ロマンのエジプト紀行

最近友人に誘われてエジプトへ行ってきた。エジプトの旅はエキゾチックだ。ロマンがある。エジプトと言えばピラミッド、ピラミッドと言えばエジプトと言うことにつきるようだ。ピラミッド、巨大な神殿等巨大さはあきれかえるばかり、土木建築の技術にたけ、現代の科学技術をもってしても、いま、なお解明し得ないものがあるようだ。宇宙的神秘を秘めた四角錘の美しさは、ピラミッドの造営技術と人間の美意識が見事に結晶した一大到達点である。ピラミッドのミステリーとは、その建造の目的と方法に集約される。ピラミッドの底辺の和と高さの比が円周率を表しているとか、ピラミッド自体(クフ王のピラミッド)が地球の北半球の投影縮図だとか、昨今では単なる墳墓説(ヘロドトス)は少数派になったようだ。第五王朝以降に出てきたピラミッドテキストにもこうした事情は記載されていなく謎は新しいミステリーとなっていく。ピラミッドは死んだ人間を不滅の存在に昇華さすためのもので、天空の扉を大きく開け道を造ることによって死んだファラオが神となって昇天するところなんだ。が、また、古王朝のファラオ時代、いかに権力と富が集中していたか、歴史的遺物が物語っているようだが、その上高度に発展した天文学的知識と作業技術の融合集積が必要とされたに違いない。

 

古代王朝の約4500年におよぶ無限のかなた、巨大な存在の前には言葉なんか何の価値も持ち得ないし、直接見るしかあり得ない。じかに実際の現場に身を置いて初めて、ことの偉大さに気づき認識されうるようだ。

 

ピラミッド時代

約4500年前のエジプト第四王朝(ピラミッド時代)には約80のピラミッドが建設されたと言う。凄まじいエネルギーだ。その建設目的はなんなのだろうか。単なるファラオの墳墓だろうか?古代ギリシャの数学者フィロンが世界の七不思議の第一に、まず取り上げているのは当然のことだ。大ピラミッド(クフ王・紀元前2550年頃)は平均約2.5トン(最大70トン)の石を260万個(600万トン)以上積み上げられており、3万人以上の人力を以ってしても30年以上の年月が要したものと考えられる(カフラー王の河岸神殿巨石は一個200〜500トン以上する岩石がある)。

その建設目的には尽きない疑問が付きまとう。数多くのピラミッドからは一体のミイラ(最近メンカウラー王のピラミッドから人骨が発見されたが後世のモノだという)も発見されておらず、やはり単なる墓と言うよりも神殿なのだ。ピラミッドは普通、王の部屋(玄室)、王妃の間、地下の間(現在なお、吉村作治教授等によってクフ王のピラミッドで王妃の間にある北壁の奥、あるいは水平通路の下部より不明の部屋・空間の存在が確認されている)よりなり、葬祭殿、川岸神殿、太陽の船、参道等の付属施設と一体となってピラミッド・コンプレックスとして形成されている。

 グラハム・ハンコックは神々の指紋・天の鏡等の著書をあらわしているが彼は最近、エジプトのポリスを買収して春分の日に大ピラミッドに登った(登頂は禁止されている)。熱意は理解できるが、ここまで来ればどうだか?最近の地質学的検索(グラハム・ハンコック)ではカフラー王の川岸神殿・スフィンクスは岩石の侵食状態から約10000〜15000年前に建造されたものと言う(ピラミッドと川岸神殿とは石材も石組方法も異なる)。クフ王のピラミッドにしてもクフ王時代のずっと前から存在していたと言う。ハッキリした証拠がない以上、一万年以上前から存在したのかもしれないようだ。一万年以上前なんて、夢のまた夢、歴史の深い黄河文明、インダス文明、メソポタミアにしてもせいぜい6〜8千年どまりだ。ギザのピラミッドは果たして何時ごろ建設されたのだろうか?ロマンが膨らむ。

 

再生復活の旅路と最後の審判(死者の書)

 

