備前(伊部)焼
平安時代に作られた須恵器から発展し、鎌倉時代初期には還元焔焼成による焼締め陶が焼かれる。鎌倉時代後期には酸化焔焼成による現在の茶褐色の陶器が焼かれる。当時の主力は水瓶や擂鉢など実用本位のものであり、「落としても壊れない」と評判が良かった。この当時の作品は「古備前」と呼ばれ珍重されています。
室町時代から桃山時代にかけて茶道の発展とともに茶陶としての人気が高まるが、江戸時代には茶道の衰退とともに衰える(安価で大量生産が可能な磁器の登場も原因)。備前焼は再び水瓶や擂鉢、酒徳利など実用品の生産に戻っている。この当時のものは近郷の旧家にかなりの数が残されています。
明治・大正に入ってもその傾向は変わらなかったが、昭和に入り金重陶陽らが桃山陶への回帰をはかり芸術性を高めて人気を復興させる。陶陽はもちろんのこと弟子達の中からも人間国宝を輩出し、備前焼の人気は不動のものとなった。
第二次大戦時には、金属不足のため、どこの窯元でそうであったが備前焼による手榴弾が試作されたこともあるが、実戦投入はされなかった(一部使用された記録がある)。
平安時代、飲茶の始まり
中国浙江省の天目山付近の寺院は、平安時代に入唐した僧侶たちの修行の場でもありました。
飲茶は天台宗の開祖である最澄や真言宗、詩文、書などを学び、美術、文献等文化関係物を集め、帰国した空海等により上流社会に唐風の一つとして流行しました。同時に天目茶碗も天目山の寺院で常椀としていたものを禅僧が持ち帰ったところから名が付けらています。
嵯峨天皇は芸術的、創造的な才能を持ち合わせていた空海をとくに優遇したため、唐風の文化は貴族の間で人気を得ました。
また嵯峨天皇は、お茶の植樹を奨励しましたが、後の遣唐使の廃止もあって唐風のお茶は根付くこともなく、
やがては廃れていきます。
室町時代中期、
足利義政の時代、文明15年(1483)に完成した銀閣を中心とする東山山荘にちなんで東山文化と呼ばれます。東山文化の特徴は、禅宗の影響を受ける一方で、茶の湯、立花、水墨画、連歌、能などの新しい文化が次々起こり、現代文化の源流をなした点にあります。
また、東山文化を考えるうえで重要なのは、書院建築の発達です。唐物を飾り、茶を点て、花をいけ、芸能を演じるという行為は、すべて書院空間のなかで行なわれました。
茶の湯の開祖村田珠光(じゅこう)は当時流行していた唐物中心の豪華な書院の茶の湯に対し、侘びさびを重んじる草庵の茶を始め、茶道具も従来の唐物から侘びた日本の焼き物を使い茶の湯の流れを変えていきます。
茶の湯の流れを最初は種壺などを水指に転用していましたが、次第に茶陶としても注文されるようになり、備前焼も国焼茶陶として茶道具の中に取り入れられていきました。珠光のさびの心を受け継いだのは、堺の茶人武野紹鴎(じょうおう)であり、この紹鴎が所持したと伝えられる備前水指「青海」は転用ではなく水指として焼かれたものだと思われます。
室町時代末期になりますと茶の湯がますます盛んとなり、水指、花入、茶入など備前焼の茶陶が多く焼かれるようになります。
さらに桃山時代になりますと、武野紹鴎に師事した 千利休(1522年−1591年)はわびの美意識を貫いた天下一の匠で形式や伝統にこだわらず、独自の美意識によって変革を行い、安土桃山時代の茶人として織田信長・豊臣秀吉の茶頭を務めました。 信長の死後は秀吉に仕え重用されたが、茶頭としての立場を越え次第に側近としての役割が次第に強くなっていきます。
利休の茶の湯は町衆の間に発達したわび茶の伝統を受け継ぎ、茶会と点前、独創的な茶室と道具の創造、現代の茶道の基礎をつくりあげました。また、従来の派手に遊ぶ茶会は、料理を簡素化し茶会の趣向にわびの美意識を貫いたのです。又小さな茶室をつくり、茶陶についても長次郎に楽焼茶碗をつくらせたり、高麗茶碗や瀬戸茶碗なども積極的に取り上げました。
