ピマイ、バノム・ルン(タイ)とアンコール(カンボジア)


 ピマイ、バノム・ルンの遺跡はタイ東北部にあって、クメール王朝時代のものだ。カンボジアのアンコールの遺跡とあまりにも似かよいすぎる。全くそのコピーだと断言しても過言ではないようだが、こちらの方がワット遺跡より古いものだ。。ピマイとバノム・ルンとを線で結ぶと、その延長線上にアンコール・ワットの遺跡が存在するという。はたして偶然の一致だろうか。

 当時、タイのこれらの地域は、クメール王朝の支配下にあり、王はその精力の誇示のため、支配の果て果てにこうした寺院や神殿を建設したようだ。中世日本のお城の出城のようなものである。5.4kmのスクエアーよりなるワットの遺跡は巨大すぎて何をかいわんである。地上の楽園(巡礼地)であり、かつ、王の墓でもあるこのワット建設には25、000人の人夫でもって30年を要すという。勿論、当時は寺院は王の住処であり、同時に神と接する、厳かな場所でもあったわけである。迫り出し工法といい、砂岩ラテライトの使用といい全く同一だ。しかも、そのうえ、基本的構造も同じものだ(ベン・メリア寺院)と云わざるをえない。同一様式で建てられていた。かつ、建物になされている彫刻類も同一傾向だった。

 結局、カンボジアからタイにかけてのこの地域は、同一のカンボジアのアンコール王朝の支配地であり、その権力は巨大なものであったようだ。ピマーイの博物館にこれらのことを証拠立てる、出土品や彫刻、レリーフが沢山残されていた。海路貿易によって財を蓄え、インドの文化を吸収していった。ヒンズウの思想になるプノン・クーレン(ヒマラヤ・シュミ山)、シェムリアップ河(ガンジス河)、聖なる都・神殿の構成は、インドより、その思想がもたらされたものである。 

 アプサラは文字どおり踊女で、歌と踊りで神に仕えていた。各寺院では数千人の僧侶や千人を超すアプサラという巫女のような女を抱えていたようだ。勿論寺院は信仰、修業の場には違いないが、こうしたアプサラ達は神に仕えるばかりでなく、巡礼で訪れる善男善女にもお相手していたようだ。神と接することの出来るアプサラは、また善男をも神の世界へと誘っていたようである。このようにして賑やかな門前町を形成していったが、タイのアユタヤ王朝によって滅ぼされてからはジャングルの中に埋没していったに違いない。

 著名なフランスの作家アンドレ・マルロー(フランス文部大臣)は若い頃は、山師の一員で、当時フランス領であった、これらの地域に、探検を口実に入り込み、遺跡のレリーフ、財宝をあさっていたようだ。彼は、あのパンテアイ・スレイのビバーダを持ち出そうとして逮捕されている。マルローは小説「王道」をものにしたが、泥棒集団の頭領でもあったわけである。フランスなんてもともとこんなものだったのである。

 これらアンコールの王朝は26代つづいたといわれているが、相次ぐ巨大寺院や神殿の建設に、その財力は疲弊してゆき、かつ潅漑事業の失敗も重なり、最後には象を用いたタイ(アユタヤ王朝)の騎象隊によって滅ぼされることになった。



砂漠の美術館敦煌(孔子鳥)
中国旅行の楽しみ
クメールの王
上海蔵宝楼


(文中敬称略)


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