素人の美術談義(書画篇)
富岡鉄斎論

芸術(美術)なんて高尚なものに無関係な僕が、芸術論を語るなんて土台無理は百も承知であるが、ズブの素人だからこそ専門家にない斬新な意見も出てくるだろう。四面楚歌の中で敢えて挑む無鉄砲な論議、皆さまも参加して大いに盛り上げてください。
真贋のはざま
世の中の浜の砂は尽きれども、贋作(数)の種は尽きまじといわれるように古来よりいわゆる贋作と言われるものの数は殆んど無数にあるようだ。模写にしても、それなりに立派なものだから、本人が署名(捺印)すれば、立派な作品であるに違いない。が、美術商(骨董屋)と作家が組んで贋作を造り上げる。実作者にしても、贋作を作る意志なんか、初めから持ち合わせていなかったにも拘らず美術商によって贋作に仕立て上げられる。
贋作とは常に芸術につきまとう影、芸術と言う美徳の存在なくして成り立たない悪徳である。人類が、自分たちの歴史の美しさを描きとめた作品、天才と近づくための作品を所有したいと言う願望がある限り贋作者は嘲るように気取り、その利用に応じるべく笑みながら存在してきた。芸術とは天才が一度ならず手を触れた聖遺物や盲目的崇拝物を売る商売なのだ。騙されやすい買い手に贋作者(商人)が提供するのは芸術ではなく、たんなる「真物の保証」である。才能や良心の咎めもない芸術家に、贋作は富のみならず、密かな自己満足、名声をももたらす。己の作品がルーブル、メトロポリタンなどの壁に掛かっていることは、喩え世間の誰一人が知りえなくて棋界の権威に対する最高の喜び復讐となるであろう。
有名な著作者の場合の方が贋作が多いのは当然のことだ。何分にも経済と直接結びついているのだから。古作の場合、それが本物であると断定するには大変難しい作業を要するようで、真物と決定することは殆んど不可能かもしれない。持ち込まれた作品(美術商によって)に、まして実作者自身が間違って、自分の作品だと箱書(署名捺印)きを入れる場合もあるようだ。あるいは、商人美術商の口車に乗せられて、あるいは故意(意地悪で、世間に対する挑戦で)にサインする場合もあるようだ。
贋作といってもピンからキリまであるようだ。フェリメール(ファン・メーヘレン)に見られるピンから巷に満ち溢れるキリまで色々多種多様であるので、まずもって贋作の定義から始めなくては議論にならないが、ここでは肩を張らずに単に偽者と理解願いたい。当然ながら最近発表(2009.4 奈良国立博物館長)になった小野道風の国宝「円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書」(東京国立博物館蔵)が後世の写しであったということなんかとは次元の違う話である。もっと泥臭い現実の物語なのだ。
数年前には考古学者による旧石器発掘捏造事件は日本中を震撼させた。あたらしい石器を古いものだといい、おまけに古い地層を掘る前に、そっと忍び込ませておく。あたかも自分が第一発見者の如く装う。学者も地に落ちたものだ。これこそマッチポンプと言わないでなんと言えばよいだろうか。
商人ブローカーはニセモノつくりに没頭し、世の中ニセモノだらけ、美術館だって贋作を掴まされる。欲に絡んだ書画骨董の世界、魑魅魍魎が跋扈する世界、悲喜こもごも、今日もまた悲劇(喜劇)が生まれる。
真贋は大切なものだが、それほどまでに拘らなければならないものなのか。真贋は学者(専門家)にとっては確かに大切なものだが、僕のような素人にとってはそれほど拘るべきものでは無い様にも思える。絵画を見て楽しみ、それぞれのレベルに応じ、自分自身が納得いければ十分ではないだろうか。贋作には真作ほど真に迫る迫力がないということだが、必ずしもそういうわけではない。著名画家の作品でも、技量的に不味いものも間々あるようだ。富岡鉄斎の作品でも贋作のほうが上手だと言う専門家も多数いるようだ。何が芸術で何が駄作かは永遠の謎かもしれない。以前鉄斎美術館で真贋の作品展が開催されたことがある。おなじ題材の真贋二作品を並べて展示された。解説では真よりも贋の方が上手だという例もあったように記憶している。
真贋の世界なんてワイン(酒)の世界に合い通じるものがあるようだ。伝統を誇り埃を被ったボルドーの世界、ワインのブラインドコンテストで、カリフォルニアワイン(アメリカ)になすすべも無くこっぴっどく打ちのめされたボルドーの主張はコンストラクチョンの有無だった。このコンストラクチョンを証明すべく10年後、20年後に再挑戦を賭けて再び行われた同じコンテストでも、返り討ちどころか完璧なまでに打ちのめされた。美術界(芸術界)も不思議な世界だ。また、ある意味では政治の世界にも似通っているようだ。誰が何か言おうとしても真実(まこと)その正誤は立証できるものではない。それ故非科学の分野かもしれない。でも結果論的に、どんな猫でも鼠を捕らえればイイ猫なのかもしれない。政治界も結果論的で結果を伴わなければどうしようもない。又ある意味では医学界とも相通じるようだ。ボスがたとえ黒いものでも白といえば、以後白いものとなる。美術界のボスが白といえば、これは白なのだ。黒といえば黒なのだ。白黒相反する二つの事象が一つに制約される。ことの正非はまた別ものなのだ。X線、超音波診断装置、スプリング8など、科学的検査を持ってしても、これは手段であって美術品の真贋を立証さるべきものではない。どんな手具立て手段を持ってしてもそれが真実だという100%の証明は不可能なのだ。
世の中そんなに甘くは無い。騙し騙されて流れ行く(鴨長明)のが世の常である。永遠の不条理、断続的連続が何時の世の中でも行われている。楽しければそれでよい。楽しめたらなほ良い。それ以上の感激はない。人間単純な方が万事幸せなのだ。
富岡鉄斎略伝
