の土の生成法を編み出し、桃山備前の土味を出すことに成功していた。備前焼の真髄は土味と焼き味にあると言われているが陶陽の作品にはすでに、土にも火にも負けぬ技量と力強さに満ち溢れていると評価されていた。滋味深さと凛とした厳しい趣を感じる。陶陽は備前窯元六姓の一つ金重家に属し、家柄意識が強く、「祖先から受け継いだ血、これは何事にも代えがたく、素晴らしき力が隠されている」と自尊心が強く、若かりしときは「天下一」と名乗っでていた。窯印も天下一と記したほどである。「桃山回帰」を目指した陶陽はとことん土の吟味を始め、魯山人も絶賛した備前の土はヒヨセと呼ばれる田んぼの土であるが、陶陽自身もこの土の入手については大変な苦労があったようだ。桃山備前風の土味を出す土を練って寝かせておく独特の工夫は、窯元の家では米より大切という陶陽ならではの思いで、火の流れを読み、「窯詰めで窯を焚く」という概念を導入した。普通一般には派手な器には地味な料理を、地味な器には派手な料理を盛った方がいかすかに思えるが、備前のような地味な器にも本当に素晴らしいものには地味なものを盛っても映えるのである。陶陽作のたっぷり水を吸わせた器を前にすると改めて備前焼の美の真髄に触れた気がする(桂又三郎))。
藤原啓は備前の作家(備前焼二人目の無形文化財認定)であるが作品は陶陽とはその作風が全く対照的である。啓の作品は質実剛健、これぞ備前だという重厚さが存在するようだ。啓は備前のオールラウンドプレイヤーであり、桃山は言うに及ばずあらゆる古備前を征服、それを超越した。魯山人は陶陽と仲たがいした後はこの啓の窯を訪れ備前の土を手に入れていたようだ。啓はもともと文学を志し、東京にいたが思うようにこの道が開けず、失意のうちに郷里の備前の穂波(片上)に帰ってきた。そこで文学者正宗敦夫に相談し、その勧めもあり作陶の道を歩むことになったようだ。まだまだ苦しい生活、陶陽と二人して酒を飲み交わし、土いじりに没頭していたに違いない。酒の量も増し、噂では兵児帯を長く引きずりながら、紅燈の街を彷徨うという精神的にも不安定な時期を送られているようだ(備前交通社長談)。はっきりとはわからないが、大和から紀伊の国まで歩いて縦断したのは、この頃で、恐らくわが故郷大和御所の地もさまよっておられたのではないだろうか。おおらかな性格、自然を抱擁する持ち前の、穏やかで人に好かれる性格が作陶の場でも表現されているのだろう。啓は人生の精神的悲哀を乗り越えてこられただけに円満な人格形成の土台となったのであろう。作品自体、大らかさと大胆さが混在しており、新宮殿にも窯変擂座壷(一対)を献上されている。
啓は人柄が良い。誰にでも好かれるようだ。気難しい芸術家と言うより好々爺というかんじだった。晩年は子ども(雄、恭助)にも恵まれ孫(和)たちにも囲まれて幸せだった。気難しい芸術家らしさが見受けられなかった。その作品はサンギリ、胡麻たれ、緋襷等は自由自在、肉厚の分厚い壁は、大らかな性格と共に、どっしりとした安心感を与える。お茶碗でも壷を抱いた時のような重量感があり、心を和ませてくれる。自然の産物だった緋襷も作品に藁を被せ人工的に焼き上げる手法も啓の発明によるものだ。
続いて備前焼分野から轆轤の名手山本陶秀、藤原雄(啓の長男)、伊勢崎淳の三人が人間国宝に指定された。文化財に指定されるような方は全て人柄が良いようだ。このように見てくると人間国宝に指定される条件には創造力や技術力はもちろんのことだが、人格円満なものも含まれているようにも思える。
陶秀は轆轤の名手と言われている。いつかは、陛下(昭和天皇)の前でその業を披露した事があった。陶秀にとっても、備前焼にとっても名誉きわまりないことであった。技術面では備前焼を今日の水準に引き上げた功績を持っている。藤原雄さんは啓の長男であるが目が悪く繊細な細工物には余り向いていないようだ。音楽を愛し、これまた郷里の画家小野竹僑の絵画を収集されていた。啓と同様、或いはそれ以上に豪放大胆な作品を多く残している。以上の4人はすでに鬼籍に入っておられるが最後に登場するのは伊勢崎淳である。淳の作品は純正清純であり、形の美の最高に属するものだが、それにもまして芸術家の気むつかしさが無く穏やかな性格は親しみやすい。
備前の作品には何処か田舎っぽい気風が見られる。著名作家のものでなくても、なんとなくどっしりとした落ち着きがある。色絵のようなような艶やかさ華やかさは無い。地肌は土そのものである。しっとりと濡れているようだ。侘びとか寂とかは解からない。備前の古壷に唯一輪の椿があれば十分だ。至福の時だ。
(文中敬称略)
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