利休の亡き後は、侘び茶の礎を創り上げた桃山前期の茶を排し、古田織部 (1544年-1615年)は、桃山美術に見られる色彩と感覚を自在に表現して、華やかで美しい桃山文化の武家にふさわしい大名茶を完成しました。
この点では利休の生き方を継承し、人まねでない斬新な試みを行なった織部こそが利休の真の後継者としてふさわしいと思われます。
織部は利休好みの楽焼き茶碗にかわって織部焼の指導を行って、織部焼の沓形茶碗を創作し、故意に歪めたり箆目を使い派手な色柄をも好んで、利休の侘び茶にこだわらない茶陶を
目指しました。茶陶から茶室に至るまで、色彩や造形で強烈な個性を主張し、幅広く織部好みと呼ばれました。
その種類も水指、花入を中心とし、茶入、茶碗、蓋置、香合など多種にわたり、手鉢、徳利などの懐石道具等々も焼かれました。
この時代の茶陶や器類は大きな影響を与え、現在の備前焼の指針となっています。
幕末になると作行に力がなくなり、同時に販売量も下降し始めます。この時代、小堀遠州(1579年-1647年)好みの小綺麗で薄作りな物が主流になって行きます。この遠州の茶の湯は「きれいさび」と云われています。 そして備前焼は苦境の時代に突入し始めます。
窯変の美
高台を確認
陶器の高台は、ザラザラしている場合があります。そのまま使用すると、テーブルなどにキズをつけたり他の器に傷つけることもあります。ザラザラしていたらサンドペーパーや砥石等でこするなどして滑らかにしてください。
器にラベルやシールが貼られていたり汚れていることもあります。使用前にぬるま湯にしばらく浸けておき、ていねいに洗ってください。お湯で充分に洗い流し、スポンジなどを使って、器についた汚れを洗い流します。この場合、色絵や金彩などの器は傷が付きやすいので注意しましょう。
乾燥させる
生乾きのまましまうと、カビの原因になるので注意してください。十分に乾燥させた後に食器棚にしまってください。
使用法
陶器は、料理や飲物の汚れがしみ込みやすいので盛る前に水に浸しておき、かるく拭いてから盛り付けします。このように使用前に水分を吸わせるますと、料理の汁や油また茶渋、シミ等がつきにくくなります。
赤絵や金彩などの上絵付が施されているものには、酢のものは盛らないで下さい。上絵が酢で変色することがあります。
焼き締めのうつわに魚料理をのせると生臭さがついてしまいます。使用前にキッチンペーパーなどに軽くサラダ油を含めコーティングすると匂いがつくのを防ぐ効果があります。
使用後はなるべく早くお湯で洗う
使用後に長時間浸しておくと、汚れや洗剤が染み込んでしまい、カビ、シミや臭気を発生する原因になりますのでご注意下さい。
色絵や金銀彩の場合
強くこすると上絵等がはがれたりすることもありますので柔らかいスポンジでやさしく洗って下さい。
破損しないために
食器は洗うときが一番破損しやすい時です。大切な器を洗う時は、シンクに厚手のタオルかシンクマットを敷いておくと、落下した場合でも、破損を防ぐことができます。
シンクでは一度に洗わず、一枚ずつ丁寧に洗うようすると安心です。洗剤で指が滑りやすいので高台に手をかけて慎重に洗ってください。
食器洗浄機で洗うと、細かいキズがついたり、することがありますので高価な器は出来るだけ手洗いしましよう。
漂白剤を使用する場合
おち難い汚れが付着した時は、薄めた漂白剤に浸すのが効果的です。漂白後はにおいがなくなるまで十分にすすぎます。それでも漂白剤の匂いがとれない場合は煮沸してみてください。
上絵や金彩銀彩、プリントがなされているうつわを漂白すると変色してしまう可能性もありますので軽く洗う程度のお手入れにとどめましょう。
自然乾燥をさせてから収納
煮沸の時と同様、充分乾燥させた後、食器棚に保管しましょう。特に陶器は吸水性が高いので生乾きのままで収納するとニオイやカビ・シミの原因になります。
陶器の場合、