 死者の書では、人間と神(オシリス)とのやり取りがかなり詳細に記されている。仮の世の、現世では悪いことをしてはいけない、ウソを言ってはならないなどの勧善懲悪の思想が見られ、これは東洋でも同じことで、人間死せれば閻魔様の前に引きずり出され、人生の最後の総括をさせられる。死者の魂(バー)が永遠の命を持って天国(イアル野)にいけるかの最後の審判がオシリスによって下されるのである。つまり、この審判で復活・再生の権利が得られる(生命の鍵アンクが貰える)か否かが決まる。また、ファラオが死せれば、天の神オシリスに化身して永遠の命を得ると伝えられている。

 普通一般には死者の世界は地中深く闇の世界にあるが、ここエジプトでは太陽が沈む(死す)西の彼方に黄泉の世界が存在するという。太陽が死ん(沈む)でいっても必ず明日には東から再生復活してくる輪廻転生の思想が支配的なのだ(太陽神信仰)。また、ここエジプトでは永遠不滅の太陽を運ぶ昆虫としてスカラベ(糞ころがし)がおり、幸運を呼ぶ虫として歓迎されている。

 

吉村教授も吃驚仰天・ピラミッド新学説登場

 

ピラミッドの建設目的は何なのだろうか? ヘロドトスは何の根拠を示すことなくお墓だと言ったのが後世まで言い伝えられてきたに過ぎない。ピラミッド自体巨大な神殿である。正四角錘のピラミッドは女神が降臨し給い王と交接する神聖な場所であり、誰もが犯すことのできない神聖な場所なのだ。砂漠の中、突然雷光がとろどき、稲妻がピラミッドの先端に落ちるとき、女神(男神)が降臨したもう。稲妻に乗って落雷と共にやってくるのである。隼の形をした神かも知れないし、猛毒を持つ赤コブラの姿容なのかも知れない。王と神はこの神殿で逢い見(まみ)える。王は神と交接することによって、王自体が神格を得るのである。王が神と一体なる時、この場所えは妃さえも近づけない。満足した神が天空に帰っていくとき、一般大衆はこの神格を得た王を通じてのみ神と逢い見(まみ)えることが可能なのである。ファラオが最後の審判のオシリスとして化身し、かくして王の権力はますます強化されるのである。これは神話ではなく実話なのだ。

 

再生と新生・輪廻転生の思想

エジプトにとってナイルの農耕生活に与える影響がすべてだった。農耕民族にとってナイルの水が全てであった。農作にはナイルの水が必須だったし、雨季にもたらす洪水の氾濫で新たな肥沃な大地(シルト)が再生し、また新しい収穫をもたらす。周期的に起こる自然現象が、人々に季節感をあたえ、輪廻と再生の思想に形成されていった。日は東の地平線より昇り(ナイルの右岸)より昇り、西(ナイルの左岸)の地平線に沈む。右岸(東側)は現世の世界であり、左岸の西側は死後の世界である。地図上でピラミッドの配置を見ても全てが左岸に偏在している。もしピラミッドがたんなる墳墓・神殿だとすると右岸にどうして存在しないのだろうか。やはりどうしても単なる墳墓とは考えがたい。

 

太陽の船発見

 

1954年、巨大な太陽の船(クフ王の船)が発見され博物館として展示されている。神話が伝えるように、王が昇天し冥界に行くとき、王を天井の世界へ送り出す葬送の船(昼・夜の船)であるのだろうか。確かに、この頃太陽信仰が盛んで死せる王が太陽神と一体になるため、天空の彼方へ王を送り出す葬祭用具だったかも知れない。しかし、川岸神殿もあることだし、この神殿よりナイルの流れに沿って北(西)へ送り出す、葬送船だったかもしれない。実際、クフ王の船の科学的検索でこの木造の船が水に浸かった痕跡が認められているのである。

 

テーベの街周辺

 

