中国観光旅行アラカルト


第一話 はじめての中国訪問(桂林に遊ぶ)

 中国に魅せられて何回となく足をはこんだ。中国とは中華人民共和国のこと。はじめて中国にいったのはもう十数年も前のことになってしまった。一般の中国国内旅行が解禁になり大阪の旅行社が定員五十名で募集した桂林周遊の旅であった。早速申込んだが,希望者多数のためキャンセル待ち。特別の招待客以外の戦後はじめての一般中国旅行ということで,千人以上の多数の参加希望者が殺到して一班五十名の十班まで追加設定されどうにか七班位に潜り込むことができた。当時はまだ直航便が就航しておらず,香港より広州えと中国入りすることになった。見る物はなんでもめずらしく,丁度あの楊貴妃が食したというライチがたくさんでまわっている頃であった。観光バスの周辺は果物売りのおばちゃん,にいちゃんでにぎわっていた。空中より見た桂林の奇山,奇石はその規模の大きさといい圧倒されてしまい,全く山水の軸を見る思いであった。

 桂林の風景は”天下に甲なり”とはよくいったものだ。漓江の川くだりも,またちょうど床の間の山水軸のなかに入り込んでいくおもいだった。しかし桂林のほんとの佳さは四季,晴雨の各々八回おとづれてはじめてわかるという。二次大戦中は日本軍がこの附近まで進駐してきていた。でもこの奇峯,奇石のなかの洞窟,鍾乳洞までは発見されなかったとのことである。どこの海外旅行とも同様友誼商店なるものにつれていかれ,われさきにとお土産物の買物にはしった。ちなみに中国脱換券一元は日本円約百六十円位であった。サラリ−マンの一ヵ月の給料三〇〜五〇元位。

第二話 ハルピン紀行(太陽公園と平房

  何回目かの中国訪問で東北地方のハルピンにきていた。もう中国えの直航便は就航していた。しかし人々はまだ人民服で女のひとも白と黒のツ−ピ−スか,れいの国防色一色。色のついた服装はほとんどお目にかかれなかった。せっかくの中国美人の柳腰,鶴足ももったいない。

 上野動物園にパンダがやってくるとかで新聞で報道されていたので,われわれも黒龍江省動物園にパンダ見学にいった。ハルピンから松花江をわたって,太陽島のなかの動物園。さすがパンダ,中国でも人気絶頂,パンダ小屋の前は人がいっぱい。と思ったがパンダ小屋の前の人だかりは,われわれ日本人見学のためのものだったらしい。われわれが,他の動物小屋に移動すると,またぞろぞろついてくる。まだ外国人がめづらしいようで,バザ−ルにでかけると大勢の人達が周りを取囲んで身動きがとれない。

 ハルピンには中国の誇る児童公園がある。通訳氏の案内でわれわれも朝からでかける事になっていた。児童公園は字のしめすように子供たちだけですべて企画,運営されおり,立派なおとぎの国の火車(汽車)も動いている。今回の旅行は家内の友人二人と一緒で合計四人。約束の時間になってもお茶をのんでゆっくりしていてください。他のグル−プがいま公園にいっているのですこし待ってほしいとのこと。迎えのバスがなかなか発車しない。約束の時間より遅れること約一時間,児童公園に着いたら園長さん,駅長さん,運転手さん,車掌さんら,みな制服制帽のかわいい子供たちが,二列で拍手のなか出迎えてくれた。しかもひとりひとり手を取って公園入口の待合い所まで案内してくれた。待合い所では公園の概略,運営方法なり詳しく,子供たち自身による説明を受けた。非常によく訓練されているようだった。待合い所の内側にはもうすでに七〜八両編成の汽車がとまっていた。長い説明のあと,子供たちに手をとられて改札口をはいってビックリ。先刻らい停車中の列車の最前列の一両はわれわれ四人とエスコ−トの児童のためのものであり,他の車両は満員ギュウギュウ。またわれわれ四人がのり込むため列車の発車を約一時間三十分もおくらしていたらしい。知らなかったとはいえ,多くのかたがたに御迷惑をかけたが,公園の子供たちはかわいいし,利発そうで,なんだかてれくさそうで,へんな複雑な感じ。公園ではアイスキャンデ−売りのおばさんがいたが,帰りには清潔そうな若い娘さんに変っていた。

