廬山紀行
廬山は「書経」「史記」にも登場する古い歴史のある名山なのだ。道教、仏教、儒教にゆかりのある山であると共に昔より文人墨客を魅了した詩歌の元卿でもあるのだ。白居易(白楽天)の「香炉峰(北峰)の雪は簾を撥げて看るもの」といったのはわが国「枕草子」の簾を挙げて云々の手本となったものという。
花径は如琴湖に沿った散歩道で小さな公園だった。。湖、曲橋、亭、築山でそれらが一体となって心安まる風景をなしている。818年、白居易が廬山のこの花径を訪れる。山麓の桃は季節が終わって散っているのにここでは満開であった。それを、こう次のように詠ずる。
「人間(じんかん)四月、芳菲尽き、山寺の桃花始めて盛開す」。(花径・人間の4月云々)
廬山は世界遺産に指定されているが、自然遺産ではなく文化遺産として登録されている。自然の景観よりも、武漢の租界地に住んだ外人の別荘・公館、国民党時代の別荘(蒋介石・宋美麗等)、共産党(毛沢東・周恩来等別荘あとが見られる)の重要な会議が開かれた建物等が評価されている。ひらとう言えば六甲山であり、高野山の様でもあり日光のようでもある。
廬山は302平方キロに渡って広がる山岳地帯で、主峰の大漢陽峰は1474m、名だたる峰だけでも171にもなるという。その山々の間を滝と川が流れ、うっそうとした緑が彩りを加え、北の長江と南のハン(ボーヤン湖)陽湖がアクセントを付けている。ハン陽湖から立ち上る霧が美しさを更に増すと言われているが、今回は雲と霞でほとんど何も見えなかった。廬山には神仙伝説があるために、古くから宗教道場としても栄え、南部の仏教・道教の拠点ともなり、最盛期には600もの寺院が建立された。また陶淵明、李白、白居易、蘇東坡、陸游等の、名だたる文人もここを訪れ詩を残している。
1885年以降、日本を含めた20ヶ国以上の外人の別荘・公館が作られた。ロマネスク、ビザンチン、イスラム、日本など様々な様式の建物が牡嶺地域に集中している。また国民党時代に蒋介石と宋美麗が夏を過ごした別荘(美廬別荘)があり、共産党の時代になってからも毛沢東・江青も何度か使用している。その他、廬山会議(呉越同舟)が行われた建物等、数多くの共産党の歴史を語る史蹟がある。周囲に奇峰怪石のそびえる断崖絶壁と、数々の瀑布群が流れ落ちる深い峡谷を巡らし、「匡廬奇秀甲天下」と讃えられてきた。
古くは中国の神話時代、長江の治水に功績のあった禹が、山上から長江を眺め、水利工事の案を練ったという。また、秦の始皇帝も登山したとの伝説(黄山には歴代のどの皇帝も登山していない)があり、以来、多くの文人、名士が廬山を訪れて自然の美しさを讃えた。東晋の詩人陶淵明は「帰りなん、いざ田園へ」と詠んで廬山の麓で暮らし、唐代の李白、白居易、宋代の蘇軾なども廬山を詩文に詠んだ。
また、廬山は中国南部の重要な仏教聖地でもあり、最盛期には山中に300を数える寺廟があり、1万人以上の僧侶が暮らしていたといわれる。特に東林寺は浄土宗仏教の発祥の地で、鑑真和上も修行を行い、日本仏教にも大きな影響を与えた。近代に入ると、夏でも平均気温が20℃前後という廬山の気候に注目した外国人が競って別荘を建設し、山上にヨーロッパ風の街並みを造り上げた。やがて、南京国民政府が成立すると、蒋介石ら国民党要人も別荘を構え、南京の酷暑を避けた「夏の首都」とまで呼ばれるようになった。共産党政権も有名な廬山会議を開くなど、政治史上も重要な場所である。
