カンボジアに旅して


                              

第一話 はじめに

 昨年あこがれのアンコール遺跡群を家内と二人で訪問する機会にめぐまれた。ずいぶん以前から訪ねてみようと幾度となく計画したが、いづれのときも、政情不安、内戦また内戦等その都度外務省より旅行自粛の処置がとられ、果たせぬ夢だったのが、今回図らずも実現することとなったのである。まだ直航便がでていないので、関空より香港のりつぎプノンペンまで約6時間たらず、その日のうちにカンボジアに到着した。ほんの数十年前の1975年、時の政府クメールルージュ・ポルポト派の都市開放政策によりわずか3年8か月のあいだに人口0人となったとまでいわれる廃墟都市プノンペンも、いまや人口100万人を越す超過密都市で人と自転車・バイクの波であった。市内のめぼしい建物には内戦時の弾痕がなまなましくみられ、医師・教育者・技術者等あらゆるテクノラートが虐殺され、人口の約3割・数百万人にもおよぶ犠牲者がでたという国とは到底考えられない復興ぶりだ。市街地ことに中央マーケットあたりの雑燥はものすごく、新しい国のできあがるバイタリティを感ぜさせられた。市内には診療所・薬局の看板も目につき、なかにはいってみると薬の種類も豊富で日本と何等かわることがなかった。ほかのアジアの国々と同様生活必需品はたいへん安価で温暖な気候とメコンの豊かな土地で戦争さえなければこんなことにならなかったのにと、思いをはせるとき大国のエゴにひきづりまわされた民族の悲劇をかいまみることができる。カンボジアは仏教国(小乗)だし、クメール人の顔つきも日本人そっくりで親しみを感ずる。カンボジア人は情念の民といわれ、男尊女卑も残っているらしいところが、現在の日本と異なるが、大らかで、小事にこだわらない。わるくいえば大雑把で、怠惰と隣り合わせなのである。長い内戦の結果、権力と権威にきわめて弱い”命令と服従”が民族のエートスになってしまったのだ。現在のカンボジア人にみられるクメールの微笑もポルポトの地獄による影響かもしれない。ヒンズー教や仏教の文化は、他人に非常に寛容である。困っている人がいれば自然に手を差し延べる。観光客は旅ができるほど”余裕ある人”なので”困っている人”に手を差し延べることが期待される。喜捨の思想は富める者は、貧しい者に施しをするのが当然なのだ。施しをすることが功徳であり、貧しい者にとってそれを期待するのが当然の権利なのだ。観光地で売られている小鳥もおなじ発想からきており、これをもとめ開放することが、その人の功徳となるのである。郷に入っては郷に従い、日本人的感覚からではなく、小事にこだわらない大らかさが必要なのかもしれない。今日できなければ明日できるだろう。明日できなければまたその次の日もあることだ。

第2話 プノンペンの物価は免税店より安い

 いつもの旅の例に習い途中、香港の啓徳空港の免税店で1カートンUS10$のマルボーロを購入した。これは訪問国で世話になった方にお礼のかわりに使う意図であるが、プノンペンに着いて驚いた。プノンペンではタバコ1カートンUS6$で街中の店で自由に販売されており、著名なブランドもののウイスキー・ブランディ等も種類も豊富で、値段も免税店より格安であった。街中いたるところに屋台の食べ物屋がでておりいろいろのものが豊富に供されていた。ことに中央マーケットでは、あらゆる種類の電器製品、カメラ、時計類、宝石、衣料、食品類、果物等あらゆる生活必需品が山積みされていた。これらの物資はほとんどタイ国を通じて入ってくるようでソニー、アカイ、パナソニックもはばをきかせていた。プノンペンでは博物館、王宮、ワット・プリヤ・モロコットのほかメコンにかかる日本橋(日本のODAの援助により平成4年に完成)も見学にでかけたが、立派な橋の向こう側は道路の整備が遅れており道らしきものもなにもなかった。ただあったのは白いテントのもとフランスパンを売るオバチャンの屋台と数個の椅子よりなる道端の喫茶店(?)だけだった。通貨は現地のリエルよりタイ国のバーツあるいはUS$がポヒュラーで、レストランあるいはホテルではミネラルウォターは1本1$、コーク類、カンビールも1$で、すべてのものの単位は最低US1$だった。お土産用のTシャツも2〜3枚で2$位と格安だった。当地の衛生状態から歯磨きからうがい水まですべてミネラルウォター以外使用出来ないときいていたが、到着2日目からみごと急性腸炎にかかり激しい嘔吐と下痢に悩まされたが、持参の抗生剤のおかげで数日で完治した。火のとおった物以外は口にしたこともなかったのにと、後で考えてみるとホテルで提供される無償のミネラルウオーターか、ビールのコップが原因らしい。ホテルで毎日2本づつ提供されるミネラルウォーターもあまり信用できない。ビールもコップを使用せず、かんビールを直接呑むのがよさそうだ。しかしおんなは強い。家内は旅行中一度も体の不調を訴えることはなかった。今回の旅では、カンボジア在5年になるという日本人の若い独身のガイドがついてくれることになって、シェムリアップまでの全行程を案内してもらった。現地ガイドと話しているのを聞いていると、英語混じりの現地語でやりとりしていたようで、現地では外国語の学習がたいへん盛んでことに日本語と英語が人気あるとのことだった。彼は非常に良くアンコール時代の歴史ついて勉強して精通しており、わかりやすく解説くれたので予想以上に収穫をえることが出来た。(topにもどる)

