ハンガリー狂想曲


第一話 ブダペスト 

 ハンガリーの首都、ブダペスト(BUDAPEST) の街は文字どおりドナウ河をはさんでブダとペシュトからなっており、いずれの側の景観もほんとにすばらしい。ことに HOTEL INTER CONTINENNTAL の窓からの360度パノラマは、バラの丘からゲッレールトの丘まで、中心となる王宮( Kiraly palota )やマーチャーシュ教会( Matyas templon )がライトアップされており、これもまたライトアップされた鎖橋( Szechenyi lanchid )とともに1枚の絵画(写真1・2)である。夜遅くになってからホテルについたので、とくにドナウの河畔のヤノーシュの丘にライトアップされたこれらの絵画には深い感銘をうけた(写真3・4・5)。(今年六月よりハンガリーはno viza(日本人)の国になり、関空より直接直行定期便も飛んでいる。)

第二話 カーダールの腹の中

 こんな美しい風景を持つハンガリーは、どうもついていない国の一つであると考えられる。何をしてもドジばっかり、思うように歯車が回らない。人生と全く同じで不幸を背負い込んだ国もあるものだ。第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー君主制は瓦解し崩壊することによって待望の独立をば得たが、敗戦国として1920年のトリアノン条約でその国土の3分の2と人口の3分の1を国外に取り残された。さらに第2次世界大戦ではドイツ・イタリア・日本の三国同盟側にたち、独ソ戦争にまきこまれ、国土は焦土と化した。1949年選挙で「共和国憲法」を制定するが、ラーコシ社会主義的独裁へと変革していってしまった。

 1956年の市民武力蜂起で誕生したナジ政権は、ソ連の介入により悲しくも崩壊、指導者は反革命分子として処刑された。その後ソ連の意を受けて成立したカーダール政権だが、1960年代に入ると「敵でないものは味方である」とのスローガンのもと、顔はソ連に、体は自由主義に、徐々に自由化を推し進めた。これが今日の東西体制変革の発端となっていったのである。これからはズートこのまま、平和で自由であってほしいものだ。

 建国の896年ころ、マジャール民族は武闘派でならし、ヨーロッパ大陸の隅々まで遠征、力余って金銀財宝をかすめとり、略奪してきたむくいか、すぐにドイツによってやられてしまう。ゲーザの子イシュトヴァーンはローマの後押しでキリスト教を国教とし、マーチャーシュによってその栄華が極まるが、これも長続きはせずトルコによって討ちまかされてしまう(1526年)。いわゆる3分割時代の到来であるが、1686年にはトルコを追い出したハプスブルグによってその植民地とされてしまった。ハプスブルグの時代はそれなりに評価されるが、民族自立の想い強く、独立戦争をいどむがこれにも破れてしまう。しかしハプスブルグの衰退とともに1867年形ばかりの独立を得ることになった。この間ユダヤ人とマジャール人との対立を内に潜みながら、アディ、モーリツ、モルナール等の輩出を見ることになる。

 カーダールは大した人物である。ソ連になびきながら、ワルシャ条約機構を崩壊させた男であると私は信じている。表面的には「ベルリンの壁」の崩壊が直接東西体制を打破したことになっているが、そこまで追い込んでいったのはカーダールではないだろうか?避暑を表面的理由にバラトン湖( Balaton To )周辺に集結してきた10万人規模の東ドイツ市民は、事実自由を求めて西側への脱出の機会を窺っていたのであり、それに国境を開放したのはカーダールであった。いずれにしても今日の東の崩壊、西側体制の確立に果たしたカーダールの役割は十分に評価されねばならない。

第三話 ドナウベントの美しさ

 ドイツより東をむいて流れだした青きドナウの流れは、ポーランドをえてここハンガリーのドナウベント(曲がり角)で全く90度、南に向きを転ずる。ヴィシェグラードは今世紀に入ってから発掘されたものだが、ここよりのドナウはまったくすばらしいの一言につきる。300米の小高い山上の城趾よりのドナウの展望(写真6)は、眼下に屈曲部を目の当たりにして、これまた一幅の絵を呈する。さらに数十キロ北にあるハンガリー王朝の発祥の地エステルゴム( Esztergom )は大聖堂も現存しており、初代国王イシュトヴァーン1世(istvan)のキリスト教受け入れ体制がしのばれ感慨深い。丘の上の聖堂裏よりの眺望(写真7)もこれまたすばらしい。ここからはスロバキア(シュトウロボ)が目の前に展望され、第二次世界大戦によって破壊されたマーリア・ヴァレーリア橋( Maria Velena hid csonkja )の残骸がそのまま放置されていた。はるか彼方に夕日の沈むとき、ドナウの中の国境といい、橋を渡れば外国(スロバキア)といい深い感傷に浸る。最近このマーリア・ヴァレーリア橋の再建の話が両国の間ででているとのことであるがまことに結構なことである。一日もはやく復旧されることを願ってやまない。

