哀しき香妃(ホージャ)の叙情詩
カシュガルは昆倫北路、天山南路の交通の要所にあたり、道はパミールに通じている。仏教徒だったカシュガルのウィグル族がイスラム化したのは10世紀頃と言われている。西域の中では最も早い改宗だったが、17世紀に入るとイスラム教のマホメットの子孫と称するホージャ一族が、カシュガルの宗教、政治の実権を握るまでにいたり、このホージャの実力者アバ・ホージャが父のために壮麗な、青いタイルの廟を、街はずれのポプラ林の中に、涼しげな影を作るところに建立したと言われている。小さな池の側に馬蹄型のアーチの門があり、これをくぐると、目の前に丸いドームをもつ廟がそびえており、その大きさ美しさが当時のホージャの実力を物語っている。ドームは緑のタイルで覆われ、陽光のもと、しっとりと輝いていた。言うまでもなく、緑のタイル、玉の王宮だった。またこの廟のなかには香妃の墓があり、彼女はその母親の横で静かに眠っているという。
西域を平定した清の皇帝乾隆帝が、ある晩、夢に西域の美女を見たという。皇帝はほうぼうに人を遣わし捜させて遂に見つけたのが、夢の美女はホージャの娘でカシュガルにいたのである。彼女は聡明で、美しく、香水も付けないのに身体からかぐわしい香りが漂っていた。都に召された娘は香妃と呼ばれ、日夜皇帝の求愛を受けたが、香妃は、自分の胸に短刀を当てて皇帝を拒み続け、宮殿の窓辺によっては、西の空を恋い続け、生まれ故郷を偲んでいた。皇帝はカシュガルから砂ナツメの木を運ばせ植え付けたり、香妃に付き添って来た人達に毎夜カシュガルの音楽を奏でさせ妃を慰めた。宮殿の中には青いタイルのお風呂まで作ったりして、妃の心を溶かそうとしたが、香妃の心を開くことは出来なかった。
こうした有様に、皇帝の母の皇太后が苛立ち、香妃に辛く当たったという。ある日、皇帝の留守をみはらかって、皇太后は香妃に言いました。「お前は何が望みで生きているのか」「西に帰れぬなら、せめて死ぬことです」「では今日、お前に死を賜ろう」
皇太后に虐められた、香妃は自ら死にました。倒れても、なほその体から妖しいかおりがしていたという。香妃の遺体を運ぶ行列は、3年もかかりながら、カシュガルに送り返され、妃の母の隣で永遠の安らぎについたという。
廟は高さ26メートル、外面を覆う緑色のタイルが鮮やかであり、内部には17世紀にこの地の実権を握ったホージャ家一族5代72人の棺(ひつぎ)を安置する。香妃は清朝の乾隆帝の后妃だったとされ、伝説では、1763年、北京で亡くなったといわれている。アバ・ホージャの大きな棺の一番奥の方に、小さいが美しい青いタイルに覆われた香妃の棺がうっすらと差し込む、木漏れ日で妖しく輝いていた。このウィグルの地では、女性は母親の、男性は父親のそばに葬られる習慣があるという。
香妃の物語には色々異説があるが、香妃とは清代の記録にも確かな、容妃のことで、その墓は北京郊外にあるとも言われている。しかし、カシュガルのウィグルの人々にとっては、香妃はあくまでイスラムの教えに殉じた娘の悲劇である。
カシュガルはホントに遠かった。ウルムチから飛行機がでているが、それでは砂漠を上空からしか見られない。ハミ瓜の美味しさはわからないだろう。ここカシュガルからヨーロッパまで約3時間あまりの飛行、ウルムチ経由北京まで6時間、距離の点からいえば、全くヨーロッパ圏であった。
追記:たまたま、トルコ航空のkix-ist直行便に乗る機会に巡り合わせた。飛行機は中国大陸を横断し、タクマラカンの北縁、天山南路の真上を飛んだ。12400mの高度にしては地形が手にとるように理解できた。砂漠の道路、川が幾何学模様をなし、それだけで十分美しかった。各オアシスもほぼ特定された。(8/98追記)
Erikinさん記(下記写真集参照)
香妃の話が出てきたのでちょっと投稿させていただきます。香妃はウイグル美人の中国語式の呼び方で、18世紀の後半の歴史になります。岡山大学文学部の間野英二先生などが書いた世界史6「内陸アジア」という本の最後の年表を見たら1765年東トルキスタンのウチトルファン農民蜂起が載っています。歴史では1762年清朝がウイグルの土地に侵略し、占領して、天山の北側のグルジャ(中国語で伊寧という)市の北に伊梨将軍府を設け、軍事式の政権を作ったんです。中国との戦争中殺された兵士の奥さんが男の服を着て戦争していた。彼女が捕まえて、女性の身分が公開し、清朝の将軍二人が奪い合い、喧嘩し、結局「誰も触らない、ケンリュウ皇帝に上げる」ことになって北京まで連れて行ったんです。皇帝が彼女を見てから中国語で言えば「一見種情」で好きになってしまい、求愛しつづけたが、彼女は拒み続け、いろいろな条件を言い出し、何故笑顔にならないかと聞かれ、「故郷の木を懐かしんで泣いている。故郷の木の枝が鉄、葉っぱが銀、お花と実が金に似ている。そのシャンプで髪の毛を洗ってきた。北京のそれがないから悲しいです」と言った。ケンリュウ皇帝がそれは何の木か分からなくて、周りの人に聞いて「おれの庭に似合う木だ」と言って、東トルキスタンのアクス地区のウチトルファン県に北京から軍を派遣した。
香妃=容妃=イパルハン=メムラエゼム。(時代的には清の乾隆帝がウイグルに攻め入ったころの人です。)
香妃は18世紀にカシュガル一帯を治めたホージャ一族の娘で、カシュガルから東南へ約200kmのヤルカンドで、1734年に生まれました。香水をつけなくても体中から砂棗(すななつめ)の花の香しい香りがただよってくることから、イパルハンと呼ばれるようになりました。(なワケないとは思いますが)本名はメムラエゼムと言う。
旅行のガイドブックなどでは本名がイパルハンになっていますが、イパルハンが漢訳されたのが香妃という呼び名だそうです。1760年、西域を攻めた清の乾隆帝が、ある晩夢に西域の美女を見たといいます。皇帝はほうぼうに人を遣わし、ついに見つけたのがメムラエゼム。彼女は26才で都に召されましたが、言い伝えによれば、帝の寵愛を拒み続け、その果てに死を賜ったと。亡骸は輿に乗せられ3年かけてカシュガルへ返され、ホージャ一族の墓所に埋葬された。
また言う。
実際には香妃とは容妃のことで、乾隆帝の寵愛を受け平穏に暮らし、北京郊外の清東陵に葬られているとも。
カシュガルの香妃墓には彼女の衣冠が納められているとも言われています。
一族の娘であるからには、異民族へ召されても、魂はカシュガルに戻ってくるとの思いがあったのかもしれないですね。