廬山は世界遺産に指定されているが、自然遺産ではなく文化遺産として登録されている。自然の景観よりも、武漢の租界地に住んだ外人の別荘・公館、国民党時代の別荘、共産党の重要な会議が開かれた建物等が評価されている。廬山は302平方キロに渡って広がる山岳地帯で、主峰の大漢陽峰は1474m、名だたる峰だけでも171にもなる。その山々の間を滝と川が流れ、うっそうとした緑が彩りを加え、北の長江と南のハン陽湖がアクセントを付けている。霧(ハン陽湖から立ち上る)が美しさを更に増すと言われているが、今回は霧でほとんど何も見えなかった。廬山には神仙伝説があるために、古くから宗教道場としても栄え、南部の仏教・道教の拠点ともなり、最盛期には600もの寺院が建立された。また陶淵明、李白、白居易、蘇東坡、陸游等の、名だたる文人もここを訪れ詩を残している。
1885年以降、日本を含めた20ヶ国以上の外人の別荘・公館が作られた。ロマネスク、ビザンチン、イスラム、日本など様々な様式の建物が牡嶺地域に集中している。また国民党時代に蒋介石と宋美麗が夏を過ごした別荘(美廬別荘)があり、共産党の時代になってからも毛沢東・江青も何度か使用している。その他、廬山会議が行われた建物等、数多くの共産党の歴史を語る史蹟がある。
今回は、花経・天橋〜錦繍谷、含ハン口、大天池、望江亭、美廬、白鹿書院、五岳と観光したが、天気が良すぎて(霞んでハッキリと見ることが出来なかった)、廬山の良さを味わうことは出来なかった。やはり霧雲・雲海・風景(岸壁)等と3者が揃わねばなるまい。匡廬(開先瀑布)の李白の滝(落差900m以上あるといわれる)もハッキリとは見えたがネズミの小便の如くちょろちょろしたものだった。廬山を食するとよく書かれているのが三石料理。これは石鶏→石カエル、石耳→イワタケ、石魚→じゃこのような小魚を指している。犬肉のカライ鍋料理も出たが初めなんの肉かわからずタラフク食べてしまった。またここでとれるお茶も有名だ。霧がよくかかるので味がいいらしい。でも実際は値段ばかり高くてそんなに美味しい緑茶ではなかった。
白居易(白楽天)の詩「香爐峰の雪」
日高く眠りたりて、なお、起きるにものうし
小閣にしとねを重ねて、寒さをおそれず
遺愛寺の鐘を枕をそばだてて聴き
香爐峰の雪を簾をかかげて看る
匡盧はすなわちこれ、名を逃るるの地
司馬なお老いを送るに官たり
心やすく身やすきは、これ、帰するところ
故郷なんぞひとり長安にのみあらんや
(匡盧とは盧山のこと)
古くは匡山、或いは匡盧と言う。伝説では、殷周時代、匡と姓の兄弟がここに盧を結んだことからその名が付いたという。
古来景勝の地として知られ、「匡盧の奇秀、天下に甲たり」などと称えられてきたが、我が国にも平安時代より、白楽天の詩などを通じてその名を知られていた。
白楽天は、江州(今の九江)に司馬として赴任してくる。左遷である。817年のこと。彼は無聊を紛らわすために盧山の香爐峰の麓に草堂をつくり、こんな詩を壁に書いた。
『枕草子』の「雪のいと高う降りたるを」と始まる一文は、この詩を題材にしている。中宮の「香爐峰の雪は?」との問いかけに対し、清少納言がすかさず簾をまきあげて人々を驚かせたという話。
白居易の詩がいかに読まれていたか、そして、「香爐峰の雪」が当時の貴族の常識中の常識であったことが知れる。景勝地としてのみならず、宗教の修行の道場としても盧山は中国の人に尊ばれてきた。東林寺は中国浄土宗の発祥の地であり、道教八仙人のひとり呂洞賓が修行し悟りを開いたとつたえられる仙人洞も盧山山中にある。
他に「大林寺桃花」という詩を書き、すでに麓では散ってしまった桃の花が此処では満開だと感傷に浸っている(花径)。
李白の詩「望廬山瀑布]
日照香炉生紫烟
遥看瀑布挂長川
飛流直下三千尺
疑是銀河落九天
