蘇州寒山寺


 唐の詩人張継の「楓橋夜泊」に詠まれた寺で、この寺の鐘は日本から寄贈されたもの(?)で除夜の鐘としても有名なった。この寺の除夜の鐘を聞くと10年若返ると言われている。毎年12月31日になると日本人観光客で寺はあふれるようだ。

寺暦

梁 天藍 502−519年創建   妙利普院塔院
唐 約200年後寒山寺と称する       
元 末期 戦火により消失
明 洪武 1369年 恵貞 が再建  
々    火災により焼失
々    正統年間  王況鐘が再建(1436−49)
々    嘉靖年間(1522−66)本寂禅師鐘を鋳造
清 万歴 1618年  焼失
  康煕 1711年  焼失
々 成豊 1860年  焼失
々 光緒 1906年  程徳全により重建この寺が現在の寒山寺であり 鐘は(三代目)
現代   1986年   第四代目の鐘完成 

                制作:民豊鍋廠
                高さ:2.25m
                周囲:1.5m
                重量:2.5トン
                この鐘は鐘造りの名人「李吉人」が北京の「大鐘寺」の資料により昔の姿を出来るだけ再現した物だそうだ。(人民日報)

張継の「楓橋夜泊」

 月が落ちて鳥が鳴いている。月が落ちてから、なぜ鳥が鳴き出すのか良く判らないが、普通一般には、日の出前の鳥達のざわめきを言っているのだろうか。月が鳥啼山に沈みと言う説もあるが。寒山寺の付近には山は12キロ四方になく、一番近い霊岩山でも12キロ離れており学説的にも「月は烏啼山に落ち」と言う解釈には無理が有り、やはり素直に「月落ち烏啼いて」と解釈するのが妥当だと言う説が圧倒的におおくなってきたようだ。

拓本について

 張継の詩は元来明代の名筆家「文徴明」の詩碑を使ったが摩耗してしまい現在のものは清末期の文学者「愈曲園」の碑文だそうであるが、実際には、またその模刻碑(石あるいは木製)の拓本が用いられているという。みなさんお持ちの拓本をじっくりと鑑賞してください。字の列びが大変乱れていますね。元々こんな状態で、綺麗に並んだ詩文は沢山ある模刻碑からとられたものかも知れませんよ。あなたのお持ちのこの有名な拓本は本物(原碑から採拓)かどうか、お判りでしょうか。(さらに最近では印刷のコピー商品が出回っています。お気をつけあそばせ。) 

寒山寺の鐘

 嘉靖年間1522−1566年に本寂禅師により鋳造されたのが最初ですが、寒山寺は1618年、1711年、1860年に消失しており、明朝の本寂禅師の鐘も 寒山寺誌によると「倭に遇い、変銷して砲となす」(二代目の鐘は「寒山寺誌」にて「倭に遭い変銷して砲となる」という記述がある)とあり日本人により持ち出されたと言う説が強い。一説によると、日本の下関港に陸揚げされた後行方不明であるという話がある。真偽の程は分からないが、明治の人は責任を感じたのか、寒山寺には伊藤博文公の寄贈による2.5t程の鐘がある。寒山寺の鐘は昔日本が盗み日本に持ち帰ったという話があり日本も当惑していましたが伊藤博文がこれを聞き非常に心配し部下の田中なる人に探させた。しかし見付からず代わりに小さな鐘を作り寄付しました。寄付された鐘は、つい最近までガラスのケースに入れ飾ってありました。この鐘(青銅(女乃)頭鐘)には以下のような文章が鋳込まれていた。

      姑蘇寒山寺、歴劫年久、唐時鐘声、空於張継詩中伝耳。嘗聞寺鐘転入我邦、今失所在、山田寒山捜索尽力、而遂不能得焉。乃将新鋳一鐘齋往懸之。(伊藤博文)

と言う資料もあるが、こじんまりとしたもので、けっしておおきなものではない。音の音色は澄んで荘厳さがあり、余韻が素晴らしいと言われてている。俗に女房のオッパイとも言われている。今ある鐘は北京の大鐘寺の鐘を参考に1986年に李吉人により作成されたものである。 

この写真をみても判るように、文字の配列は決して綺麗じゃない。上下左右不揃いである(清朝愈曲園の作)。最近おみやげ物としてこの拓本が有名であるが、元拓は少ないようだ。拓本をとるため別の木製の元字を作りそこから採拓しているようで、字の配列も奇麗なものとなっているようだ。一応落款は押印されているが、真贋は難しい。

  月落鳥啼霜満天            
  江楓漁火対愁眠          
  姑蘇城外寒山寺   
  夜半鐘声至客船  張継
           

 寒山拾得もこの寺に遊んだ。
 寒山拾得(森鴎外)


 寒山(文殊菩薩)
 拾得(普賢菩薩)だと言う説もあるが詳細は不明である。


静かな運河と橋と船の調和した景色がよかった。こういう景色は高いところから、見おろしてこそ風景の調和が得られるようで、水面と同じレベルまで視点を落としてみるものではないようだ。最近では運河運行の観光船が日本人観光客に人気を博しているが、どぶ川は臭気が充満しており河畔の景色も非衛生的でほめられたものではないようだ。
蘇州と言えば色々の名橋が市内に多い所ですが、この「楓橋」すぐ傍にある「江村橋」と間違えている人が多いようだ。ガイドさんまで 間違えていることがあるそうですので注意しましょう。蘇州の「橋」は世界的にも有名なものです。蘇州の河は「三横四直」と言われ、縦に四本、横に三本、が基本的な型ですが橋の数は唐の詩人白居易は「紅欄390橋」と詠みました。宋の楊備は「橋400」南宋「平江図」には359橋が登録されている。宋時代の1055年には一年間に52橋の橋を建設したことが残されている。宋時代以前は「木橋」が多かったのですがこれ以降「石橋」が増え た。さて、現在の「楓橋」「江村橋」共に単孔アーチ橋ですが、初代の建設年代は明確ではありません。現存するのは清時代の同冶年間1862年頃に再建された物です。しかしこの橋は特徴がありますこの橋の片側は「鉄嶺関」と言う「関門」に接しておりこの関門は明時代1557年に建設されたもので当時楓橋一帯は商業の栄えた場所で同時に倭寇の来襲が多かったのでその関門と兼ねたものとかんがえられている。
 



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