インドにはまる
悠久の流れ、静かにゆったりと、永遠の時間を刻んでいくガンガーの流れ、そこには時間を、世俗を超越した空間が存在する。昼間の光芒が、闇のしじまに移り、やがて暗黒のとばりにつつまれていく、このガンガーに何かが浮き沈みしながら流されていくが、それがなにかは、たそがれ(黄昏)の黄泉(黄褐色)の世界では判然としない。どこからきてどこえ流されていくのか、またそれがなになのかは、誰も知らない。シヴァ神の流す涙が、あつまりあつまって、大きな動脈をなし、老いも若きも、男も女も、富めるものも貧者もすべてここにつどい、一日のけがれを洗い清め、またあるものは夕べの祈りを捧げる。なんのために、なにを、神に願おうとしているのか、静寂のなかに、ただ流れをよぎる水音だけが、こだまする。
初めて目にするガンガー、川原にさまよえる多くの魂を越えて、その姿を現し、生暖かい風によって異臭が身を包む。ひるまの喧噪、ただ二人だけで運ばれた竹の筏(タタリー)のうえの白い衣の人形、赤々と揺らめく、妖炎、何とも凄い。なんだか地獄の一丁目にたどり着いた感がする。インドでは生と死の断絶はないのだ。生と死は連続した不連続の連続なのだ。この世の契約から解き放たれ、天上に旅立つ幸せの刹那の一瞬なのである。これらは、心の中の、空虚な脳細胞の出来事で無く、実体験される場なのだ。ホントに凄い、凄惨だ。
哀しいカーストの呪縛にとりつかれ、なぜ己の運命まで流れに任せてしまうのか、もがいても、あがなっても、どないもしようのない空虚感だけが人生のすべてを支配する。この世に生をうけると、もうすでにその時点で、すべてが定まってしまい、悪魔の仕掛けた罠からぜったい逃れることが出来ない。いまいましい悪魔の呪い、これが運命というものなのか。
強い運命の呪縛、これにあがなっても、傷つくのが関の山、強い風にはなよなよした柳の方が抵抗も少なく、つよく、巧く生きのびられる。あくまで哀しい生活の知恵なのだ。乞食の子供として生まれたなら、生涯乞食として生きていかねばならない。たとえどんなに頑張ったところで、所詮結果は同じ、いつまでたっても無限のループから這いあがることだ出来ないのだ。親は、こどもをさらに典型的な不具者に仕立て上げるという。こどもの将来のため、こどもが食いはぐれないようにと。自分のこどもを、自分のうんだ子供を不具者に仕立て上げるなんて、そんな哀しいことが出来るだろうか。自分の運命に逆らいがたいなら、それなりにこどもの幸せ願い、こどもを傷つける母親の悲しみ、こんな悲しみ、この世にあるのだろうか。まさに奈落の再現だ。インドに有り余るほどある神々、誰ひとりお助けにならないのだろうか。
コロつきベニヤ板に上手にからだをくくりつけ、まるでゲンゴロウのように、雑踏の人混みの間を、非常な早さと敏捷さをもって泳ぎ回る。かれらには明日も明後日もない。あるのは、ただこの瞬間だけ、この瞬間さえ生きれば神様がどないかしてくれる。かれらの願い神に届くのだろうか。バクシーシ、バクシャの呼び声だけが、いつまでもついてまわる。どこえいっても、人のいるところすべてについてまわる。しかし、この国のエネルギーはすさまじい。ダムダム空港に着いただけで実感される。蒸せかえるような体臭と、煮えたぎるような眼差しいっぱいの彼らの手厚い歓迎を享受しなければならない。だれをむかえるのか、無数の出迎えの人々、それぞれが何かをわめきちらし、叫んでいる。かれらはなにを言い、なにを訴えているのか。中には身を乗り出し、まるで10年来の知己でもあるかのように、荷物を奪おうとする。タクシー、タクシーと連呼されてもタクシーは一台で結構なのだ。インドといえば、どこか神秘的で、貧しく、陰惨なイメージのみを持ち合わせていたが、どうしてどうして、反対に馬鹿に陽気な土地柄で、久々に生身の人間に触れた喜びさえ感じる。とにもかくにも、ガンガーの悠久の流れの中の静寂の民族と同じ民族とはどうしても考えがたい。
赤茶けた大地に、薄汚れたバラックが軒を並べ、砂埃のその前をやせ衰え、薄汚れた牛や人が蠢いているのだ。凄い臭気、どぶ河から漂ってくるのか、何処えいってもついて離れない。コリアンダーなんかの上品なニホイでない。やはり腐敗臭なのだ、窒息しそうだが、これがインドのニホイかも知れない。タイや東南アジアの他の国でも経験されないインドのニホイがある。