 今回の旅行の目的は旧日本軍石井部隊のハルピン近郊の平房を訪ねることだったが,ハルピン外語学院出身の通訳氏にはなかなか通じない。とりあえず平房までいくことにした。ハルピンより時速百KM以上のスピ−ドでこ一時間も飛ばしても何の風景の変化もない。やっとついたが平房のどこに旧関東軍石井部隊がいたのかわからない。附近の住人に聞いて貰ってもサッパリ。日本でしいれていた知識で平房第二十六中学をさがした。これはすぐ見つかった。校長先生はじめ中学の先生方に聞いて貰ったがこの中学の建物が以前何だったか誰も知らない。まだ保存されているはずの発電所跡やそのオバケ煙突もどこにあるのかわからない。のどなか田舎の町。準備不足をなげきながら,帰途町はずれまできたとき,偶然当時の事情に詳しい,老人に出会いオバケ煙突のあるところに案内して貰った。はじめに訪れた中学のほんちかくで構内は草ぼうぼう,巨大な煙突数本が泰然と聳え立っていた。この廃虚は日本帝国の侵略のシンボル云々との中国語による解説案内板があったが,雑草が生い茂りあまり目立たなかった。ここでいろんな医学の実験研究が行なわれたこととう思いをはせながら,この旧発電所構内からでてくると,附近にいる人々の視線がわれわれに集中しているように感ぜられ,肩をおとし,うつむきながら,だれも言葉をはっすることなく帰途についた。どうして附近の人達がこれを知らないのか。寡黙の帰りの車の中で通訳氏は高校時代歴史で学習した記憶があるが,実物をみたのははじめてで一般の中国人はそんな昔のことはみな忘れていると,なぐさめともはげましともつかないことを話してくれた。

 もうこのとき日本では森村誠一氏の”死の器”の新聞連載が始っていた。これがのちの”悪魔の飽食”えとなっていくのである。熊の手をはじめて食べたのもここハルピンだった。脱換券一元は日本円八六円位。一ヵ月の給料四十〜六十円位。(topに戻る)

平房再訪 (2004/7/4) 人民元1元は日本円13.30円

第三話 西の果てのカシュガル,そしてパミ−ルへ

  トルファン,ウルムチはNHKでシルクロ−ドが放映され全国あまねく紹介された。今回は天山南路の訪問のためにやってきたので,トルファン,ウルムチは二度目の訪問となったので前回のようにカモにされないよう頑張った。バザ−ルにいくのにロバタクを利用することになる。ロバタクは子供の馭者でかわいいがもう二度と騙されまい。だいたい料金は一人一元までらしい(通訳氏によると現地人で一〇角位)。今回もふっかけてきた。一人一〇元だという。前回きたときは一人二五元も支払った。二人で一元でどうか?交渉する。中国語もできなのにウィグル語なんて話せるわけがない。身振り,手振りの悪戦苦闘である。敵さん如何したことか,こんどは無料でよいという。ただほど怖い物がない。聞いてみれば,結局自分はラジカセが欲しいので,外国人用の脱換券と人民元とを交換して欲しいという。交換してくれたらお礼にロバタク無料にするという。御存知のごとく友誼商店は,商品の種類が多く,品数も多いし一般の商店で販売されていない外国商品が売られているが,一般の人民元は通用しない。そこで脱換券をほしがるわけ。かれの希望にかなうようにすこしばかり交換してあげた。かれもよろこひ,わたしもうれし。平和,平和。

 西の辺境の地,カシュガルのバザ−ルで脱換券を売って欲しいと声をかけられた。きけば脱換券と人民元とのレ−トは一:二.五とのこと。今回の為替は脱換券一元は日本円約三五円。なんのことはないトルファンのロバタクの坊やは一回の乗車で一五〇元稼いだことになる。ちなみに中国での普通一般のサラリ−マンで月給七〇〜一三〇元位だそうだ。

 パミ−ル高原,なんと空気のおいしい,しずかなとこだろう。八〇〇〇M級のムズタグアタ,コング−ルは目の前だ。ここムズタグアタとコング−ルの両峯のあいだにあるカラクリ湖からでは一日のハイキングでいけそうにもみえる(写真:華麗な姿をカラクリ湖に映すコング−ル峯)。平成元年七月京都の登山隊がコング−ル峯北稜の初登頂に成功したとのニユ−スが報ぜられている。こんなに近くにある峰がまだ登頂されていなかったとは。

 中国の道はどことも立派である。特に西域南道,北道(天山南路),天山北道は一部をのぞいて立派なハイウエイだ。これらの公路は天山山脈,コンロン山脈からの濁流ですぐに押し流されるらしい。いたるところ道路の流失した跡が見られ大きな石がごろごろしている。しかし片側は砂漠のためとくに身の危険を感ずることはない。カシュガルからタシクルガン,パミ−ルにぬける中パ公路は立派だが,落石街道のようである。いたるところおおきな落石が見られ,落石にやられたとおもわれる自動車の残骸がそのまま放置されている。こんなとこでパンクしてもたいへんだらうに,落石に出会わなかったのは幸いで,またまだ一般旅行には無理かも。それにしても日本アルプスの剣岳,槍ガ岳の三〇〇〇M級,本場アルプスのユングフラウ,マッタ−ホルンの四〇〇〇M級とまたちがう風景は一見に値する。ただ命と引換えでなければ。