 昔から「美しきドナウの流れ」等歌にも歌われているが、ドナウの水はそんなに綺麗ではなかった。ブダペストからセンテンドレまで観光船に乗ったが、ドナウの流れは濁流とは言わないまでも、決して清流ではなかった。今年六〜七月はヨーロッパ一帯記録的な長雨で、南ドイツ・ポーランドではドナウが氾濫し洪水に見舞われた。同地方の農業に多大の被害を被らせたと日本でも報道されており、出発まえ大変心配したが、幸いにもハンガリーでは増水しただけで大したこともなかったようである。こんなわけで水が濁っていたのかもしれないが、青きドナウの美しさはあたりの街並み、風景とマッチしたバランス、ハーモニイにあると想う。ブタペストにしても、センテンドレにしても中世風建物、街並みが豊かなドナウと相まって風景を呈しているのである。

第四話 ハンガリーで一番有名な日本人小林研一郎氏

 1974年に第一回ブタペスト国際指揮者コンクールが開催された。このとき小林研一郎氏はベートーベンの「田園」とベルリオーズの「幻想交響曲」を指揮した。かれの演奏指揮は「その静けさ、喜び、美しさ、激しさが自由に操られた。すべてはこの世のものを超えてしまっていた。研一郎、彼こそ神に愛された子であろう。」と絶賛(ベルニエ)された。また「熱狂、それはすさまじいばかりだった。僕にとってこの時こそ人生最大の栄光の時だった。」と彼自身回顧している。彼は栄冠を勝ち得た、ハンガリーの英雄の誕生であり、ハンガリーで一番有名な日本人となって、世界に羽ばたいていった。時まさに、彼自身34歳のときである。一人の神に愛された才ある男が、神の恵みものを大衆にわかち与えた。このことは理解できるのであるが、多くの女子中・高校生が彼のプロマイドを肌身に持ちつづけていると聞きおよぶにつけ不思議でならない。ロック、ジャズ、ディスコ、フォークやあるまいし、彼の風貌がそうさせるのか、あるいはハンガリーでは若い人たちの熱狂的クラシックフアンが多いのだろうか?彼は現在も音楽総監督の地位にあり、ハンガリー最高の勲章が授与されている。彼にとってまさしく「光はブダペストからやってきた」のである。

第五話 可憐に咲くドナウの薔薇(Herend)

 緑にふちどられて、かわいく咲く一輪の赤いバラ。ヘレンドは有田に似た磁器で頑固に手ずくりの手法をいつまでもまもってきた。もともとヘレンドはマイセン等の複製品を造ることに始まったので、ヨーロッパの有名な他の窯より約100年ほど歴史は浅い。あくまで手ずくりにこだわり続けて今日の名声を勝ち得てきた。大量生産にはしってしまったマイセン等の有名ブランドにいつのまにかとってかわってしまった。清楚で可憐なドナウのバラはいつまでも咲き続けるだろう。旅の記念にとHerendを探し求めたが、有名店の老舗は土曜日・日曜日と全くの休日。なんだかんだ言われている東欧でも商売気は全くなし。日本人とは考え方が違うようだ。
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第六話 フェルド(トルコ風呂)

