脳死と死のハザマ(日本の場合)
脳死移植に影を落とす「医療の閉鎖性」
日本の病院で「なんという錠剤をくれたのかと医者に聞いたら、一言『薬だよ』と言われた」。「医者が薬について『白と青の錠剤だ』としか説明しないのに、何とも思わなくなってしまったんだ」。こうした会話は取るに足らないことかもしれないが、最近では厚生省の政策誘導もあって、もう、こんな状態はないだろう。しかし、その内容は「日本医学界の閉鎖性」という氷山の一角を示すものなのだった。そして、こうした医学界の閉鎖性に対する国民の不信感こそが、日本で脳死者からの移植医療が進まない大きな理由となっていたのである。衆議院で脳死者からの臓器移植を認める2つの法案が採決され、そのうち
脳死を人の死とする法案が可決された(臓器提供を前提とするときの限る)。このことは日本にとって記念すべき一歩と言える。日本は、心臓停止の確認まで人の死を認めない、という数少ない先進国の一つであり、それが脳死者からの心臓、肝臓移植の実現を阻んできたからである。歴史的な事実もある。
日本で最初の、そして最後となった脳死心臓移植は、札幌医大の和田寿郎教授の手により1968年8月に行われた。移植を受けた患者さん(18)は、手術後83日で死亡した。その後、和田教授は、脳死の判定を誤ったう
え、本来必要でなかった移植手術を宮崎さんに 行ったとして、大阪の漢方医らから殺人罪で告発された。この告発は70年9月、証拠不十分で不起訴処分となったが、影響は大きく、日本ではその後、脳死者からの心臓、肝臓移植は一切行われなくなった。海外に渡って、臓器提供を受ける日本人もいる。だが、このように
脳死状態にある人からしか提供されない臓器を待ちながら亡くなった日本人は、臓器移植の関係団体によると、この5年間で約7000人に上るともいう。
法的な死の認知
衆議院に提出された法案は、一つは「死体」と「脳死状態にある者の身体」を区別し、脳死を人の死とはしない法案だ。脳死状態からの臓器の摘出については、本人の提供意思を示した署名のある書面と、家族の同意の必要を明記している。一方、他の法案は、脳死を人の死と位置づけ、移植にあたっては、提供者本人が事前に臓器提供の意思を書面で示し、かつ家族が提供を拒まないことを条件としている。脳死を人の死としない法案をつくった理由について、「日本では手術の現場などはほとんど密室の状態で、外からのチェックはほとんど機能しない。医療チームの中でも相互助言をしあうとか、意見を交換するという状態になっていない。カルテを患者本人にも公開しない」と指摘する。「そういう特異な状態で、脳死状態の人を死体というふうに切ってしまうと様々な弊害が予想される。この30年間、脳死状態の人からの臓器摘出は何件か行われているが、
そのほとんどに事件がつきまとっている。脳死状態にならないように十分な治療をしてもらえなかったとか、摘出を承諾した以外の臓器を摘出されてしまったなど、かなりの裁判が起きている」。さらに、脳死が法的に死と認められれば、このような問題はいっそう増えるという懸念もある。国民の間で脳死への合意が十分ではないとも言うのだ。これに対し、脳死を死とする法案を作った人達は「日本医師会が脳死は人の死であるという認定を下した(88年)。これは決め手になっている」と主張する。92年の脳死臨調では、社会的にも、医療関係者の間でも、脳死が死と認識されていると指摘する(反対少数意見もある)。
物言わぬ人たち
「日本では、情報公開の法律がないうえ、地方自治体でも情報公開に関する条例のあるところが少ない。そもそも日本社会全体に一般市民に対して情報を公開する状況がまだないと思う」。特にこうした傾向は医学界で顕著だ。医師は長らく、「父親」のように君臨してきたし、患者に質問されると不機嫌になるか、「黙っていなさい」と言ったりする例がまだまだある。「手術に関しても、その内容を事前に説明するのでなく、術後に
初めて説明する。患者の要望を聞く前に医師が決めてしまうことが多いのです」。
いわゆる「閉鎖的な医療」を象徴するものの一つに、医大の倫理委員会がある。倫理委員会は、ほぼ全員がその医大の教授で構成されており、そこでの討議はまず公開されることはない。「脳死について一般の人たちの理解は深くない。そういう閉鎖的な医療状況の中で、医師の手にすべてをゆだねると、よくないことが起きるのではないか、と多くの人が漠然とした不安を持っている。医療をもっとオープンにする努力なしに、移植が真に市民の支持を得られることはないだろう」。
医師と患者との溝の原因は、他にもある。患者の要望に応える時間的余裕のなさや、医師が患者と対話する訓練を受けていないのである。日本の医療保険制度により、患者が払う医療費は、米国に比べればほんのわずか。だから、「日本人は米国人の5倍位も病院に行く」。さらに、医学教育の中での臨床訓練の位置づけが日本とアメリカで大きく異なるということもあるようだ。医師と患者のコミュニケーション不足の理由が何であれ、患者との対話こそが日本の医療社会が高く掲げ解決すべき問題であることは間違いない。「あなたが脳死状態になって臓器移植をすることになった場合、医師を信頼出来ますか」と友人に聴いたが、「風邪を引いたら病院にいくけど、自分の命を預けることになると、ちょっとねぇ」と言う返事。信頼できる医療が実現されない限り、心臓、肝臓移植はこういった感情にいつまでも
悩まされることになるだろう。
偏った一方的な意見かも知れないが、一つの傾向を指し示しいていることも確かだ。医師の独善に深い疑問を持つ多くの人達がいることも事実だ。現在まで行われてきた3例の脳死移植でも疑問がつきまとってきた。どうして問題をクレアカットに処理できなかったのだろうか。勝ち誇った記者会見の模様、すこし質問されれば、すぐに訂正する。何故30年間も出来なかったのか、今一度考えるべきかも知れない。上から見おろす、傲慢な態度は、医の奢りの他の何でもないだろう。
臓器移植法案の修正案が6月17日、衆参両院で可決され、成立した。同法は10月 中旬施行され、日本では約30年ぶりの脳死体からの臓器移植実現に道が開かれた。今回は、患者の権利を守り、医学界の懸念を払拭するための措置が図られた。これら
二つの問題は、これまでの論議の中心を占めていたからだ。今後、医師は、脳死判定し、その時点で移植のため臓器を摘出することについて、ドナーから文書で意思表示を取りつけ、遺族の同意も得なければならない。医師はまた、脳死判定から臓器移植に至る記録を行い、それを5年間保存しなければならない。もっとも重要な点は、ドナーの遺族が閲覧を求めた場合、これに応じなければならないと定めていることだ。こうした規定はいずれも評価されよう。しかし、潜在的なドナーやその家族から信頼を勝ち取りたいのであれば、医学界はもっと開放されなければならない。診療のすべての分野において、国民は情報開示を求め、医師はそれを与えるべきである。でも医療の特異性によって、原則そうではあるが、法律を持って規制すべきかどうかはまた別問題であるだろう。