楼蘭故城址訪問(2005/3〜4)

第四話 砂漠の美術館

 砂漠のなかの美術館といわれる敦煌莫高窟,中国のみならず人類の資産で,ただただすばらしいの一言につきる。しかし敦煌莫高窟はまだしもベゼクリク千仏洞(トルファン),キジル千仏洞(クチャ)などは洞内の壁画がはがされ一部をのぞいてほとんど見当らない。壁画のかわりに写真と解説のパネルが掲げてあり,むかし外国の探検隊がやってきてここにあった壁画を持ち帰り,現在ではどこそこの国のなんという博物館(実名で)に保存されていると解説されている。

 スパシ古城址(クチャ)は天山の麓,風景のきれいところにある。土地の人の説明によると昔ここ昭怙厘寺には大きな,高さ5Mをこす大仏さんがあったがドイツの探検隊がやってきて首から上をきりとって持ち帰ったという。つづいてやってきた日本人大谷探検隊は,めぼしいものはもうなにも残っていなかったので,この首のない大仏をそっくりそのまま持ち帰ったとのことである。小生も大仏趾でこうべをたれながら小さな陶片一個を旅の記念にと持ち帰った。

 京都国立博物館,倉敷大原美術館等にも中国龍門石窟,雲崗石窟,千仏洞の石像等がたくさん展示されている。まさかこれらはレプリカではあるまいし,真物ならばどこから,どのようにして入ってきたのだらうか?ベゼクリクの洞内で大谷探検隊云々のパネルを読みながら,なんだか肩身の狭い思いをしたのは小生だけだろうか?

上海にて  上海にはすでに数回きていた。上海もずいぶんカラフルになった。街中の女性の服装は東京,大阪とすこしもかわらない。 中国旅行をするには,直航便の飛行機では上海か北京から入らなければならない(最近では大連にも直航便が就航している)。上海に着けば,まず,市内観光となるが同じ所を何回も見るのも,あまり気乗りしない。市内の玉仏寺にも何回か訪れたことがある。あるとき玉仏寺の見学は遠慮しようと思ったが,岡山のAさん(岡山日中友好協会の会長さん)は,あなたもおつきあいなさい。私も玉仏寺はもうすでに一三回もいっていますと,おしゃったのにはびっくりした。Aさんはよっぽど中国が好きなのだろう。

第五話 中国旅行事情

 中国旅行では,すべて中国側の都合で日程もホテルも指定されるとよくきかされる。日本で申込んでも,いざ中国にきてみると指定したホテルでないことがよくある。今回の旅行も日本交通公社を通じて,ある旅行社に日程等すべてお願いしたのであるが,連絡が不十分だ。大阪出発からへんだった。F航空券を依頼しその切符代金まで支払い済みなのにY航空券しか用意されていない。交通公社の担当者に抗議の電話を入れていると,隣の電話で空港まで航空券等を持ってきた旅行社の社員がこれこれしかじか,お客さんがたいへんおこっておられると社に報告しているではないか。旅行社からはF席の空席があれば航空券を買い変えるようにと指示されている。こんないいかげんなことがたびたびみられる。日本で中国内のホテルを指定しても中国側につうじていないこいがおおい。中国国内のホテルはどうも中国側旅行社によってきまるようである。中国国際旅行社に西郊賓館を予約してもだめであり,青年旅行社に上海賓館,和平賓館を予約してもはじまらない。

 交通公社発行の”旅”という雑誌がある。読物としては面白いが,案内書として読むときは注意をようする。”旅”八十五年十月号は中国特集だ。上海郊外に江楼夢の大観園完成,一見の価値あり云々の記事が見られる。雑誌発行後の翌年五月に上海よりタクシ−をとばして淀山湖までやってきたが,大観園の施設はいまだ完成せず工事中だった。世の中いいかげんなことがおおすぎる。上海では豫園でパオズ(包子)を食するにかぎる。

第六話 山水画の郷里黄山と三つの洗面器

中国情勢 黄山にもいってきた。黄山はいまでこそ鉄道もとおりたいへん便利になったが昔はそれこそ辺境の地だったらしい。中国の皇帝でいまだだれも黄山に足をはこんだものいないというほど都からとおかったらしい。また,中国に”黄山をみないで山を見たということはできない”という諺がある。