少年期は猷輔(猷介・猷助)と名乗り、青年時代には道昴(道節)といった。維新後になると百錬と名乗っている。幼い頃風疹症のため難聴となった鉄斎を両親は商人には向かないと思い、彼を学問の道に進ませようした。富岡家は代々法衣商(十一屋傳兵衛)をいとなんで来たが、石門心学を家学として取り入れてきた家柄で、父も学問好きであったようだ。石門心学の教えは儒教、仏教や神道を一まとめにしたもののようで、封建制のもとに町人道徳を説いたものだが、その倹約・質素を重んじる主義・主張は、当時の京都・大阪の町人階級の深い影響力を及ぼし、武士の間にも信奉するものも現れていた。鉄斎は国学、漢学、陽明学、仏教など幅ひろく学問をおさめ、このころから神官を目指そうと決めていたようである。平田篤胤、本居宣長、野之口隆正等の直接の影響も無視できない。師事した師はいずれも熱烈な勤皇派であったから、幕末には鉄斎も勤皇思想に傾き、志士たちとの交流も生まれ、幕府のブラックリストに載せられていたと云われている。和歌を詠み、陶器をつくる風流人として世に知られていた蓮月尼と鉄斎の父・維叙とは行き来があり、尼の一人暮らしを心配した父維叙が、鉄斎を蓮月宅に住み込ませたらしい。鉄斎は学問の傍ら、蓮月尼の作陶を手伝ったり書画にいそしんだらしい。結果的にはこれが鉄斎の人格形成に果たした役割は大きいものだ。三つ子の魂百までと言われるように蓮月尼の影響は過小評価してはならない。妻春子(中島華陽の娘とは死別、二度目の妻は母親絹との折り合いが悪く離婚、三度目の妻)との接点は野之口の塾で友達になった野呂直貞の紹介であったという。春子は伊予の国の砥部の出身だが、どうして直貞と知り合ったのかは判らない。春子は同郷の矢野玄道を頼り京都に出てきていた。向学心の萌える若き乙女春子(26歳)と鉄斎の出会いであった。尊皇攘夷の旗を掲げる鉄斎は、幕府より目の敵とされたが、耳が聞こえにくく倒幕の密議に参加できなかったのも幸いした。鉄斎は反面自分の息子謙蔵に英語を学ばすために内村鑑三につけた。当時、悪名高い内村鑑三はクリスチャンであるばかりでなく、尊皇攘夷の旗を掲げる鉄斎とは相容れないようにも思えるが、鉄斎の柔軟な態度のいったんとして捉えることが出来る。このように安政の大獄も無事乗り越えることが出来たのも蓮月尼の助言もあったことだが、何事も慎重な鉄斎の性格でもあった。
明治6年神戸に湊川神社が建てられることになり、鉄斎はその宮司に推薦された。しかし、正式辞令は「権禰宜」であったため、鉄斎は立腹して早々と辞退してしまう。 そして「宮司らの教導職の任命にあたっては人選を厳にすべし」との趣旨の建白書を教部省に提出している。こいう一本気なことが蘇東坡(宋の詩人)とそっくりなのだ。明治9年には堺県布留村(奈良県天理市)の石上神社の少宮司を拝命する。単身赴任で、経済的余裕はないながら、同社に鏡などを献納したり、私費で回廊の修理をしたりもする。 しかし、あまりにも高邁な理想の鉄斎は、周囲から煙たがられたようで、意見の対立を生み、ついに辞表を提出したりするが、ほどなく堺県大鳥村(大阪府堺市)の大鳥神社の大宮司に任ぜられる。鉄斎は官幣大社の大宮司に抜擢されてたことを大変喜び、大鳥村に家族を呼び寄せ、仕事に励むようになった。また社殿を復興するため、書画を売って資金とした。 明治10年には堺に行幸があり、鉄斎は天皇に拝謁が叶った。この時期、神社の復興費用捻出のための画債が「屏風三十双近くある上、他に絹紙八百枚程が滞り」、催促を受け苦しんでいたらしい。神社のためたいへんな借財を背負い込んでいたのだ。明治14年、兄が病死し、病床の母の面倒をみるために、神官を辞し、京都に帰って行った。
明治39年室町(京都)の料亭「樹の枝」で「富岡鉄斎先生書画陳列」が開かれた。 これが71歳にして初めて鉄斎の個展だった。 明治40年には明治天皇の命として御用画の制作依頼され、鉄斎一代の力作、双幅「神仙高会図」、「阿倍仲麻呂」を献納している。鉄斎の作品は老いるほど、絵に輝きを増しており、多くの画集でみる作品の量も、60歳代までの若描きは3割ほどで、歳をとるほどに増え、89歳を迎えても、鉄斎は元気そのもので作品数は一番多い年とも云われる。商売絵としてじっくり腰を据えて描かれたものよりも早筆で即興的に書かれたものの方が素晴らしく力強く感じられるものが多いようだ。
最後の文人画家富岡鉄斎を考える
僕の好きな画家に富岡鉄斎がある。鉄斎は自由奔放、その画に面白さがある。
ほぼ独学ながら国学に漢学に秀ており尊王派の一翼を荷い明治維新の荒波を見事乗り切った。現在のように金さえ出せば何でも手に入る時代と背景が異なる。彼の膨大な資料を集めるだけでも並外れた努力が必要だったに違いない。江戸末期から明治の初頭に駆けての激動の時代、如何にして漢書(漢籍)を入手したのだろうか。京都文化大学(京都大学文学部)の開設(明治39年)に協力され、漢籍入手に長男謙蔵の努力も無ではなかった。苦労に努力を重ねて得られた才は本物であるに違いない。同月同日生まれと言うだけで蘇東坡(宋の詩人)に興味を示しその生き方に共鳴し、儒学、仏教、道教に詳細なる知識を獲得した。勿論蘇東坡の外面的なものばかりでなく、権威に拘らない性格、天に唾する、歯向かう姿勢に共鳴してのことだった。東坡の規定の道徳、規範に抗する気概に惚れこんだようだ。
鉄斎の書画は、私のように自称優男では、疲れてしまいます。「鉄を鍛えて不純物を取り去り、器を作るならば素晴らしいものになる、道を学ぶもの心の垢を取り去れば、清浄になる」との仏説から鉄の号とした、と言う。書は「御家流」を学んだとも言われるが、学んだでしょうが、文字を覚える手段だったのでしょう。絵は、大角南耕などに手ほどきを受けたが「師匠とするところ無し、ただ意に随って、造る」と言っているので、そうなんでしょう。絵と賛で一つなのですが、絵も強すぎて、書も強すぎて、書は行間を無視して奔放です。しかし、好みの問題でなく、引付けられるのは何なんでしょう。書きたいように書いているからでしょうか。そんな中で湘君図は繊細で、美しく絵も書も素敵です。しかし鉄斎らしいうねってくるような迫力がない。美しい人を美しく描いてみたのでしょう。鉄斎は見る者に媚びないと言い切っています。このところ鉄斎の油煙墨を何年も使っています。(小林秀雄)
