脳死移植に思う(移植に提案)
生涯の伴侶を、愛する親や子供を脳死の状態で臓器提供なされるご家族の方の心痛やいかほどのものか、思いあまるに絶するものがある。呼べども返事をしないが、呼吸は乱れることなく(人工呼吸器が装着されているが)規則正しいリズムで全く健やかである。腕の脈をとってみても、平生となんら変わりない。一寸の狂いもなく、ホントにただ眠っているが如きだ。顔には笑みさえ浮かべている。これが脳死というものだろうか。勇気ある行動、決断に格別の敬意を表したい。
健やかな寝息が聞こえてくる。静かな病室、顔色も良くただ単に微睡んでいるが如きだ。呼べば応えるやも知れぬ。身内のものとしては、ただ眠っているとしか考えられない。腕をさすった。暖かい、屈曲した指を伸ばしてみた。少し抵抗があるものの、ちゃんと伸びるではないか。すべて安らかである。
昔、関西学院大学に松村克巳教授という大物がいた。この先生のご講演を何度か拝聴したことがある。かれの発言によると外科なんて医学じゃない。外科医外科医と言って威張って貰っては困る。切ったり繋いだりするなんて職人の技で医学のすることではない。内科的治療で治せないで何で医学と言えようぞ。医学が学問だと言うからには、手術をしないで治してみせよと若き医学生にハッパをかけられていた。
ここでは外科が医学であるとかないとかの議論の場ではない。要するに医学は万人を幸せにするべくもの手段であって目標である。そらそうだろう、拡張型心筋症に悩む家族を抱えるものにとっては移植医療に期待するのも当然のことだ。心臓移植しか助かる道はないと医師から言われれば、一縷の望みをこれにかけるのは、至極当たり前、当然のことである。一方移植医療は人の死によってもたらされるもので、これなくしては成立し得ないものだ。人の死によって初めて、それと引き替えに成り立つものである。幸と不幸の相互交換によってのみ成し得るものだ。なんとも基本的矛盾がこの一連の行為の中に内包されている。
脳死は人間の死と頭の脳では判断理解し得ても、目の前の肉親を見ているとき、これが人間の死だと確信できるだろうか。悩み多い人間、突然の決断に悩み抜かぬわけにはいきそうにもない。ただハッキリ言えることは、脳死者から開胸心臓を摘出すれば、この脳死者は100%、医学的にも物理的にも死亡すると云うことである。神よ助けたまえ、愚かな人間に決断の勇気と知恵を与えたまえ。僕のような小心者には勇気がなさ過ぎる。
約10数年ほど前から、臓器の環流液がめざましい発展を遂げ、死体犬の心臓なら、心停止後8時間ぐらい経過してからほぼ100%蘇生し得ると言う実験結果が発表されている。動物が死んでから8時間以内なら、再び心臓の鼓動を甦らすことが出来るという。素晴らしいことではないか。いろいろ社会的、宗教的問題もあることだろうが、将来の臓器移植の問題が解決され、人工臓器が完全に知者の手の内にあり、それが完成されるまでの繋ぎの段階ととして、死体臓器の利用が出来ないのだろうか。これなら脳死と云うようなまどろかしい概念よりも、クリアカットに物事を割り切ることが出来るかも知れない。
古典的人間の死の3徴候が確実に確認される死体臓器の利用も神の大きな掟の枠組みをはみ出すものかも知れない。このような科学の発展は何処かで神の契約を破り、変な方向に向かうものかも知れない。人間、人類の我侭で神の怒りに触れなければよいのだが。新しい知恵のある哲学者が登場しここら辺りの関係を構築していただきたいものだ。
脳死判定本邦10例目(臓器移植は9例目)が出た。肝臓腎臓の移植が実施されたが旨く成功してほしいものだ。(11/5/00)