 自然が作り出すのか樹齢八〇〇年をこえてなお全山においしげる松,岩山,そしてこの両者のハ−モ−ニ−,全く絵画そのものである。 中国の山水の絵画の題材の五〇%は黄山ということらしい。桂林(漓江)が残りの三〇%をしめ,この両者で全体の八〇%になるという。黄山の不思議な絵画のような風景は永遠にわたしの心のなかにとどまることだろう。また,この旅行には後日談がある。

 中国から一通の手紙が届いた。日本人より達筆な日本語で。差出人劉曉紅さんは手紙の内容を読むとすぐにおもいだされた。家内と二人で南画の世界の黄山をたのしんだ途中,あの李白旧跡で有名な馬鞍山で案内をお願いした通訳さんだ。馬鞍山にはプロの日本語通訳がいなかったので,当地の外事弁務所が冶金大学外語教研室の日本語の先生である彼女をひっぱりだしてきた。彼女の案内で真っ暗な夜の市内をサドルの高い自転車(私のような短足にはとくに)で見学して,帰りには彼女のアパ−トにまでおしかけた。二Kの質素で,清潔な部屋で家族は映画俳優のご主人と二才の男の子の三人家族だった。カラ−テレビ,ステレオ,洗濯機がおかれまずは中級以上の生活水準のようである。その彼女の手紙によると一人息子を事故でなくし,哀しんでいるとのこと,ついてはこの哀しみに打ち勝つために日本にきて勉強したい云々。自分は東京の筑波学院(中国では大学のことを学院と表現することがある。)に留学することが決定(この言葉は後日誤解のもととなった)しているので,保証人になってほしいという内容だった。家族とも相談のうえ喜んで保証人になりたいと早速返事をだした。しかし筑波大学に問い合せても来日予定留学者名簿にものっていないとのこと。何だか少し様子がおかしい。彼女とのあいだで数回のやりとりがあったが,結局とうほうの早合点で,日本に私費留学希望とのことであった。筑波学院も東京にあるが,これはいわゆる日本語学校といわれるもので,小生のはやとちりした筑波大学とはおおちがい。決定じゃなく決心したとのこと。でも豊かな国の日本人として,誤解があったとはいえいったん承知した保証人のこと,いまさら断ることも出来ず,あちこち折衝のうえ関西国際学友会日本語学校に入学,通学することになった。(彼女は平成元年4月より大阪府立大学大学院に就学している。)

 彼女は中国で,小学校六年,初級中学二年,高級中学二年,大学四年の合計一四年間の教育を受けてきた。日本流にいえば短大卒業ということになる。日本人は一六年間の教育を受けていないと大学院に進学できないのに,外国人ならば一四年間の教育だけでも正規の大学院に進学することができるらしい。こんな学校教育法があったのかしら。どうも日本でも外国人にはあまいらしい。また,日本語学校といってもバカにはならない。私立大学なみの入学金,授業料が必要で,保証人の面接試験まであった。身元保証人引受説明書,所得証明,法務大臣宛て保証書,ビサ取得のための事前審査,中国でのパスポ−ト取得のための各種書類等受入れ準備もたいへんだ。家内は自分の娘を下宿さすための用意のごとく,新しい寝具,机,身の回り品を買いととのえて彼女の来日を待った。しかし,ただただ外国人を預かるのは,たいへんなことだ。よく日本語の会話を理解しているようでもトンチンカンなことがおこる。本を”貸して貰う”という言葉でも,うえの文字をとれば,”貰う”になってしまう。はじめから分っていたことだが食事の好みも当然異なる。

 日本人にあまり知られていない面白い中国人の習慣がある。彼女は日本にやってくるなり,洗面器は三個必要だと要求した。一つは身体の清拭用に,二つめは外出より帰宅したとき足を洗うため,さいごの三つめは用便のあとお尻を洗うためだそうだ。これが中国人の習慣だという。中国のひとびとは質素ながら真白いブラウスでいつもこぎれいにしている。中国では一般庶民の家庭にはお風呂がない。銭湯もあまりみうけない。会社,工場,学校等の職場の浴場を利用するとのことであるが,このあたりがその秘密かもしれない。日本人は毎日入浴するので洗面器は一つしか必要ないと説明したが,けっきょく彼女のため三つの洗面器を用意した。

 台湾人は悪い人だ。私は台湾人と絶対に話をしないといっていたのに,一ヵ月もしないうちに,台湾人留学生とも仲よくなったようだ。留学も結構国際親善になるのかも。

 大好きな中国,まだまだいきたいところが,たくさんにあるのに,あの天安門広場の出来事でしばらく中国旅行はだめになってしまった。北京の瑠璃廠,南京,上海,天津,広州のような大都市の古道具店や,地方都市の文物商店での陶器の買物もあきらめるほかない。残念。(6/1987)

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