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(Under Construction)
メタボリック症候群
2008年12月30日入院するまでの経過は既に「次郎さン倒れる1」で話した。
2008年12月30日心カテ(心臓カテーテル検査)施行、入院した。そこまでははっきりと記憶している。それから明けて1月20日頃までの記憶は全く無い。いわゆる意識不明の状態だった。術後ICUに入ったが経過順調と言うことで一度部屋にも帰ったようであるがこの辺りからの記憶は全く無い。この間色々のことが起こったようだ。全然意識がないので後から聞いた話である。でも意識の回復する1週間ほど前の期間は夢の中を彷徨っていたのであろう。色んな夢を見ていた。実在しないものまで夢見ていた。心の片隅にあるもの、或いは気に罹るものが夢の中に出てくるのだろう。完全に意識を失っていた2週間程は深い眠りに入っていたのか夢も見ていないようだ。様態が芳しくないということで、病院から1月2日夜中(朝4時ごろ)家族に直ぐ来るようにと連絡が入った。夜中はタクシーも無い。死に目に会えないのは心残りだが致し方あるまい。家族が集まり葬儀の相談もしていたようだ。この間2回の挿管(全身麻酔)が内科医によって行われた。腎透析も行われたようだ。無意識の中暴れるようなので鎮静剤の投与もなされ、これが深い眠りの意識喪失の原因だったかもしれない。しかし悪運強い次郎さんどうにか生き延びたようだ。後で考えてみると、そのときお陀仏しておれば、痛み苦しみもなくすごく楽だったかもしれない。死ぬことはこんなにも楽なんだと思った。夢の内容は旅行している夢だった。夢の中の話で場所の移動も瞬間移動で、東北から北海道まで冬の道路の凍結して月明かりの道と湖なんかが出てきた。なんと美しい風景だろうか。登場人物は矢張り家族だった。虚実混ぜ混ぜだった。ほんとに色んな夢を見たものだ。また山陰から九州、沖縄への旅だ。家族の心配事をよそに気楽に夢を見ていたものだ。しかし外国旅行の夢は出てこなかった。
氷の張り詰めた十和田湖、空港の滑走路は月明かりのもと、昼間よりも明るいようで煌煌と照り輝いている。だいぶ気温が低そうだ。湖畔には雪が降り積もっている。美しい静寂だ。冬の東北,感銘を受ける。どのように此処まで来たか思い出せない,次の瞬間北海道にいた。ここでも道路が凍てついて光っている。鏡のようだ。しんと静まり返って物音一つしない。月が煌煌と照り輝き、凍った道路に影を落としている。これでは空港も閉鎖されるだろう。どうすれば帰れるかわからない。続けて持続した睡眠が取れないようだ。随分長いこと夢の中を彷徨っていた。山陰から沖縄に飛んだ。沖縄にも行った。誰か官僚が選挙に出る風景だ。官僚の親達から熱烈歓迎を受ける。この官僚とどんな繋がりがあるのだろうか。今もって解からない。孫が戦死した夢も見た。沖縄にいる筈だが孫は北海道の航空自衛隊でロシアとの領空侵犯とかで最新式戦闘機ともろとも撃墜されたのだ。日本の最新鋭戦闘機もたいしたことないようだ。次郎は葬儀の途中雪の中で倒れていた。誰も助けに来てくれない。息子と孫との結びつけが解からない。理解できない。全て夢の中の出来事だ。
何年か前の話になるが、医大(出身校ではない)の創立50周年記念式典が開かれ次郎さんも招待を受けて行った事がある。この時の特別講演は柳田邦男の「臨死体験」だったと思う。柳田邦男は医療問題を沢山取り挙げこの方面に関する著作も多いようだが、このときは有名人であっても、何をでたらめなことをお仰ると思っていた。この先生、いわゆる解離性精神障害ではないかと真剣に思っていた。臨死体験なんて在り得ないものだ。この世に帰って来たものの話、夢なんてどうせ出鱈目なもので、これは真実臨死ではないと考えていた。立花隆の「臨死体験」も読んだ。金彩色に輝いた13佛のお迎えであり、天国に蓮の花が咲き乱れ、大きな蓮の葉っぱが筋斗雲(孫悟空の乗っている雲)のような雲が沢山浮かんでいる。いわゆる天国からの出迎えであり、地獄からの出迎えはないようだ。仏や神の出迎えであり地獄からの出迎えの図(インドでは閻魔さんの出迎えもあるという)はないようだ。でも飽くまで臨死体験であり、当然ながらそのままあの世に行ったものの報告はない。存在しない。次郎の場合の臨死体験は、もとより臨死体験と呼べるか否かは不明であるが、人生回遊だったと思う。三途の川を渡り天国に行く途中の体験談ではない。生還した後に、夢と物語を一緒に結び付けたにすぎない。在りし方のいろんな雑事が走馬灯の如く廻っている。気に罹ること全てが出てくる。夢を見られるのは半覚醒状態になってからだ。
