脳死の問題



 人の死の問題は、科学の発達とともにだんだん錯綜してきており、複雑化してきた。生物学も分子レベルで物事を考え、合成したりしてくると、何が本体で何が付属したものか見境がつかなくなってしまった。法律も万人が平和に、幸せに暮らせるために定められるもので、時代の変化とともにこれもまた変化して言って当然である。
 実際人間の個体の死を何処で区切るか、法律だけに任せてはいろんな問題も生じてくることが予想される。でも医学に裏付けされた凡その概念なるもののを取り決めておかないと、複雑な社会生活の中では不都合が出てくる。はっきりいって現在は3兆候が人間死の約束事で法律である。何事も此処から出発しななければならない。こんなハッキリした子供でも理解できる概念を無視するがごとき、大学教授は無能教授の最たるものだといわざるええない。勿論いろんな考えが有って当然のことだが、自説を法律と置き換える馬鹿な教授が現実にいるのである。勿論将来的にはその先生の考え方になっていくかも知れないが、でも日本は法治国家なのだ。
 3兆候は立派な死のサインだ。人間個体の総合の連携された死ではあるけれども、個々の細胞の死はまた別である。個々の細胞の死は、人間個体の死とは別のものであり、たとえ呼吸は停止しており、心臓は確かな拍動を持って鼓動をつづけていても、脳の働きをしめす脳波は平坦のままでは、これも人間個体の死であるに違いない。ガマカエルの実験で、体から切り放された心臓なる臓器は、適当な環流液で繰り返し環流さえいてやれば、少なくとも何時間のあいだ拍動を続ける。これも個体の死では有るが決してけっして心臓臓器の死ではない。臓器のレベルにおとしてもこんな具合だから、細胞の単位におとしたら益々問題がややこしくなる。髪の毛髪や髭なんかもいわゆる人間の死後どれぐらいの間再生を繰り返すのだろうか?恐らく3兆候による死後、一週間以上は細胞分裂を繰り返すようにおもわれる。医学研究用に献体されたおじいちゃん方、みんな立派な髭をたくわえておられる。恐らく死後の処置できれいさっぱり、髭を剃ってもらって、化粧をしてもらったのに、また髭をはやしておられるのは個体の死後それだけ髭が伸びたのだ。
 平成10年3月末検察当局により、臓器移植法に鑑み、凡その合意点をまとめ、今後、この問題に絡んでは次のような方針で行くことになったようだ。
 本人同意など、臓器移植法の用件が実質的に満たされれば脳死を人の死として、それ以外は従来の三兆候説を基本に人の死を認定する。事実上、人の死について、新たな刑法解釈を打ち出したことになる。検察当局はこれまで、長期間にわたり「人の死」にたいする国民的同意がどのあたりにあるか模索してきた。平成九年六月臓器移植法が成立したことを受け検討してきたが、その結果「本人同意など一定の要件が満たされ、臓器移植の目的の場合ならば、脳死は人の死」と言う解釈が、臓器移植法制定で確認されたとよらえ、同法施行以前についても同じ解釈で望むことにした。但し要件が満たされない場合は「心臓停止、自発呼吸停止、瞳孔散大(対光反射消失)の三兆侯によって人の死を判定する」という従来の3兆侯説を基本にする。
 具体的には、本人が生前に臓器提供と脳死判定に応じる臓器移植法の要件が実質的に備わっているケースでは「脳死は人の死」を前提に「罪とならず」不起訴とする。一方、本人同意の無いケースでは、たとえ脳死判定がなされていても、三兆侯説が基本となるため、臓器摘出が殺人罪に該当する可能性がある。同意の無いことが立証出来ないときは嫌疑不十分である。
 このように、誰にでもわかるガイドラインが示されれば法治国家の日本ではこれに従って臓器移植もだんだんと施行されるようになるだろう。移植医達のご努力に拍手喝采を送りたいところだが現実はそんな生やさしいものではない。早走りした国立大学法医学の無能教授のように、脳死は人の死との自説によって、脳死時を死亡時刻とした死亡診断書を作成したようなスタンドプレーは決してあってはならない。現実に、疑惑に包まれた札幌医大和田教授の心臓移植いらい、少なくとも日本での移植の幕開けは10数年間遅れることになった。


脳死移植目次

日本初、臓器移植
脳死心臓移植2例目
心臓移植3例目
Updated



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