古代ギリシャの詩人ホメロスは紀元前16世紀ころのテーベ(ルクソール)を100の塔門を持つ都市と表現している。プラハ(チェコ)も百塔の街と表現されているが、こことは約二千五百年〜3千年以上の時間の差があるようだ。しかし、現在テーベに残るのは、エジプト3神を祀る墳墓、カルナック神殿、2つのルクソール神殿、王家の谷周辺(西岸)に眠る歴代の王や豪族葬祭殿のみである。でも、もしもピラミッドが王の墳墓でなかったら、王家の谷周辺にはまだまだ新しい墓が発見されうる可能性が秘められている。ルクソールには二つの顔があり、ナイル川東岸は生者の街で巨大な神殿がある。一方、西岸は死者の街ネクロポリスと呼ばれていた。人々は太陽の沈む西にあの世(来世)があると考え、王家の谷や貴族の墓が西岸に作られた。

 

若獅子ツタンカーメン

 

1922年ツタンカーメン(紀元前1350年頃)の墓が手付かづの状態でハワード・カーター(英)によって発見され、金銀財宝が天井の高さまで山積され、古代エジプトの現在の世界にも通ずる精密な装飾品には吃驚せざるをえない。ツタンカーメンの墳墓は3重の大きな木箱(いろいろ象形文字や絵画で飾り立てられている)の中に石棺があり、その中にまた3重の金箔の貼られた杢棺で覆われていた(有名な黄金のデスマスクは最後の杢棺の下にあり現在カイロの考古学博物館で観賞することが出来る。彼のミイラはこの杢棺に納められており直接見ることはできなかった)。

 

ツタンカーメンの墓には2人の嬰児のミイラも発見されている。ツタンカーメンは9歳で即位し17歳ですでに年上の妻との間に子供がいたと伝えられ、この嬰児のミイラが彼の子供だったのではないだろうか。身体の皮膚に香料を塗ってもらう若いツタンカーメン夫婦の仲睦まじい精巧なアラバスタの床燈等(金箔の玉座の背もたれ部分にも同様のレリーフが見られる)が発見されている。ツタンカーメンの墓は盗掘をまぬがれ無傷のまま発見されたが、彼のミイラのX線写真では頭蓋骨の陥没骨折の痕が見られるという。頭蓋打撲が致命傷なれば、若い王をめぐり、壮絶な争いがあったのではないだろうか。またこの若い王の母とされるネフェルティティには出産の記録が見当たらない。もしそうであるなら、ツタンカーメンの母はいったい誰なのだろうか。ツタンカーメンに纏わる出生の秘密、死因の謎は深まるばかり、やはり古代エジプトはロマンをかきたてる。

 

旅の栞

今回の旅は高岡孝一先生を団長に総勢18人の団体ツアーであった。

第1日目(11月23日)

 MEにて直行便でカイロに向かう。飛行時間は約13時間20分(時差は7時間)。西行きは向かい風のため時速700〜800KM位しかスピードがあがらない。なんだかまどろっかしい。でもキッチリ予定通り到着した。関空から中国天津まで朝鮮半島(韓国)を直線に横断した飛行機は、ここらで北に方向を変え北京からそのまま西のほうに大陸を横断、天山北路を西進しバグー辺りから南下、レバノンをかすめ地中海に出た。心配していたイラクの上空は飛ばなかった。MEはノンアルコールで、乗る前に白赤のワインがそれぞれ1本づつ配られると説明を受けていたが、今回はこのサービスがなかった(スチュワーデスによると約1年前よりこのサービスは取りやめられた)。エジプトはラマダン中であった。観光客のバスは全てそろうまで空港の駐車場内で待機、準備が出来たときパトカーの先導でホテルまで直行、ハトシェプスト葬祭殿の事件以来エジプト当局も神経質になっているようだ。また観光中も必ず私服の観光警察がショットガンを携帯持参でバスに乗り込んでいた。Meridien Pyramids

第2日目(11月24日)

 早朝に起床、ホテル付近をやく2時間ぐらい散策する。昨夜遅くホテルに着いたので気づかなかったが、ギザの3大ピラミッドは宿泊ホテル(Le Meridien)に隣接していた。確かに136m、ビルで言えば30〜40階ぐらい異様に大きい。僕はピラミッドが砂漠の中にあるものとばかり思っていたが、これじゃ街の真ん中だ。舞台の緞帳のように垂れ下がっている。でも、感激するほどのものではなかった。