多田富雄の「寡黙なる巨人」を読んだ。この先生は三途の川周辺を漂って来られたと言う。多田富雄は有名が免疫学者で且つ詩人でもあるようだが一般人にはその名はあまた知られていない。次郎とは病名(脳梗塞)も異なり、意識不明の期間も短かったようだが、でも気の毒に半身不随の状態で生還してこられた。かつ言語障害も認められるようだ。しかも出張先の金沢(東京在住)でのことだ。ご家族(奥様は女医)はどんな気持ちだったのだろうか。本人は高鼾で我知らずかと思いきや、略全て理解しておられたようだ。
多田は死の国を彷徨していたという。どういうわけかそこが死の国であることが解かっていたという。不思議なことに恐怖は感じなく、ただ恐ろしく静けさで沈黙だけが辺りを支配しており淋しさに耐え切れぬ思いだったという。寡黙な巨人というのは自分自身のことで、いわば2重人格に支配されていたようだ。暗闇の重油のごときコールタールのような海にシツッコク付き纏い引き込まれるようでモガキ苦しんだという。自分自体の中にもう一人の人間が潜んでいるのである。早く目覚めよ、今は弱弱しく鈍重だが、無限の力を持ち可能性をもって自分の中で胎動し始めてるように感じたそうだ。このもう一人の人間は縛られたまま沈黙している巨人のように思えたという。彼にとっては希望の星だったようだ。これが多田の言う寡黙なる巨人なのだ。
結局臨死体験なんてものは大脳の変化が齎すものか、死後の世界の実在説かの2説(下段の「彼岸と此岸の狭間」を参照)のみとなるが、そんなことどうでもよい。そんな話は専門家に任し、興味ある人たちの間で、精々議論でもして貰うとよい。話は脱線したが元に戻そう。次郎は倒れて意識不明になった。意識不明の間は3週間に及んだが、意識が戻る1週間ほど前は色々と夢見ていた。何故そんな夢を見たのか今もって思い当たらない。しかしこの間苦しいとか痛いとかそんなことは全く起きなかった(最初の2週間程)ことだけは事実だ。ほんと、この時死んでおれば何の苦しみも無く、楽に死ねたと思う。
ICUを出る前の3日間程は苦しかった。腎機能低下のため水分制限されていたので喉はからから一滴の水が飲みたい欲望に駆られた。20日間程、米の一粒も口にしていないのに空腹は感じなかった。悪夢の中をさまよっていたのだ。看護師さんから小さな氷片を1個頂いた時はほんとに仏様に見えた。地獄で仏様に出会った感じだった。氷片は2個になり段々と増えていった。夜は眠れず夢を見る、昼間もボーとしており、眠剤(睡眠薬)を貰っても効かない。ハルシオン0.25mgを貰ったがこれは明らかにプラセボ(偽薬)だった。大きさが異なるようでこんな大きな形のハルシオンは見たことが無い。勿論全く効かない。1回目の心カテの後にもICUに入ったようだが、その辺りの記憶は全く無い。初回のICUから部屋に帰った時トイレで倒れていたらしい。どうしてトイレまで行ったのか、ベットから約1.3m位だが全然記憶に無い。すぐにICUに逆戻り、挿管したり腎透析したりと大変だったようだ。2回目の心カテもこのとき行われた。1回目の心カテで通らなかった第4枝の上行枝も通ったようだ。直径2cm位の小さな範囲を支配する血管だったそうだが側副循環が機能していたのか壊死には到っていなかったようだ。詳細は説明されてないので不明である。この時ステントが入れられたのかどうかも不明のままである。後日歩行が可能になってから左大腿部に二本の切開創があり腎透析の行われたことも判明した。腎透析はこの1回だけである。口から気管内チューブの他何本もの点滴が入っており、全身創痍だようだ。気管切開の創痕はなかった。無意識のうちに相当暴れたらしい。本人は意識のないままだが苦しかったに違いない。この最後の3日間は色んな夢を見ていた。あることないこと次郎はこんなにも多感だったのだ。夢の中身は殆んど家族が登場するか家族が関連しているかである。脳組織の中では家族のことが気になっていたのだろう。一日一日が非常に長い。ハルシオン(偽薬)を貰ったがよけい眼が醒めて朝まで起きていた。4〜5時ごろ軽い睡眠がとれるだけだ。睡眠は非常に浅い。いづれにしても再び部屋に帰れてよかった。(「次郎さん倒れる 3」 リハビリに続く)