泥土と黴臭い少し酸っぱいにほいが鼻をつく。ニホイは生ゴミの腐臭なのだ。道の真ん中に、あるいは民家の軒先に、真っ黒く小山をなしている。人が近づいても、黒いまま、なんと図々しいカラスども。インドのカラスは人や犬を恐れないのだ。カラスを追い払う気力もない、ほんとに無機質な、そこにはただ怠惰の瞬間だけが存在する。インドのニホイはホントに何処までもついてくる。細い路地、前から道一杯に、巨大な大きな神様がやってくる。この神様も、暑さには勝てないのか、ひぃひぃと喘息のような、荒い呼吸をしてござる。痩せ衰えた神様、道の真ん中に大きな落とし物をしても平気のへいざ、世間体なんか構ったものでない。この大きな落とし物、貴重な燃料となり、日干し煉瓦や建築資材となる、大切な神の恵みなのだ。路地の影射すところに、ひとりの老人が寝ている。10数間分も見ているのに、ただじっとしたまま、身動き一つしない。そういえば昨日もまったくおなじところに寝ていた。もうすでに天国に行っているのかも知れない。みんなが無関心、近所の子供達だけが無邪気に遊び回っている。雨が降らない、土埃だらけ、両手両足は泥でまっくろけ、でもその瞳は真っ黒、透き通ってなんの濁りもない。こども達の目は何故こんなにまで綺麗なのだろう。それに反して大人の目は赤走り、充血し濁って、汚い。こども達は、何故結膜炎も起こさないのだろうか。
人間の欲望と享楽の果てに行き着いた怠惰な妖艶さで充満して、喧噪と厭世をない交ぜにした様なこの街の奥底には、人の陰部に巣くった、決して光の届かない、得体の知れない情念が渦を巻き蠢いていた。サダルストリート周辺には、昼間から目の焦点の定まらない、うつろな目をした日本人の若者がたむろしている。旅をして、ここまでやってきたのだ。あこがれのインド、おそらく旅にでてからもう何カ月も、いや数年も経っているかも知れない。もうとっくに沈没だ。誰が見てもそのように理解せざるを得ない。もったいない、まだ若いのに、ハッシシは確実に躯を蝕んでいくものを。ある日、はっと気付くだろう。今の現状をはっきりと理解するだろう。
街を歩いてまず気付いたのは、昼間からぶらぶらしている男が多いことだ。彼らは定職のない、失業者の群なのだ。失職者ではない、初めから職がないのだ。逆に女は殆どみかけない。女はヒンズーの教えに忠実なのだろうか。一歩でもホテルを出ると、多くの上半身裸のやつらが、どこからか寄ってきて声をかけてくる。骨の随まで腐臭を染み込ませ、したたかで、悲惨な、汗くさいやつらが、見慣れぬ異邦人に群がってくる。嬉々として握手を求めながら。彼らは、まず始め観光に案内するといい、つづいて、みんな「ハッシシ」「ガンジ」「ゲジゲジ」は要らないかと問う。これに手を出す、日本人の自称旅の達人も多く見られる。リキシャワーラーとのいざこざ、これも日常茶飯事の儀式の一つだ。蜃気楼のように、揺らぐ原色のサリーを纏った女、老いも若きもすべてモノパターンだ。足下は素足のまま、しっかりと大地を踏みしめている。蒼天につきでた椰子、椰子の木々、強烈な炎を振りまくブーゲンビリア、道路のあちこちに見られる水たまりだけがスコールの跡を残している。
なにが神秘の国インドなのだ。生も死も、美も醜も、歓びも哀しみも、人も牛も、天も地も、全てが渾然一体となって燃え上がり、たしかな手触りを与えて、全てここにある。自然の神秘、信仰の神々の神秘、それだけでは止まらない。打ちのめされ、負け続け、抗いようもなく膝を折られながらもなほ人を魅了して止まない不思議さこそが、最大の神秘なのだ。
どうやら旅することは、最高であり、最低であり、楽しく、辛く、美しく、醜く、面白く、悲惨であり、ただ「つまらない」とだけ表現しえないもののようである。よくもまあ、インドの大地にのめり込んだものだ。何故かはわからない。ヒンズーの修行者じゃないが、もっと低い次元の問題だ。ただただ、怠惰だけがそうさせているのではないか。ここにはなんの哲学も存在しない。手足を自由に伸ばしえる空間、気の向くまま、なんの計画もなく、自由奔放に振る舞える、ガンガーの流れが必要なのだ。インドにはまり沈没するのは、やはり妖しいインドの魔力、インドにはドラッグがあるからなのではないか。