 ダハシュール(赤のピラミッド、屈折ピラミッド)、メンフィス、サッカーラ(エジプト最古のジュセル王の階段ピラミッド)を見学後、午後ギガのピラミッド見学する。クフ王のピラミッドも修復後入場制限が行われ1日150人のみ入場許可されると言う。文化財保護の立場から結構なことだ。われわれは午後の予約で、午前中郊外の観光より帰ってくると予約中にもかかわらず入場券入手できず、約1時間他の観光(高台よりギザのピラミッド群を鑑賞)で時間をつぶす。この間旅行社の社長と観光局の管理部門の責任者との電話によるトップ会談で入場券を入手出来ることになり時間外の3時より見学できた。お陰で見学者はわれわれのグループのみでゆったりと見学できた。夕刻スフィンクスと川岸神殿を見学したが数百トンもある岩石をどのようにして積み重ねていったのだろうか?造られた年代は、誰によって造営されたのだろうか。謎は膨らむばかりだ。

 赤の真正ピラミッドとクフ王のピラミッドには玄室(王の部屋)まで入場したが、ただの200メートル(往復)しか歩かないのに足腰を壊してしまった。入り口から上昇通路まで30m、上昇通路38m、大回廊48mで、懐中電灯に照らし出された大回廊の一つの石の大きさ(約70トンに及ぶ)、石組はほんとにぴっちりしており石の隙間を見出すのに苦労するほどだ。ピラミッドの完成後ではこんな細工は不可能で、やはり建設途中に構築されたものに違いない。低い天井、26.5度の傾斜階段でほんとに辛かった。あくる日から足が笑いバスの乗降にも障害をきたした。情けない。Meridien Pyramids

第3日目(11月25日) 

 午前3時起床、午前5時30分発のME245でアプシンベルに移動。大神殿と小神殿見学する(ラムセスU・奥方ネフェリタリ)。ご存知のようにアスワンハイダムの建設で水没するのを国連の協力で新しく移築されて出来たもので、これはまさしくUNESUCOの勝利だ。次いで10時25分発ME248でアスワンに移動、ハイダム、切りかけのオベリスクを見学後ホテルに入る。夕方ファルーカ(帆船)に乗ってナイルの夕涼みに出かけたがあまりロマンチックではなかった。ただ落陽のナイルだけが秀逸で、カヌーに乗った坊やの歌唄いも、船の少年のオーアレレやアヤナーレもいまいち盛り上がらなかった。夕食後スークに行き帰りはホテルまで馬車に乗った。Basma Hotel

 

第4日目(11月26日)

 午前10時35分のME136にてルクソールへ。ルクソール神殿(1本のオベリスクが見られた、ペアのもう1本はパリのコンコルド広場)を見学したが巨大な列柱は見事なものであった。ここでは列柱の上には屋根がないという。パールバック(レバノン)やパルミラ遺跡(シリア)では屋根が崩壊して岩石がゴロゴロしていた。

午後はカルナック(アモン神殿)の巨大神殿を訪れ、規模の大きさや2本のオベリスクや象形文字に吃驚した(象形文字はナポレオンによって発見されたロゼッタストンのお陰で、現在ではほとんど解読されている)。ここの大列柱は高さが23m周囲約5mのものが134本あると言う。列柱の中で上を見上げれば巨大な柱が倒れてきそうな錯覚におちる。夜、皆さんはカルナックの音と光のショウを見学に行ったが、僕はインターネットの案内の勧めによって、これはパス、市内で買い物ジャックを楽しんだ。Isis Luxor Hotel

 

  

第5日目(11月27日)

王家の谷の観光で3つの墓(フラッシュはダメ)とツタンカーメンのお墓を見て回る。各種象形文字で案内されているのだが、解読できずさっぱりだった。写真だけは沢山撮ってきたが、持参のASA800を入れ忘れ残念なことをしてしまった(ツタンカーメンの墳墓はカメラ禁止)。今の電子カメラ、必要に応じ自然に発光するが、同行のT先生のカメラが発光、管理人に見つかるがEL10のバクシーシで見逃してもらう。全てお金で解決おおらかだった。