第三話 旅行案内書のないカンボジア

 日本を出発する前すこしでも予備知識をえようとカンボジァに関する旅行案内書・解説書をさがしたがほとんど見つけることが出来なかった。過去5年間にしぼって日本語の文献をさがしたが政治情勢、社会情勢に関するもの5〜6冊以外なにもなかったが、さいわい東大寺の僧侶でカンボジアにたくさんの井戸をおくって喜ばれている内田弘慈師の”アンコール遺跡見聞録”(KDDクリエイティブ)と若き建築学者重枝豊氏の”アンコール・ワットの魅力(クメール建築)”(彰国社)の2冊の書籍を手に入れることが出来たので、これだけが私の知識だった。きれいな写真をたくさんとりいれられた”見聞録”、また建築上の立場から、われわれ素人にも面白く解説された”クメール建築の味わい方”この両書はまったくすばらしいものだった。重枝氏は、フランスでアンコール遺跡に関する研究をしてこられ遺跡の保存修復にも情熱をかたむけられる上智の石澤良昭教授と同じグループの研究者である。この二人の書籍はぜんぜん違った方向からアンコールの遺跡を見ており、非常に興味深い。

第四話 アンコールの町シェムリアップへの道

 旅行2日目の夕刻にはあこがれのアンコール遺跡群の町・シェムリアップにはいりいよいよ4日間にわたるアンコールとの対面となった。プノンペンとシェムリアップは約30分の飛行。いままで写真でしかみることの出来なかったアンコール・ワットを目のあたりにみてその規模の大きさに圧倒され、落陽に真っ赤にもえあがった寺院、聖池に写しだされた祠堂のパノラマにこれから始まる大叙事詩に心のときめきを感ぜざるをえなかった。もともとワットの観光には、夕日の沈むこの瞬間がもっとも印象的で劇的なものであるらしいが、この世のものと思えない情景に強い興奮をおぼえた。我々はアンコール・ワットにはこの夕日と、日の出のシルエット、寺院内見学、写真撮影と前後4回おとずれることになった。また4日間で30箇所以上の遺跡を見て回ったがバンテイヤイ・スレイには道路事情と治安の問題でいけなかったのがかえすがえすも残念なことであった。これらの9世紀から15世紀の初めまでの数百年間にわたって建造された寺院遺跡も1860年フランス人ムーオにより再発見されるまで深い密林の中で埋もれて長い眠りについていたのである。なんとロマンチックな話だろうか。しかし日本人の島野兼了はすでに17世紀の初頭、将軍家光の命でここをお訪づれており(印度の祇園精舎と間違えて)、おなじころ肥前の武士・森本右近太夫一房なるものが、詣でたワット・十字回廊の列柱に墨書を残している。右近太夫の落書きもなかなか達筆でいまだ現存しており、ここまでくると単なる落書きの域を超越しているのかもしれない。第2次大戦中、京都の連隊がコーチシナからタイに移動中この附近を通過し、ときの下士官がアンコールの世界的な遺跡群のことに言及、半日の休憩を兵隊にあたえ自由に見学させたそうである。当時寺院遺跡はコーモリの住み家で、強烈なアンモニアの臭気のみ蔓延していたそうである。日本軍の下士官もなかなか粋なはからいをしたものだ。(topに戻る)

第五話ワットとトム

 巨大な遺跡寺院・アンコールワットは時の王スーリャヴァルマン2世が自分の葬儀をおこなうため建造した、西側に正面入口の位置するいわゆる葬送寺院なのだ。数十万個、数百万個におよぶ岩石の切出し運搬、いずれにしてもその経済力、権力の大きなこと想像に絶するものがある。アンコールトムの遺跡はバプオーン神殿、王宮ピミヤナカス宮殿、寺院、僧院、象・癩王のテラス、テップ・プラナム、プリヤ・パリライ、プリヤ・ビトゥ、クリヤン、各種水利施設等よりなり、一辺4Kmにおよぶラテライトの城壁にかこまれている。もともとアンコールとはサンスクリット語の都市国家を表す言葉らしい。寺院の中ではジャヤーバルマン7世によるバイヨンだけが仏教寺院で、他はすべてヒンズー教の寺院だそうだ。バイヨンにみられる、そのかず数百にもたっする観世音菩薩の巨大な四面像、クメールの微笑が眼前にせまる。どのようにしてこの無数のラテライト・砂岩をつみあげ、これだけの規模の菩薩搭、回廊壁面の彫刻を完成させたのだろうか?