李白が廬山で詠んだ詩がある。題して「廬山瀑布を望む」。「飛流直下三千尺、疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと」。九天とは天の一番の高みをいう。豪快なものだ。その滝がみたくて廬山に行ってきた。時は12月、たまたま寒波襲来、今が年中で一番の渇水期なのだった。
五岳のしたから、その滝を横切るようにロープウェイが掛けられている。このロープウェイ(約20分)は楽しい。どんどんどんどん滝に向かって昇ってゆく。遠くに見えていた滝が、手に届く感じのところまで来ると、中継駅があり途中下車ができる。そこから見上げる滝は、本当に山の天辺から落ちてくるようだ。なるほど「飛流直下三千尺」なのだ。それにしても次の一句は凄い。「疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと」。どこをどうひねればこんな言葉が出てくるのか。今更ながら驚くばかりだ。「滝も凄いけど、李白はもっと凄い」。しかし如何せんの渇水期だ。ネズミの小便の太さの大滝が900m直下まで見通し効いているが、そう思いながら、ふと振り返って、アッと息を呑んだ。上にばかり気を取られていたが、足下にはハ陽湖がワッと広がっている。中国第二の湖、面積は琵琶湖の六倍という広大なものだ。
そうなんだ、滝がひとつあるだけではない。ハン陽湖の渺茫、湖の寒気の中立ち上る霧と平野にひとり立つ廬山ならではの大パノラマ。それらを背景に、滝が一筋白く落ちてくる。そうでなければ、あのような宇宙的なスケールのひらめきは浮ばなかったのではないか。彼我を隔てる千年の時をこえ、廬山と李白の詩魂とが共振するのを感じた。李白も凄いが廬山も凄ごかった。
中国南部の江西省にある廬山は、景色がとてもよく、昔から多くの美しい伝説がある。
廬山は中国南部の江西省の北部に位置しており、古くから「雄、奇、険、秀」という四文字の形容で名を知られている。そして無数の文人が廬山にきては、文化芸術的な創作をおこない、廬山を中国の田園詩と山水詩の生まれる地、及び山水画の発祥地とした。西暦八世紀に生きた唐代の詩人李白も廬山の滝を描き、「日は香炉を照らして 紫煙を生ず遥かに看る 瀑布の長川を挂くるを。飛流 直下 三千尺、疑うらくは是れ 銀河の九天より落つるかと」という名句を残している。また宋代(960〜1127)の著名な文学家である蘇軾も数回廬山を訪ね、「横より看れば嶺を成し 側よりは峰と成る、遠近高低一も同じきは無し。廬山の真面目を識らざるは、只だ身の此の山中に在るに縁る」という哲理的な詩《題西林壁》を作り、廬山を借りて人生の哲理を伝え、同時に廬山に寄せる人々の心を一層深めたのである。
廬山はまたは「匡廬」、「匡山」ともいう。伝説によれば紀元前四世紀頃の周の時代、匡俗という人が、廬山で仙術を研究していることを周の天子が知り、何回も使者を遣って彼に出馬を勧めたが、匡俗は山に隠居し、何度も来た使者に会うことすらしなかった。やがて、匡俗がいなくなったので、彼は仙人になったと人々は思い、匡俗が仙術を求めた場所を「神の廬」と呼び、その山は「廬山」を名づけられ、また「匡山」、「匡廬」という名も付いたということである。
西暦381年の東晋の時代に、慧遠法師は弟子を率いて廬山に来て、江州刺史の援助の下に東林寺を建て、それを仏教の聖地である浄土宗(古代インドの大乗仏教の主な派別の一つ)の発祥地とし、またここは中国南方の仏教の中心的道場となった。慧遠は36年間廬山で住職として活動を行い、彼は戒律を厳しく保り、道術も高いことから、世間に深く慕われていた。