彼岸と此岸の狭間
彼岸(ひがん、あの世)と此岸(しがん、この世)を分ける「三途の川」の手前まで行き、美しい死の花園を眺め、あるいは光輝く死の世界をかいま(垣間)見て、戻ってきた人の臨死体験が色々あるようだ。人間の脳はある状態になると幻覚症状を起こすようなプログラムが
、あらかじめ D N A に組み込まれているとするものである。つまり心臓の働きが低下して血圧が下がり、血流が減少すると、脳が酸素欠乏状態になるが、それがある値以下(臨死状態)になると死を安らかに迎えられるように、予め脳細胞内に埋め込まれている幻覚症状を起こすプログラムが自然に作動するのだそうである。最近では右脳の大脳皮質の或る部分を刺激すると、自分があたかも体外に離脱するような感覚を得ることが判明した。臨死体験の際に感じる幻覚、幻影は医学的には脳のどこかの神経細胞で、情報伝達の途切れや誤りが起きているのが原因ではないかとする説があるが、特定の部位(角状回)が関与していることを示唆する実験の「結果」は貴重なのだ。
あの世から急にお迎えが来てもまごつかない様に、人は死に際に何を見て何を感じるのか、予め知識を得ておくことが必要である。しかし日本の社会では死に関することなど縁起が悪い、知りたくもないし聞きたくないという風潮から、死を迎える予備知識が無いまま、または与えられないままで死ぬ人が殆どなのです。死んでしまった人から死に至る体験を聞くことは不可能ですが、まさにこの世を去ろうとする人が何を感じたのか、臨終に立ち会った人が観察した記録は沢山あるようだ。
臨終の様子を日本で最初に組織的に記録に留めたのは、今から 千年以上前の平安時代中期の天台宗の僧、源信( 941〜1017年 )であった。この人は比叡山の延暦寺で修行した後に、寛和元年 ( 985年 )、44才の時に有名な往生要集を書いたが、これは仏教の経典や論書などから多くの重要な文章を集め編集したものです。それによると死後に極楽往生をするには、一心に仏を想い念仏の行をする以外に方法はないと説き、浄土教の基礎を創りましたが、その本の中で臨終の作法についても述べている。
死が間近となった病人を北枕にして寝かせ西向き(西方浄土)に顔を向けた後に、枕元に阿弥陀如来の像または掛け軸を飾り、そこから五色(赤、青、白、黄、黒)の糸を垂らして病人に持たせ、ひたすら念仏を唱えながら阿弥陀様のお迎えを待つというものです。それにより死後に極楽浄土へ往生することができるとした。阿弥陀如来の来迎図( 13仏のお迎え )の様子を描いたものですが、阿弥陀如来が多くの仏を従えて白雲に乗り、屋敷に横たわる死者の霊を極楽浄土に導く為に迎えに来る際の様子を示している。三昧( ざんまい )とは、心を一つのものに集中して精神的安定を得ること、またはその境地のことです。源信は念仏を唱えることにより阿弥陀如来の力、つまり(他力本願)で、人々が本当に極楽浄土に行けるかどうか確かめようとしました。念仏と言うと南無阿弥陀を唱えることですが、南無 ( ナム )とは帰依することで、阿弥陀仏( 如来 )に帰依する意味である。念仏が日本に入ってきた平安時代初期には、仏を念ずるつまり極楽浄土にいる阿弥陀如来を イメージする観想念仏、( かんそうねんぶつ )のことであった。その後阿弥陀如来をイメージすることなど不要で、南無阿弥陀仏を唱えるだけでよいとする口唱念仏(くしょうねんぶつ)の考えが出てきた。
多田富雄はほんとに三途の川を見てきたのだろうか。はっきり真実だと認識されると述べてはいるが。次郎は意識不明の時間が長すぎた。3週間に及ぶ。多田はほんの1日かそこらであったが、不幸にして右半身麻痺、言語障害という大きな後遺症を伴って生還してきたのである。多田の場合ホントにサドンに起こったようだが、次郎の場合は起こるべき(高中性脂肪血症)して起こったのである。部屋に帰って1週間ほどは、ホントに五体不満足で生活して行かねばならないと覚悟を決めていた。結果は大きな後遺症も無くどんなにか幸せだった。(「次郎さん倒れる 3」 リハビリに続く)
目次
次郎のメタボ体験
次郎さん倒れる 1
次郎さん倒れる 3
次郎さん倒れる 4
不安性狭心症
前立腺がん
メタボで入院
(文中敬称略)