重枝氏によれば壮大にみえるワットの建築様式は迫出し構造を主体として部分的にはつぎ梁式構造を組合わせているにすぎない。ローマのパンティオンやイスタンブールのアヤ・ソフィアにみられるアーチ工法による本格的なものとはことなり大空間を形成しているようにみせた”虚像の建築”にすぎないのである。しかしながらほぼすべての遺跡建造物は風化しやすいラテライトと砂岩からだけなっており、たいした時をえないでも崩落する運命にあるように素人目にも思われる。遺跡によってはもうすでに半壊・全壊のところもある。早急な総合的な世界的規模での保存処理対策が望まれる。

第六話 ヒンズーの神々と大叙事詩マハーバーラダ

 王は神の使者として水を制し、水の神コブラのナーガを使い巨大な権力と財を支配していたのである。わたくしにはヒンズーとイスラムの世界の区別がわからない。またヒンズー教の神々の関係は難しい。ありあまる人の数だけ、神が存在し、すべてのところ、ものに神がいます。神は創造神であり、保護神である。最高神グラフマーは白鳥ハンナに、太陽の神ヴィシュヌはガルーダに乗り天・空・地を支配し世界を救済する。破壊の神シヴァは聖牛ナンディンに乗ってリンガ・ヨネ思想の根源をあらわす。乗り物から神をみつけることが出来るし、それぞれサラスヴァティー、ラクシュミ、ドゥルガー等の女神もいる。ややこしいのはハリハラのようにシヴァとヴィシュヌの半身づつの神もいる。しかし結局は最高神アハーラージャが宇宙を造り世界を創造する。天地創造”乳海撹拌”の神話である。神々デーヴァと夜叉アシュラが大蛇ナーガを使い、綱引きをしながら世界を創造することになる。アンコールの壁画のレリーフを理解するには、一大叙事詩・マハーバーラタやラーマーヤナの物語等歴史の基礎が必要だそうだが、どこまでも微笑む、東洋のモナリザといわれる女神ヴィヴァーダ、軽快なリズムにのった舞女アプサラは誰にでも理解できる。ルーブルのモナリザはいつのまにかガラスのケースに入れられてしまって、ガラ
ス越にしか観賞することができなくなったが(以前は直接観賞できたが、日本に貸出し後その寄付によりケースに入れられた)、ヴィヴァーダ・アプサラは直接じかにみることができるし、東洋人であるわたくしにとっては、パリのモナリザよりもこのヴイヴァーダの微笑みに親しみを感じる。これらの大叙事詩あるいは神話をモチーフにして描かれた長さ数Kmにおよぶ回廊のパノラマ彫刻には言葉に絶するものがある。しかし残念なことに彫刻・建造物の破損進行状況からみて、これも数年後には自由自在に詣でることができなくなるかもしれない。タ・プロムならびにタ・ソムはすでに破壊がすすみ危険な状態であるが、榕樹の太い大蛇のごとき根が建物にからみつきやっとささえているようである。プノン・バケンの山上からジャングルのなかに夕日に燃えるアンコール・ワットや西バライを望む時、キィキィと泣き叫ぶ女猿の悲壮な声を耳にし、約1千年のむかし、ここでおこなわれたであろういろいろのできごとに夢がまわる。またこの山上のムシロ屋根の見張り小屋には午睡中の若い10代の兵士1人と機関銃・バズーカ砲ならびにその実弾が無造作におかれていた。

第七話 夢はボロブドゥールからポタラ宮殿へ

 昨年友人に誘われてナイヤガラの滝見物にでかけ、高さ50m幅1000m(アメリカ、カナダの両滝あわせて)におよぶスケールの大きなナイヤガラも霧の乙女号にのって滝口までいったが、わたしにとってはあまり感動するものではなかった。これまでに南アフリカ・コロンビアならびに南米・イグアスの大瀑布を経験していたので感動するほどおどろかなかったのである。また機会があればジョクジャカルタのボロブドゥール仏教遺跡ならびにラサのポタラ宮殿をぜひ訪ねてみたいとおもっているが、アンコールの巨大な遺跡群をみたあとでは、ふたたびあの何とも言えない感動をあじわうことができるだろうか?

(H7記)

参考文献  cambodia 
      cambodian information cennter home page

      曼陀羅の神々(チベット)

      ヒンドーの神々(インド)
      王とヒンズーの神々
      王になった男
      王と潅漑事業 

      クメール王朝(アンコールとタイの遺跡)
      タイの骨董屋 


王と神との間隙
茶馬街道走破


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