墨には色々の種類があるらしいが、青墨の濃淡だけで遠近感をあらわし、雪や月明かりを、元の白紙の紙の余白部分を利用して白色を表現している。牡丹雪のタッチが憎らしい。岩肌はふっくらとしてゴツゴツしていない。丹頂鶴の頭の赤、遠山のブルーはいったいどんな顔料を使用しているのだろうか。何処から涌いてくるのか構図(図1)の発想もとてつもない常識外れのものだ。まるでパラグライダーに乗り富士山丈の宇宙散歩を楽しんでいるようにも思える。山水図の瀑布の早い流れ、やや落ち着きを取り戻した流水、山の遠景の奥行きのある絵画がにくたっらしい。ルノワール調のタッチ、ゴッホ張りの力強さ、セザンヌ的構図の取り方、日本にもこんな素晴らしい画家がいたのだ。洋行(パリ)帰りの若き画家たちが鉄斎に傾倒したのも当然なことだ。軸中の山水の幽居に居る二人の人物像は一人は鉄斎自身であり、もう一人は妻の春子だという。勘ぐれば春子でなく蘇東坡かも知れない。何を考え何を話しているのだろうか。まさか難解な南学や漢学の話でもあるまいし、おそらく単なる世間話に興じているのだろう。軸の幽居まで視線を落として鑑賞してみたいものだ。
作品をじっと見つめていると清く細く冷たい鉄斎の線の中に潜んでいる温かく男らしい骨太な線が出てくる。その表裏の妙技こそが古の日本人の真の憧れではないかと感じられる。清く気高い悲しみと清冽なる涙を堂々と背負い、その彼岸に存在する真の憧れに向かって、力強く生きる本当の日本人の姿が鉄斎の筆を通して感じられる。鉄斎にはそれを描く技と、痩身の鉄斎からは考えもつかない、何よりも人間の迸るエネルギーがある。悲しみを背負いつづけ、それを真の涙と化した者だけが有する本当の暖かさ、骨太いバイタリティーを感じざるをえない。生の喜びなのだ。生命の賛歌なのだ。
日本画壇の中で整然とした、奇麗な纏まりのある端正典雅で静寂、清浄に落ちついている横山大観に比べて大変逸脱した構成、小学生の絵かと見間違えるようなタッチと構図、難解な賛との調和、それにも増して故事略歴を表現した絵画はそれなりに理解せねばなるまい。武者小路実篤のいう生命のうねりなのか律動なのか、激しい燃える力が漲る。「絵画の根本は学問にあるのじゃ、そして人格を研かなければ描いた画は三文の価値もない」というのは鉄斎の言葉であり、学問の到達感から来る自信、学問の裏打ちなくして、立派な絵画とは言えないと言う自負心を広言してはばからない。
文人画とは職業画家に対して中国の科挙(進士)に合格した教養人が余技をもって描く素人画のことである。初めは中国特有のものであったが、のちに中国画壇の主流となり日本に入って来たのは江戸中期以降のことである。貴族の御用画家、専門画家集団である剛健雄渾な格のある北宋画に比べ清廉高潔な人格の持ち主である文士高士の描く幽遠静寂、括淡天真な叙情的な絵画は南画(南宋画)と言われる。この南画が後の文人画となっていくのである。
鉄斎は自分は儒者であり、画家ではないと口をすっぱくして語っている。鉄斎は常日頃、「わしの絵を見るなら、まず賛を読んでからにしてくれ」と言っていたそうだが、「万巻の書を読み万里の道を行く」(董其昌)という鉄斎は国学、漢学を修め且つ陽明学に通じ幽遠静寂、括淡天真な叙情的な絵画をものにした。達筆で書かれた賛を正確に解読するのはこれまた難解なことで、且つ又そこに押された印譜・関防印も漢書からの引用が多く、理解するには困難を極めるようだ。どうして昔の人はこうも漢学に秀出て我が物としたのだろうか。勿論先人たちに教えを請い努力し励んだには違いないことだが。わが国ではいわゆる南画からでて文人画といわれるものに変身するわけだが、鉄斎自身は最後の文人画との地位をもえている。僕は英語を個人レッスンを含め約60年間以上も習い勉強したにも拘らず、いまだものにはならず、聞くことも話すことも出来ない。集中力、取り組む態度に違いがあるのだろう。古典英語(シェっクスピア)なら少しぐらい読み理解出来るのだが。
鉄斎は「他時堕落泥犁獄、不免閻羅売飯銭(死んで地獄に行ったなら飯(酒)を食うため作品を売ったことを閻魔様にとっちめられるだろう)」(図3賛)といいながら伊予国の海船問屋近藤家(三津浜石崎家番頭)・石崎家に寄宿して逗留、作品を金に換えていたようだ(大和文華館)。伊予(三津浜)とのかかわりは不明であるが妻(春子)の出自も砥部(松山)というからこの辺りが縁を持つきっかけとなったのかもしれない(伊予の北の三津浜と南の砥部とはだいぶ距離も離れている)。近藤家から盆暮には新鮮な魚類が送られ、その都度礼状の手紙を添えて作品を送っているようだ。この作品と書簡類は全て財団法人大和文華館(奈良市学園前)に保存されている。又この時、贈物のお礼の書状絵画とは別に絵画を送り四国での販売を依頼していたようだ。わが故郷奈良(御所市)にも約二カ月間逗留していた記録があるようだ。現在、御所の地にも幾点かの鉄斎の作品が残されているが、その当時のものかどうかははっきりとしないようだ。
鉄斎は道義心のきわめて強い人だった。生来の性格でもあるが少年期から青年期に駆けて接触した先輩や友人たちの感化も見逃すことが出来ない。晩年の鉄斎はきわめて穏やかな老人ではあったが「権門に屈せず、富貴に媚びず」という激しい気性は東坡と同様、生涯消え失せることが無かった。信仰心が厚く、義理がたく、また同情心に富んでいた。
しかし、世間一般には鉄斎の作品には贋作が多いと言われている。鉄斎自身、筆が早く多作家であり、その作品数は一万点とも二万点とも言われているが、その真数の数十倍いや数百倍の贋作が在るとも言われている。鉄斎の贋作者は日本全国で100人以上いたとも言われているし鉄斎自身の人気のバロメーターとして非常に面白い。明治に入って鉄斎の人気が上昇するにつれ、彼の作品を希望するものが増え、それに加え素人にも書きやすいよう絵画であり、中には鉄斎自身の筆になるものよりも上手なものまで出現するに到った(鉄斎美術館)。でも形式的には絵を写すことが出来るが、鉄斎の心まで写す事は不可能だ。これがフランスボルドーワインの言うところのコンストラクションかも知れない。
戦暁梅氏