東林寺と慧遠に関しては、多くの仏門伝説がいまだに残されている。それによると、東林寺建立に当たって、建築材料が不足していたため、慧遠は毎日頭を抱えていたが、ある日の夜、空には雷が鳴り響き、大雨が降り出し、和尚たちはすべて部屋の中に閉じ込められ、外出することができなかった。そして翌日の朝、雨は止んで空は晴れわたり、平坦な地面に池ができ、その水面にはたくさんの木材が浮いていたのだ。これをみた慧遠は、これら木材は神が東林寺のために運んできたと考え、これら木材を使って大きな仏殿を建てさせ、その仏殿を「神運殿」と命名し、またこれら木材を浮かせた池を、「出木池」と呼んだ。(虎渓三笑)
東林寺の前には白蓮の池がある。池の水は澄み切り、緑の葉が白い蓮をのせている様は、とても奥深く静かな感じを与える。伝説では、この池は東晋の名士である謝霊遠が掘ったものとある。謝霊遠は東晋の著名な政治家の謝玄の曾孫で、著名な書道家王羲之の姪であり、華々しい才能を持ちながら傲慢であったようだ。彼は廬山にやってきて、慧遠の造った白蓮社への入社を要求したが、慧遠はそれに応じず、「そなたの心には雑念があり故、三つの蓮池を掘って、自分の心が蓮の花のように清らかになったときには、入社を許可しよう」と言った。謝霊遠も、仕方なくは言われたとおりに三つの蓮池を掘った後、やっと白蓮社に入れてもらえたのである。その後慧遠と謝霊遠の二人の間には深い友情が生まれた。慧遠が亡くなった後、これを心か悲しんだ謝霊遠は、わざわざ建康(現在の南京)から廬山へ行き、慧遠のために墓を立てたのである。
廬山は悠久な人文的伝統をもつほか、その景色は美しく、中国の著名な観光地でもある。
江西省の北端にある。北に長江、東にハ陽湖に臨み、北には長江。山筋は北東から南西に走り、長さ25キロ、幅10キロ。最高峰は漢陽峰で海抜1474メートル。その他、五老山、香炉峰などの峰がある。
また、近世以降は長江沿いの九江から遠くないこと、夏も涼しいことなどから外国人により多くの別荘が建てられてきた。その数は1600軒という。
<白鹿洞書院>(はくろくどうしょいん)
盧山のの五老峰の麓にある。宋代の有名な書院のひとつ。もともとは、唐の時代、李渤・李渉の兄弟がここに隠棲していた。李渤は鹿を飼っていたので白鹿先生と呼ぱれていた。それが書院の名の由来である。
顔真卿の孫の顔翠が洞内で学を講じたりしていたが、宋代初期に拡張され書院となった。石鼓書院や岳麓書院とともに四大書院といわれた。のちに戦火せで焼失。朱熹が南康軍(現在の星子)の知事となった時にこの書院を復興させたが、その後も荒廃を繰り返し、現在のものは、清代の再建。
<景徳鎮>
瓷都という。中国最大の陶磁器の産地であり集散地。。
景徳鎮における陶磁器製造の歴史は古く、後漢時代に遡る。東晋時代に新平鎮と称したが、宋代の景徳年間に、御用窯で製作された陶磁器の裏に「景徳年制」の文字を入れさせたことから、やがて年号から地名をとり、景徳鎮となる。明代は、宮廷の御用達品をつくる「御器廠」とよばれる官窯が設置され、磁器生産の最盛期をむかえる。
景徳鎮の陶磁器の代表は「青花」と呼ばれる、酸化コバルトの顔料で絵付けした陶磁器で、元代に景徳鎮窯で完成された。青の染め付けは、元来、イスラム圏への輸出用として作られ、大量の磁器が外国に輸出された。
景徳鎮のお陶磁器の特徴は、「白きこと玉のごとし、明るきこと鏡のごとし、薄きこと紙のごとし」、といわれる。高い技術水準をほこり、日本の有田焼にも影響をあたえている。
陶磁器の工場は大小合わせ五千箇所。全人口40万人のうち陶磁器に関わる仕事をしている人が6万人いる。