ふきんで水気をとった後、すぐには片付けないで十分に乾燥させてから収納しましょう。
重ねて収納する場合は、食器同士で傷つけてしまう恐れがありますので、ペーパータオルや和紙等を間に挟んでください。
史跡 伊部南大窯跡 昭和34年5月13日指定
備前焼は、平安時代の末期から現在まで約千年の歴史を持つ。その最盛期に当たる桃山時代の様相を物語るのが、この南大窯跡である。
南大窯跡は、当時、北大窯跡、西大窯跡と並んで共同窯として使用されていたもので、東大窯・中央窯跡・西窯の三基の窯とそれらに伴う物原(不良品、破損品を捨てた場所)から成っている。
最大の東窯跡は全長54m、幅約5mに達し、国内でも最大規模の窯跡である。
中央窯跡は全長30m、幅約2.3m、西窯跡は全長30m、幅2.8mとやや小型である。
三基とも床面を若干掘り下げた上に天井を架けて、トンネル状にした穴窯と呼ばれる構造で天井を支えるため土柱が設けられていた。
この窯では、一回の焼成に薪き、15000〜16000貫(約56〜60t)を焚き、製品3万4〜5千個を34〜35日かけて焼いていた。
この穴窯で焼かれた製品は壷、瓶、擂鉢などの日常雑器類が主で四石(約七百リットル)入りの大瓶のような大形品も見られる。
それらの他に茶器、花器も焼かれており、特に桃山時代の製品は美術的に高く評価されています。
文部省
備前市教育委員会
岡山県邑久群長船町の邑久窯址群
邑久窯址群は古墳時代後期から奈良時代末まで
存続するがさらに北方の備前焼を主とする伊部 古墳群に引き継がれる。
20m〜100mの丘陵斜面に築窯された丘陵下には
東須惠・西須惠の名が見える。
付近には服部・土師の地名も分布するが、いずれにせよ大規模な窯業地域の原動力となった須惠工人群の
居住地として丘陵下の須惠集落を想定できる。
参考文献: 古代手工業歴史地理学的考察
高橋誠一著
天津神社本殿
史跡 市指定文化財(建造物) 昭和56年(1981)7月24日指定
天津神社は、由緒書によると応永18年(1411)以前の創建で、昔は浦伊部にあったが、御神託により、天正7年(1579)に現在地に遷宮した。
本殿は棟札によると延宝6年(1678)の建築で蟇股、虹梁、木鼻の繰形が特にすばらしい流れ造りの、一間社で、江戸時代の一間社建築としての、例のないすぐれた建築である。
境内には備前焼瓦で葺いた門、現代備前焼作家の陶印入り陶板をはめ込んだ塀、備前焼陶板をしきつめた参道などが配置されていて、初夏に咲く紫陽花の花と印象的なコントラストを見せている。
参堂脇には万延2年(1861)の年号を持つ宮獅子が配置されている。
平成12年(2000)2月 備前市教育委員会
閑谷学校
岡山藩主池田光政は和気郡木谷村の北端・延原の静かな地に学問の理想郷、庶民のための一大道場の建築でした。その思いを実現すべく手習所を設置、ついで重臣津田永忠にに命じて建設させたもので、現在の姿が整ったのは建築には32年を費やして元禄14年(1701)に完成しました。建築物の屋根瓦は備前焼が用いられていますが、そのために近くにわざわざ窯を築き、伊部から陶工を呼んで調達しました。しかも、その建築技術は現在においてもすぐれたもので備前焼の瓦が美しい国宝の講堂をはじめ、敷地内の建築物のほとんどが重要文化財指定となっています。創立以来、儒教精神に基づく教育がなされ、他藩からの入学者、学者、文人の来遊も相次いで、明治になってからは、旧制中学、新制高校と変遷し、現在は県青少年教育センターがあり、三百有余年の間、優秀な人材を送り続けています。
閑谷学校は、藩営の庶民教育機関としては、日本だけでなく世界でも最も古いもので、これらの建物周辺は冬は梅、椿、春は桜、夏は新緑、秋は楓(かえで)や楷(かい)の木の紅葉などの景観がすばらしくマッチして四季を通して観光客の目を楽しませている。
《文中敬称略)