鉄斎の賛を学んでおられる若き学徒、戦暁梅さんが最近「鉄斎の陽明学」という書籍を出版(勉誠出版社)された。263ページに及ぶなかなかの力作である。著者は中国人で、この書籍は日本学術振興会科学研究費の補助金を得て出版された。大陸的というか、大らかな、緻密で且つ繊細な、辛抱強い、詳細に亘る鉄斎の賛の解説には恐れ入った。中国人であるからこそなし得たので中国人らしい起筆がよくでている。陽明学(王陽明)は朱子学の主張する理と情とが共存するのではなく、心(情)と理は一つであり、我々の心は宇宙の実在の理であるとする。「心即理」を引き継ぎ「致良知」「知行合一」を唱え、心外に仁義道徳の理も無く心と理は合して良知の本体をなし、この本体は善悪を判断する知情意の作用を具有するとした。即ち自己の心の重視と人間性に対する信頼、開放への哲学と言い得るものかもしれない。でもこの書籍も「鉄斎美術館鉄斎研究誌」(兵庫県宝塚清荒神)の寄与するところが大きいようだ。鉄斎を理解するうえで一読の価値は十分にあると思う。
漢学を習得
鉄斎自身学問的裏づけがあってのことだが、何ぼ奇麗な画をものにしても、学問が出来なければその画は死んだも同然なことであると言っている。武者小路実篤の「美術を語る」によると「彼ほど下手な画を残した大画家も少ないと思うが、彼ほど高いところに達した大画家も少ないのではないだろうか。不思議な画家である。」ということになる。また実篤は画を見て美しいと思うだけでは物足りない、何かもっと精神的な糧を求める。それは理屈でも文学的なものでもない、もっと生命力的ななものであるとも言っている。鉄斎の作品の中にその生命のうねりを感じたのだろう。西洋美術の紹介・啓蒙に努めた実篤(白樺派)ならではの言葉である。正宗得三郎・中川一政・梅原龍三郎・岡本太郎等当時のそうそうたる洋行(パリ)帰りの洋画家達も鉄斎に関して文章を残しているのは、鉄斎の作品の魅力が一層強烈なものであったに違いない。メトロポリタンのアラン・プリーストによれば、美術史的位置は丁度西洋のセザンヌと同様で東洋の古典的理念である典雅なる精神の表現が鉄斎の真骨頂で、しかも鉄斎の精神は陽気で愉快であり、そこに鉄斎の魅力があると。なかなか精神性のみか技法的にも非常に優れたものであることは作品をじっくり鑑賞すれば素人目にも一目瞭然だ。鉄斎はアメリカや本家中国でも巡回展を催して高い評価を得ている。
小林秀雄が鉄斎に嵌(はま)る
小林秀雄(文学者)は鉄斎の「富士山図」の6曲1艘(63歳)の屏風(図1)が好きだそうだ。清荒神(宝塚)のこの屏風の前に4日間座り続け、じっくりと眺め通したという。「早朝から座りとおし、夜はヘトヘトになり、酒を食らって熟睡した。何一つ考えず、四日間ただ見てみて、茫然としていた」と述懐しておられる。1948年のことで、此処で約250点の作品を鑑賞し、帰路京都の富岡家に寄り、2日間に亘りまた鉄斎の作品を続けて鑑賞し続けたという。よほど感銘するものがあったのであろう。右葉は繊細にして詳細な北斎風に円錐型の富士山、浅間神宮から山小屋やジグザクの登山路まで実写されているが、作品全体は幼稚な発想であるが、どこからこんな構図が出てくるのだろうか。左葉は頂上の噴火口であり、まるでパラグライダーに乗ってでも観察したのであろうか。賛によると池大雅、韓大年、高芙蓉と鉄斎自身とで登ったという。この大作、下手な絵画なれどもこれほどまで評価を得ているのは鉄斎の精神性の発露なのかも知れない。
三教合一の思想を表現する画題
(儒教、仏教、道教はそれぞれ教えは異なるがそれぞれの根源は同じである。究極には同じ思想なのだと鉄斎は説いている。)
「書三酸」の古事に由来するもので、現代では鉄斎の40歳代、50歳代、60歳代、70歳代、80歳代に書かれた鉄斎の、この「三教合一」の具現性を並列に鑑賞できるが、やはりこの83歳の「三老吸酢図」(図2)が抜きん出ているようだ。でも鉄斎自身は神道を歩んでおり石上神宮(奈良天理)、大鳥神社(大阪堺)や石切神社(大阪府)、車折神社(京都)の宮司(神職)に就任していた。もともと富岡家は京都の本願寺付近で法衣商を営んでいたようだ。幼くしてあの連月尼に預けられており、彼女の思想的影響は無視し得ないと考えられる。明治の激変の時をえて、国家主義的発想もこの時から醸し出されて来た様だ。日本の神道と儒教との関係の詳細は僕には不詳である(ご存知の方ご教示お願い致したい)。
三老吸酢図(図2)
宋の文豪蘇東坡と彼の友人黄山谷は、ある日金山寺に佛印和尚を訪ねた。佛印は上等な桃花酸を出し、一緒に味見をしようと誘った。そして三人で一緒に酢を嘗めて、共に眉を寄せたという。黄山谷は道教の人、蘇東坡は儒教の人(真実は仏道兼学の仏教の人らしい)、佛印は仏教の人であり、三人三様に眉を寄せたが、その源となる桃花酸は同じものと言う点によって、三教の説くところは大いに異なるにしても、起源は同じであると言うことを意味するらしい。
三聖人図賛(40歳代)
賛 具大總持門。若儒道釈之度我度裏。皆従這裏。能知真実際。而天地人之自造自化。只在此中。
三聖吸酢図賛(50歳代)(三聖人とは孔子・老子・釈迦を示す)
賛 老子喜談清虚。釈迦專説舎利。夫子聞之。笑倒在地。
三老吸酢図賛(83歳・図2)(三老とは東坡(儒教)佛印(仏教)黄山谷(道教)を示す)
賛 人言。鼻吸五斗酢。方可宰相。東波平生自謂放達。然一滴人口。便而閉目攅眉。宜其不及於時。偶披比図。書発一笑。右王陽明。
世間の人のいうには鼻に五斗の酢を吸うような艱難辛苦を味わらなければ宰相にはなれないという。蘇東坡は平生、俺は物事にこせこせしない大らかな男だと自分で言っていたが、黄山谷と一緒に仏印禅師を訪ねて桃花酸をもてなされた時、一滴の酢が口に入ると、そのまま目を閉じ眉をしかめた。だから時世に合わず、宰相になれなかったのも当然である。たまたまこの三老吸酢図を開き、この賛を書いて一笑した。この文は王陽明の文集にでている。(鉄斎は宋の蘇東坡を同月同日生まれとして親しみを持って接していた。)
竹居幽居図(図3)なる軸がある。
恐らく鉄斎最晩年(83歳)の作品だろう。この画には力強いエネルギーは見られないが、枯れた画自体のまとまりが見られる。この絵画と賛とはその内容が関係なく、鉄斎の自己主張、自己反省の材料である。
賛 洗硯揮毫抹大箋,丹青換酒送流年,他時堕落泥犁獄,不免閻羅売飯銭.