 これを知らずしてハンガリーを語るなかれと言われるように、ハンガリーのフェルド(温泉)は有名だ。いろんな意味で「知る人ぞ知る」温泉は日本でもかなり有名となってきた。ブダペストあってこその温泉、いや温泉あればこそのブダペストというステイタスはいまも変わっていない。ブダペストのフェルドはもともとローマ人やトルコ人によって建設され本来医療のために利用されてきた。ローマのカラカス浴場は、もはや浴場としての使用はされず音学会等に利用されているにすぎないが、ブダペストのトルコ人によって造られた温泉(トルコ風呂)は、現在でもその古色蒼然たる重要文化財的古代建築が現存し実際利用されている生きている遺跡であり、古代を感ずるだけでなく経験できるのである。一般に温泉は大きな浴場・プール・医療施設の三点セット(キラーリイ浴場にはプールがなかった)からなっており、この温泉を覗かずしてブダペストの温泉を語ることが出来ない。平べったい亀甲型の屋根が特徴的で、ドームの採光窓より差し込んでくる、ゆらゆらと揺れる光線がなんともエキゾチックだ。黄金の琥珀色の水面のリフレクションが天井に、女の髪のように生きているように描くモアレ。お湯は琥珀色で、なにか粘調度があるようにも見えるが、わりあいさらりとしていた。このお湯の飴色と揺らめく天井より差し込む太陽光線とそのリフレクション模様があいまってあやしげな雰囲気を醸し出している。湯船は円形でそれをとりまいて石の柱(マーブル)があり、柱の外側は洗い場となっている。また洗い場のあちこちに石作りのベットが造られており、ここでゆっくりとくつろぐことも出来る。旅疲れの疲労感のあるこの体は、この石の上で重力から解放され、完全に全身の自己制御不可能となり、精神は溶解、ゆるやかな眠りの世界に、快楽の世界に誘い込んでくれる。薄暗い浴場までの洞窟のような通路といい、とらわれた先入観がへんに好奇心をもよおすだけで、ブダペストの恥部とか、東側の180度のネジレとかいろいろ言われてきたわりには、私のつたない経験ではいがいと健康的でサッパリしたものだった。ブダペストのトルコ風呂は、サウナのようにスチーム浴であったまり、ついでシャワーを利用する本格的なトルコ風呂ではなく、どぼんととっぷり首まで湯船(体温位の低温浴で長湯でもノボセない)に浸かる日本式である。ここではお湯に浸かると言うより琥珀に融けると表現したほうが適切かも知れない。東欧までやったきて日本式公衆浴場に入れるなんて、なんとも愉快なことではないか。勿論入浴方法も外国では珍しく、日本同様スッポンポン(プールは水着着用)、裸で付き合える社交場なのである。入浴後希望に応じてマッサージやエステ・ペディキュア・マニュキュアもやってくれる。(ハンガリーのフェルドは男殺脂地獄という説もある。最近東欧でもAIDSも流行しておりフェルドご利用の諸兄は十分のご注意を)

第七話 赤い葡萄酒とジプシー

 「美食礼讃」といえばブリヤ・サヴァランであるが、わが国、陳舜臣氏の「食ものがたり」もなかなかの力作、その軽快なタッチといい、それにまつわるエピソードも大変面白い。これを読んだらなにか中華料理の大家にでもなったかと錯覚に陥る。さてハンガリーといえば赤ワインとグルメ。下戸のものでもハンガリーくんだりまでやってきて、どうして「雄牛の血」(エグリ・ビカヴェール)を飲まないまでも、匂いぐらい嗅かないで帰れましょうかとワインセラーの里まででかけた。小さな質素な造りに反して、中は千畳敷、酒倉を改造して造られたような部屋が地下通路のようにどこまでも延びており、一種独特の黴臭い香りがしていた。赤ワインで有名なこのボロゼー(borozo)ではジプシーの音楽(写真8)でもてなしてくれる。ジプシーの歌と踊りと酒は、文字どおり定番である。「あかのスイートはちょいと舌にのこる。ドライは辛いけどそれなりに纏まっている。」と知ったかぶりの講釈付きでけんけんがくがくだが、私には最後までエグリ・ビガヴェールの美味しさは判らなかった。ジプシーの音楽は悲しい。陽気でテンポの早いリズム、身体の最後の芯まで使いきってしまう激しい踊り、またあるときは黒人霊歌のように地を這うような低い哀調のある旋律、虐げられてきた民族の両面性を具現しているかのようだ。なにか問題が起これば、それはルーマニア人だ、ジプシーだと誹謗されながら生き続けてきた民族の悲しみが、すこし理解できるようにも思う。(平成9年8月記)


写真1 鎖橋よりマーチャーシュ教会を望む(*吉田鉄也氏撮影・提供)

写真2 王宮の丘より鎖橋から聖イシュトヴァーン・バジリカ大聖堂を望む(*吉田鉄也氏撮影・提供)

写真3 ドナウの左岸(ペシュト側)より王宮からマーチャーシュ教会を望む

写真4 マーチャーシュ教会(屋根のモザイク模様がすてき)

写真5 ドナウ川畔国会議事堂

写真6 ヴィシェグラード城趾よりのドナウベント(屈曲部が目の当たりに見える)

写真7 エステルゴムの大聖堂の庭よりスロバキア(シュトウロボ)を望む。第2次大戦により破壊されたヴェレーリア橋が見られる。

写真8 ジプシーの音楽

*吉田鉄也氏(兵庫県明石市在住・医師・二科会写真部会員)の好意に感謝する。

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