アラバスタと大理石のみやげ物屋(TITI)に連れて行かれた。何にも変わったこともなくただ普通のお店だったが、ここの地下はすごい。穴倉のお墓、一番奥に座位のミイラがあり、その両側にずらりとミイラが並べられていた。我慢出来ない臭気と真っ暗闇、ぼくは懐中電灯を持っていたのでハッキリと確認できた。このように一族郎党仲良く、一つ屋根の下で暮らしていたんだ。凄惨な光景だった。これにもバクシ―シというチップが必要だった。

ハトシェプスト葬祭殿(98年例の襲撃事件が起ったところ)の階段は完全に修復されて、少し幅が広くなり、より一層美しくなったようだ。夕刻ナイルに落ちる落陽を見学したが、やはり感傷をそそるようだ。Isis Luxor Hotel

第6日目(11月28日) 

午前9時ME132にてカイロへかえる。エンジントラブルだとかで約2時間遅れる。モハメッド・アリ・モスクを見学したが取り立てて言うほどのことなし。が、ここの大理石はピラミッドの化粧板を外して用いられたとか、モスリムもようやるわい。ブルーモスク(トルコ)のほうが感動的だった。

午後エジプト考古学博物館見学、ツタンカーメンの秘宝は素晴らしいの一言のみ。割合すいておりゆっくりと観賞できた。彼のデスマスクをはじめ装飾品の数々とても数千年の昔の作品とは考えられなかった。

今日はエジプト最後の夜、観光船に乗ってベリーダンスのディナークルーズ、エキゾチックなダンサーの腰振りダンスに誘われて同行のK先生の独演会となった。26.5度110mの坂道はよたよたして途中棄権したK先生も、怪しげな音楽とともに、元気溌剌、舞台の上で最後までの熱演で会場を盛り上げてくだされご苦労さまでした(観賞者数約300名)。Sheraton

第7日目(11月29日)

午後2時、ME862KIXへ。帰途は快調、追い風を受けて飛行機のスピードが上がり(1000〜1100KM/H)、全てが順調だった。行きしなに懲りてビール持参で乗機、食事の後、飲んで寝た。 

第8日目(11月30日) 

午前8時30分関空到着。やっとエジプトの旅も終焉した。結局エジプトの旅はお墓の見学に尽きるようだった。ピラミッドも期待したほど感激するものでなかったし、5000年前の世界なんてこんなものかなと思っただけだった。(平成14年11月記)

 

 

 

写真1 ギザのピラミッド。クフ王、カフラー王、メンカウラー王と3基の王妃のピラミッド。

写真2 ホテルの前からのピラミッド、ギザの町に接していた。

写真3 カフラー王のピラミッドと大スフィンクス、河岸神殿。神殿の巨大石は1個500トン以上もあるという。

写真4 ルクソール神殿入口とオリベスク、ラムセス2世像。(手前の台座の上にあったペアーのオリべスクはパリのコンコルド広場)

写真5 カルナック神殿、とにかく大きくて広い。列柱室の巨大柱は134本あると言う。全ての柱に詳細な絵画やヒエログラフのレリーフが見られる。(柱には王を迎えるオシス神や生命の鍵が見られる・ヒエログラフの解読につながるロゼッタはナポレオンによって発見された)

写真6 ツタンカーメンの墓の図

写真7・8 ラムセス3世の玄室の天井の壁画。アケルの昼夜の書の部分、天井を2体の天空の女神ヌトスが覆い、太陽は毎朝ヌト神の胎内より生み出され昼の船に乗り換えて天上の流れを航行する。写真8では今まさに飲み込まれようとしている。

写真9 ハトシェプト王妃の葬祭殿。白い宮殿とバックの岩山、紺碧の青色が印象的だった。

写真10 王家の谷で見かけた作業用のトラック、人力で坂道を押し上げていた。


(医師新報の原稿)