硯を洗い(筆)を揮うて大箋に抹す.丹青を酒に換えて流年を送る.いつか泥犁の獄に堕落せば,免がれず閻羅の飯を売る銭。若し後日になって自分の作品が生活の必要にせまられ衣食酒に換えるような場合、地獄で閻魔さんに詰問されるだろう。
この画の関防印「函三」の印文は「漢書」律歴志に「太極元気函三為一」とあり、太極の元気が未だ分かれず天地人の三つが混合して一つとなっていることの意味らしい(大和文華館)。どこでこんな律歴志を読み、会得したのであろうか「万巻の書を読み、万里の道を往く」を実践した鉄斎独特のものである。天・地・地獄とシェクスピアの古典にも出てきそうな宗教的な意味合いの印譜である。今年のNHK大河ドラマは直江兼継の「天地人」である。無学の僕はこの意味(函三)を解するだけで約3カ年間もかかった。だがこの関防印「函三」は鉄斎印譜(芸艸社)には収載が見られない。しかし同じ関防印「函三」の使用された作品は他にも沢山見られる。この軸の絵と箱書きの文字との筆跡が異なるようにも思う。箱書きの書と賛の書は全くアンバランスだ。箱書きは83歳の鉄斎に間違いないが、賛の書体とは明らかに違うようだ。作品自体は50歳代の後半から60歳代の半ばまでのものであるに違いない。若いときに描いた絵画に箱書きを依頼されて後年(83歳)に別に箱を作ったのかもしれない。あるいは贋作かもしれない。もし贋作なら手の込んだ細工に仕上げられているようだ。(関防印 書画の始まりの位置を示すために押す長方形の印)
奇磊健幹古木図屏風(六局一双)(図4)
賛 奇磊雲煙をおさめ,健幹は霜雪を閲す。
右(珍しい石は)雲や煙を包み,健幹(素晴らしい立派な木の幹)は長い間霜や雲を経て立派である。
左 玄なほ人として墨からしむ。色の白いのは美人と言うことだ。
大きな六曲一双のキャンバスにただ二本の老松と岩を書いただけのものあるが、墨一色で書かれたこの画は何年にも亘り星霜をえて立派になった土垠情がうかがえる。左の画面の枝に止まった鳥(カラス)が数羽書かれている。鳥の大きさからして松栢樹の大きさ太さが想像できる。力強いタッチ、生命の息吹が感じられる。真(まこと)もって命の律動を感ぜざるを得ない。勇壮な、雄渾な、人の心に割り込み浸食してくる何かがエネルギーがあるようだ。でも巨石はふっくらと膨らんでおり、岩本来の冷たさやゴツゴツした硬い感じがしない。松柏樹(健幹)もその肌(松茂)はむしろ柔らかく感じる。岩苔や樹苔の所為だろうか。巧拙を超え、気宇壮大、画趣に富んだ、生き生きと躍動する韻致が充満する。真っ黒な作品、この大画面にただ墨だけで書かれた作品のどこに生命の誕生とその持続力があるのだろうか。小林秀雄じゃないが僕はこの屏風の前で一週間にわたり紋々と考え事をしていた。
一休戯謔図(紙本着色掛軸 布施美術館)(89歳)
賛 一休禅師與蓮如上人道交親密。一日一休訪於山科佛院。適蓮如外出。一休窃登仏壇。手搴阿弥陀仏像。倒之為枕。而仰臥鼾睡。鼾々如雷。少間蓮如帰。見之叩一休肩日。
爾倒我櫃。我豈得不窮乎。一休睡覚。徐起坐而抵掌。共発大笑。
一休と蓮如とが知人であったのかどうかは解らないが、如何にも洒落にとんだ話だ、仏さんを枕に午睡するとは如何にも一休らしい逸話だ。その行為を咎めず、これまた俺の商売道具をも神をも揶揄する蓮如も鉄斎同様に彼らのとって神は単なる聖なる存在ではなく、同等のものであったかもしれない。鉄斎の心は神あるいは天と同等の存在と言うことを示しているようだ。
こうして見てくると鉄斎の作品には生活の生きる力がある。あるいは洒落かも知れない。いづれの場合も鑑賞者の中に入り込んで来るエネルギーが存在する。「万巻の書を読み、万里の道を行き、以って画租をなす」は儒学者鉄斎の座右の銘(董其昌)である。漢学は人生の進路に影響してくる。人生に指針を与える。パスカルのように人間考える葦かもしれないし、その岐路では方向性をサゲッションしてくれる。これはまさしく鉄斎の人生哲学かもしれない。鉄斎は素晴らしい、人生の謎を吹っかけてくるし、指針も与えてくれるようだ。
鉄斎
京都(三条通新町東)法衣商十一屋伝兵衛富岡維叙の次男として生まれる。幼名は不明。猷輔を通称とし、のちに道昴・道節と称し、明治のはじめ頃、一時名を鉄斎としたが、しばらくのち百錬に改名。字を無倦、号を鉄斎とした。別号に鉄人、鉄史、鉄崖などがある。耳が少し不自由であったが、幼少の頃から勉学に励み、はじめ富岡家の家学である石門心学を、15歳頃から大国隆正に国学や勤皇思想を岩垣月州らに漢学、陽明学、詩文などを学んだ。安政2年(1855年)
18歳頃に、女流歌人、尼僧 太田垣蓮月(1791〜1875、幕末期の女流歌人)(耳が悪いので商売には向いていないと判断される)に預けられ薫陶を受ける。血気盛んな青年時代の鉄斎に大きな影響を与えた。和歌を詠み、陶器をつくる風流人として世に知られていた蓮月と鉄斎の父・維叙とは行き来があり、尼の一人暮らしを心配した維叙が、鉄斎を蓮月宅に住み込ませたらしいという説もある。鉄斎は学問の傍ら、蓮月の作陶を手伝ったり書画にいそしんだらしい。翌年、南北合派の窪田雪鷹、大角南耕に絵の手ほどきを受け、南画を小田海遷に、大和絵を浮田一恵に学んだ。文久元年(1861年)には支那、阿蘭陀の事情を知ろうとし長崎に遊学し、長崎南画派の祖門春徳寺鉄翁、木下逸雲らの指導を受けた。翌2年、山中静逸(信天翁)と出会いをきっかけに、画業で生計を立て始めた。この頃私塾を聖護院に開設もした。生活は苦しかったらしいが、蓮月尼の勧めもあり所帯を持つ決心を固め、 1867慶応3年(30歳)、近くに住む円山派の絵師・中島華陽の娘と結婚した。翌年長女が生まれるが、2年後に明治天皇が再び行幸するのに供奉して鉄斎ははじめて東京に行ったが、その留守中に妻は病死してしまう。暫くして後妻を迎えるが、鉄斎の母と折り合いが悪く、離縁した。 そして 1872明治5年、友人の仲介で文章博士・五条家の奥女中として働いていた佐々木春子と結婚(長男誕生)する。 鉄斎37歳、春子26歳であった。しかし鉄斎は結婚後まもなく、明治天皇の鹿児島行幸に供奉する人に随行し、鹿児島に行ってしまった。維新後の30歳から40代半まで大和(天理市)石上神社や和泉国大鳥神社の神官(宮司)を勤める。大和国の式内社加夜奈留美命神社を復興している。座右の銘である「万巻の書を読み、万里の道を往く」を実践し、日本各地を旅した。明治7年(1874年)には、松浦武四郎との交流から北海道を旅し、アイヌの風俗を題材にした代表作「旧蝦夷風俗図」を描いている
明治14年(1881年)、兄 伝兵衛の死に伴い京都薬屋町に転居し、終の住処とする。教育者としても活躍し、明治2年(1869年)、私塾立命館で教員になる。明治26年(1993年)、京都市美術学校で教員に就任し、明治37年(1904年)まで修身を教える。大正13年(1924年)の秋頃から鉄斎は「九十翁」と落款するようになるが大晦日持病であった胆石症が悪化し京都の自宅にて死去する享年90であった。
画業は歳を重ねるごとに次第に認められ、京都青年絵画研究会展示会の評議員(1886年)、京都美術協会委員(1890年)、京都市立日本青年絵画共進会顧問(1891年)、帝室技芸員(1917年)、帝国美術院会員(1919年)と、順風満帆だった。この間の明治29年(1987年)に田能村直入・谷口葛山らと日本南画協会を発足させ南画の発展にも寄与しようとした(一説によると鉄斎は竹田の養子直入を酷く嫌っていたというし、それに纏わる作品も残している)。また今尾景年を通して橋本雅邦と知己となり、明治関東画壇との交流も深まった。鉄斎は多くの展覧会の審査員となったが、自らは一般の展覧会に出品することはあまりなかった。明治30年(1897年)以降、自らが評議員である日本南画協会に定期出品している。賛助出品という形で、大正9年(1920年)聖徳太子御忌千三百年記念美術展に「蘇東坡図」を出している。また大正11年(1922年)、大阪高島屋で個展を開催もしている。「最後の文人」と謳われた鉄斎は、学者(儒者)が本職であると自認し、絵画は余技であると考えていた。また、「自分は意味のない絵は描かない」「自分の絵を見るときは、まず賛文を読んでくれ」というのが口癖だったという。 しかし、この賛文は、専門知識が豊富な学者でも簡単には読めないし、第一に文字が大変読み難いようだ。その画風は博学な知識に裏打ちされ、主に中国古典を題材にしているが、文人画を基本に、大和絵、狩野派、琳派、大津絵など様々な絵画様式を加え、極めて創造的な独自性を持っている。書き癖は年齢とともに変化し、古字、篆書、隷書など、様々な書体を自在に使い分けている。しかも脱字や誤字がままあるので、文字が読めたとて、賛文を理解できるとは限らない。原典を当たる必要はあるが、鉄斎が出典を明記している場合でも、いざその文献を当たっても目指す文章が見つからない事があるという。 鉄斎は厳密な学者というのではなく、ちょっと粗忽なところもあって、原典を一瞥しただけで賛文を書き下ろしたような気配があるという。 鉄斎が依拠した文献のほとんどは手元に蔵されていたが、その富岡文庫も散逸し、多くは稀覯本となってしまっており、研究者が見たくとも簡単には実現しない状況にあるようだ。こうした状況を憂い、鉄斎の作品の蒐集家である清荒神清澄寺の坂本光浄和上が1966年(昭和41年)山内に鉄斎研究所を創設し、本格的賛文研究委員会を発足させた。その成果は1983年(昭和58年)までに『鉄斎研究』として65号まで刊行され、一旦休刊し1989年(平成元年)に再開されたが、1996年(平成8年)の71号でストップしたままになっている。彼の作品は多作で生涯で一万点以上といわれる。しかし市中にある鉄斎の作品の殆んどが贋作であると言われてもいる。80歳を過ぎてますます隆盛で、色彩感覚の溢れる傑作を描いた。生涯を文人として貫き、その自由で奔放な画風は近代日本画に独自の地位を築き、梅原龍三郎や小林秀雄らが絶賛した。日本のみならず世界からもいまなお高い評価を受けている。兵庫県宝塚市の清荒神清澄寺の鉄斎美術館と、西宮市の辰馬考古資料館に多くの作品が収蔵されている。
鉄斎は晩年には絹本はめったに描かず、ほとんど紙本で描いた。 描き方について富岡富太郎(孫)が「紙に描く時は、くるくると巻いた紙を先ず上のほうから二尺程延ばして描き始め、描き終わった部分は上に巻き込み、しだいに下のほうまで描いていきます。最初は淡墨で主要な部分を一通り描きます。次にまた紙の上部から、彩色の場合なれば薄い代緒や青い色を塗り、しだいに濃い墨や彩色を加えていき、最後に宿墨で強い調子をつけて完成するわけで、その間に紙を全部拡げて画の調子を見るということもなかったようです。 鐵齋が画を描くところを見ていると、[胸中の山水を写す]という言葉が本当であることが理解されます。祖父は画家としては速筆の人だと思いますが、たとえ水墨の画でも幾度も、筆を重ねて画に密度がありますから、それほど簡単にできあがるのではありません」と語っている。
鉄斎は蔵書にどんどん手を入れたし愛蔵者の手垢の付いた、文字どおりの手沢本である。 たとえば、『茶話指月集』には、利休の墓のスケッチが描き込まれている。息子の謙蔵も、父に輪をを掛けた愛書家で、鉄斎の画がもたらす豊かな資力をバックに稀覯本を買い漁った。目の利く謙蔵の収集品には、国宝『王勃集』をはじめ一級の善本が数多く含まれていたが、親子二代で築いたこの富岡文庫も昭和13年、ついに売り出された。昭和期最大の売りたてといわれ、総売上げは記録破りの15万8千円であったといわれている。現在の貨幣価値からすると幾らぐらいになるだろうか。
富岡鉄斎(天保7〜大正13)は京都に生まれ、若くして学者を志し、大鳥神社の宮司などを勤めながら殆ど独学で絵の勉強をしました。明治14年、46歳の時に京都へ帰り、その後本格的に画業にいそしみました。そして89歳で没するまでに数多くの作品を描き、晩年には帝国美術院会員(今の芸術院会員)にもなって、日本の美術史に大きな足跡を残しました。
鉄斎の絵は、いわゆる文人画のジャンルに入りますが、文人画というのは、本来学者や文化人が、自らの思想や人生観を画面に表す絵であり、専門の画家が描いた絵と区別しています。鉄斎は文人の理想である古今の典籍にしたしみ、日本全国を歩いて自然を写すことを精力的に実行し、やがてそれらを消化して、高い意味内容を含んだ味わい深い画面をつくりあげることに成功しました。
作品の特徴としては、技法的には東洋のあらゆる画法を研究したようで、それが鉄斎ならではの独創的な表現を生み、時には繊細に、時には大胆に、何ものにもとらわれない自由闊達さが、彩色画にも水墨画にも縦横に発揮されています。主題は中国や日本の歴史、故事、逸話などから引いた物語や人物、或いは東洋画に伝統的な山水画を多く描き、やがてそれらは仙境図と呼ばれる独特の世界を現出するに至りました。鉄斎の評価は21世紀を迎え、ますます世界的に高まりつつあります(鉄斎美術館)。
鉄斎は1837年に京都で生まれ、89歳で亡くなるまでの間、一万点以上の書画を遺した大芸術家である。多くの書画を作った鉄斎ですが、彼自身、画家と見られることは嫌い、生涯「儒学者」としての立場を貫いている。そんな文人鉄斎は、中国明代の文人−董其昌(とうきしょう
1555〜1636)の影響を大きく受け、董其昌の『容台集』に見える「万巻の書を読み千里の道を行かずんば画祖となるべからず」という戒律を、鉄斎は生涯信奉したといわれている。だから彼は、絶えず読書や写生旅行をした。その他、鉄斎が影響を受けた人物に、貫名菘翁・大田垣蓮月・鄭板橋という名が挙げられるが、晩年まで鉄斎が私淑し、自身の書画に強い影響を受けた人物は、中国清代の文人で揚州八怪の首−金農(金冬心1687〜1763)である。金農(きんのう)の書画は大変ユニークで、現代感覚を宿す魅力的なものだ。洋画家中川一政も金農(金冬心)に私淑し、金冬心の詩を読む「冬心会‐とうしんかい」(メンバーの中に篆刻家の保多孝三、山田正平らがいた)という詩会を主催していたほどです。金農や揚州八怪(中国揚州で活躍した8人の文人)、中川一政については、今度別項で書きたいと思っています。ところで、鉄斎の生きていた時代は、まだ金石学(金属や石に彫られた古文字・文章を研究すること)が盛んではなく、金農のような金石学の大家の文字を受け入れた鉄斎の感性が、いかに柔軟であったかをうかがうことができると思う。
蘇東坡
鉄斎は、同じ12月19日生まれであるのを誇りとして「東坡同日生」の印を造り用いて、東坡遺愛と伝える「蝉硯」や、東坡が作らせたという「東坡法墨」も所持する熱中ぶりであった。 また「聚蘇書寮」という室号をつけて、東坡の著作や関連文献を熱心に蒐集し、中国では失われた「東坡先生年譜」も、筆写本を秘蔵していた。蘇東坡すなわち蘇軾(1036〜1101)は、北宋を代表する文人にして官僚であり、筆禍事件で死罪の危機に瀕したかと思えば、天子側近に取り立てられ、はては政争に巻き込まれて流罪となる。 そういう波瀾に富んだ生涯を、しかし余裕たっぷりに愉しみ、〈春宵一刻、値千金〉の「春夜詩」や「赤壁賦」をはじめ不朽の名作を残した。食にもこだわり、杭州で有名な東坡肉(トンポーロー)など東坡の名を冠した料理が100種以上もあるとかいわれている。鉄斎は、生涯にわたり東坡像を夥しく描いていて、大正11年には『百東坡図』なる画集も刊行した。 同一人物で百点もの図が描けるというのも、東坡の逸話がやたらと豊富だったからであろう。
蘇東坡は宋代を代表する詩人である。しかし、中国でも我が国でも「蘇軾」という名前より、「蘇東坡」の名称で親しまれているように思われる。彼は詩だけでなく、散文にも秀で、書や水墨画でも優れた作品を残している。王維や我が国の池大雅のようにマルチに才能を発揮することのできる人物であったらしい。蘇東坡は、北宋景祐三年(一〇三六)に眉山県紗穀行で生まれた。現在ここには、蘇氏の父子三人を祭る三蘇祠堂があり、いわゆるこの地方の名士としてあつかわれているが、上流階級の出身ではないらしく、家系を五代以前に遡れないし、絹商を家業としていたという説さえある。
しかし、宋代は科挙が重視された時代であり、家柄よりも進士に及第したかどうかが世に出るにあたって問題にされた時代なのである。俊才の蘇東坡は二十二歳で弟蘇轍とともに進士に及第している。この時の試験管の一人が欧陽脩であり、当時の宋の慣習によって以後彼を師と仰ぐことになり、大きく感化を受けることにもなる。しかし、このことが同時に政界の新旧両法の党争に巻き込まれることにもなり、蘇東坡の流謫の悲劇を招く伏線ともなるのである。
王安石の新法の改革が開始されると、流れの中からも、蘇東坡兄弟はこれに批判的な立場をとる。また、科挙の試験から詩賦が廃止されたことに不満を持った蘇東坡は地方転出を、自ら進んで希望したといわれる。このようにして地方官を歴任し、ちょうど湖州の知事となった時、朝政誹謗のかどで逮捕され過酷な審問を受けることになる。
読書萬巻不讀律
致君尭舜知無術
という句が法律風刺の新法政策をそしったと解されたのである。「詩経」以来、詩に詠まれた事柄については、為政者といえども、これを弾圧することはできないというのが中国の伝統であったが、宋代にはこの伝統も効力を失っていたようである。これが筆禍事件と言われるものである。一時期は死罪も覚悟した蘇東坡であったが、幸い恩赦によって死罪を減じられ黄州に流罪になった。この地では東の丘陵地域である東坡に小屋を建て「東坡居士」と号した。これが「蘇東坡」の名の由来となる。
流刑の身ではあったが、一切の政務から解放され、時間的にも余裕ができたこの時期の作品に名作といわれる詩文が多いとされる。
皇帝の交代によって旧法派が復活すると、蘇東坡も中央に復帰し宰相にまで昇進し、その後八年間は重職を歴任することになる。しかし、皇帝哲宗の成人によって再び新法派が台頭すると蘇東坡はまたしても流刑の身となる。今度は宰相として思い切った政治を行っていたため、新法派から深い恨みを買っており、恵州や最南端の海南島にまで流された。六十歳からの熱帯での流刑生活の辛さは想像するに余りあるが、蘇東坡は決して悲観や絶望を示すことなく楽観的人生観をより深め、旺盛な創作活動を行った。この時期のものは「東坡海外の詩」と呼ばれているが、優れた作品が多く残っていることでも知られる。
追記 (嫁入りした箱入り娘)
それはそれは丁寧に立派なけや木の箱に入れられていた。少し重いが迫力満点であった。この箱の中で可愛がれ育てられてきた。外の油単は百貨店で特別茄子紺に染め上げたものだった。
2009年2月24日箱入り娘(図4)のお嫁入りが決まったようだ、相手側の事務長と学芸部副部長さんと学芸員がやってきてほぼ話はついた様だ。でも受け入れ側の用意もあり6月の理事・評議員会で正式に決定するとのことだ。長年親しんで来ただけに、すこし寂しい気持ちもするが、多くの人たちに可愛がって貰えるなら、この方が自分ひとりで楽しむより、よっぽどましかもしれない。箱入り屏風の名前は富岡鉄斎「奇磊健幹古木図屏風(六局一双)」(図4)である。
4月24日(2009年)、ああ行っちゃった。どんよりの曇り空の中、とうとう箱入り娘は行っちゃった。長年楽しんだ箱入り娘は奈良まで嫁入りしちゃった。2010年秋にはこの美術館開設50周年(大和文華館)になるという。この50周年特別特別展に「鉄斎展」を行い、館蔵品(軸物)と共に披露したいという。まあ精々出番の多たらんことを願うのみである。6月の理事会で正式に決定されるが、それまではただ一枚の預かり書を残して行っちゃった。末永く大切に大事に扱ってもらいたい。これのみが親心というものだ。
6月9日に開かれた理事会ならびに評議員会で寄贈された鉄斎「枯れ木図」は受け入れが決まった。この瞬間から所有権は美術館のものになった。結構なことだ。18日館長さん始め副部長学芸員、事務長さんがこられて感謝状を頂いた。後刻、友の会の終身会員券を届けるとのよし。大切に保存して、有意義に使用していただけるなら望外の望みだ。美術館(大和文華館)は本年9月27日(物語と絵画-文学と美術との出会い-)の展示会が終われば約1カ年間の休館(2010.10.31)となり、この間保守改築が行われるという。2010年の秋には新装の美術館で創立50周年の美術展が開かれ、其の中でお披露目するとのことだった。嬉しいことだ。
2010.8.5
大和文華館の50周年レニュウーアルオープンの日程が決まったようだ。2010.10.2に再開される。50周年ともなれば催しごと多彩だ。鉄斎展は2011.6.25より40数日間開催されるようだ。ぜひ見にゆきたいものだ。2010.10.1にはレニューアル記念パーティが同美術館で開催される。午後3時から6時まで。講演会も開催されるようだ。小生寄贈の小作品はこの展示会で初めて登場するようだ。作品が行ってしまってから約3年間ホントに寂しかった。
開館周年のレニューアルスケジュールがほぼ決まったようだ。2010.10.2の館蔵品展示から、2011.6.25には鉄斎展が開催される予定だ。もしかするとこの中で寄贈さしていただいた作品も展示されるかも知れない。
色々と手続きも大変なのだ。約2カ年後上記の認可が下りた。
平成23年3月31日づけで国税庁長官より租税特別税法40条の決まりにより申請を認めるということだった。つまり、今回の寄付行為に対して無税扱いにするということだ。21年8月に申請したらしいが約2年後の年月を要した。全ておさまってまずは安心とのことだ。作品自体も6月25日より始まる50周年事業の一環として、正式に組み入れられ用意されているようだ。是非、拝顔したいものだ。元来、寄付行為は貰う側が、支払うものと思っていたが、これは理解不足だった。送り主が支払うものなのだったようだ。でも美術館側の配慮によって、無税つまり支払うこと無く済んでよかった。良いことをすれば世間も認めてくれるのだ。美術館の連絡によると6月25日の開催(50周年記念特別展)に向かって誠心誠意準備に励んでいるという。(国税局長官の文書)
2011.06.30 開館50周年特別企画展U 鉄斎展(大和文華館)
富岡鉄斎は「万巻の書を読み、万里の路を行く」という、東洋文人の理想とする生活を実践した最後の文人画家として知られています。主な活躍期は、明治・大正時代ですが、その躍動する筆致と鮮やかな色彩は、同時代の日本の文人画家よりも、西洋で活躍した後期印象派の画家たちの作品を想わせます。天保7年(1836)に生まれ、大正13年(1924)に没する長い生涯において、鉄斎は東洋文人の精神的な伝統を踏襲しつつ、悠々と自身の芸術を熟成させ、文人画に近代性をもたらしたのです。大和文華館が所蔵する鉄斎作品のほとんどは、四国松山の近藤家に所蔵されていました。近藤家は三津浜で海運業を営む石崎家の番頭を務めており、鉄斎は明治6年(1873)に石崎家を訪ねた折、当時の近藤家当主、文太郎氏と知り合っています。近藤家の旧蔵品は、その後、40年以上にわたる2人の交流の中で、鉄斎から親愛の情を込めて文太郎氏に贈られたものです。この展観では、これら大和文華館の鉄斎コレクションに加え、平成21年にご寄贈いただいた「古木図屏風」を初公開いたします。六曲一双の大画面に風雪を経た樹木と奇石を水墨で描いた作品です。これらはいずれも文人画家たちに古くから愛されてきたモチーフであり、画面は、鉄斎のスピード感あふれる筆致によって表されたダイナミックなエネルギーに満ちています。また、この「古木図屏風」初公開にちなみ、鉄斎美術館から樹木と草花を描く「松藤・桜花図」、「松芝剛勁図」、「楳花山茶水仙華図」、「松芝不老図」の4点を拝借し、特別出品いたします。今なお私たちに新鮮な感動を与えてくれる、豊かな鉄斎芸術をお楽しみ下さい。(大和文華館)
鉄斎「古木図」屏風について(大和文華館蔵)
芸術論義
真贋論争
絵画論
鉄斎
横山大観
太田垣蓮月
小林秀雄
宋東坡(蘇軾)
先祖伝来のお宝の行く方
大和文華館
(文中敬称略)
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