ラオス情勢
【不思議の国 ラオ】
ラオスと言えばメコンで代表される。4500Kmに達するメコン川はそのあいだ1800kmの長き区間ラオスを縦断する。鉄道という輸送機関を持たないラオスはこの河の恩恵にいろんな意味あいで十二分に負うている。社会主義国でありながらブッダを社会の仕組みを中心に据え、社会基盤が寺院を中心とする非社会主義的なところが面白いし、また結構これで調和がとれているのである。国は極めて貧しいが、両極端なバランスのもと巧く保持されている。
【ルアン・パバーンとワット・シェントーン】
パバーンは日本の京都というようにラオの古都である。メコンとナム・カーンとの合流点であるここパバーンは温暖の差が激しく、冬にはしばしば深い朝霧に覆われる。近くに150mのプーシーの丘があり、ここよりの展望は幻想的で素晴らしい。途中プルメリア(国花)に囲まれた階段の道が大変情緒がある。ある日、旅をしていたブッダがこの河の合流点で休んでいた。ブッダは、いつの日かこの場所に豊かに繁栄する町が出来るだろうと予言した。ブッダならずしても、ここの風景には人々を強く引きつけるものがある。
【ピーの巣くうラオ】
ラオのすべてがゆったりと歩む。メコンもそうであり、生活も穏やかであり、ゆったりとした時間が流れる。メコンの流れに身をまかせて初めてラオスを理解し得るようだ。
ラオスにはピーと呼ばれる古代からの精霊信仰が残っている。山と森の国ラオスでは山、河、谷、岩、木、水など全ての自然には、精霊が宿っていると信ぜられている。森羅万象に神々が宿るというのは、日本(神道)、タイ、カンボジア、ミャンマー、中国(雲南)等みな似かよっており、村の入り口、民家の入り口には必ず、悪霊の進入を防ぐため、ピーを祭る祠がある。ここらあたりではびょうきを起こすのも、不幸を招くのも、幸せをもたらすのも、このピーの仕業と考えられている。
不思議の国ラオは社会主義国には違いないが、その町では生活と宗教が無意識のうちに一体化されていた。ある意味では現代における「桃源郷」であるかも知れないし、現実のその「落日の王都」は黄金一色に燦然と光り輝いていた。
【ラオスの近代史】
アジア諸国は、第二次世界大戦後植民地支配から解放されてもなお内戦や貧困等の苦難のなかで低迷していた国が多いが、20世紀後半近くになって韓国、タイ、台湾、シンガポールのように急速に発展・近代化する地域が出てきた。このようにNIESやASEAN諸国の発展はめざましいものが見られるが、他方で東西の対立等諸事情により発展の波に乗りにくい国もあるのはまた事実である。東南アジアでは内陸の小国ラオスがこうした、発展に取り残された、遅れがちな国といえるのではないだろうか。国づくりの根本は、経済発展も大切な要素だがより基本的には人づくりにある、というのは古今東西の歴史が証明してきたとおりである。アジアの一国である日本が、共に歩む未来を考えるには、目下発展困難な国の実状を知ることが必要で、現実を体験しそれなりに客観的な評価を与えることも大切なことである。
フランスは、タイに圧力をかけて1893年10月「フランス−シャム条約」を結ばせ、タイや英国の侵略からルアンプラバン王国を守るという口実で王国から外交権などを獲得したが、フランスにとってより大切だったベトナムの「後方の守り」として利用したに過ぎない。フランスにとって植民地経営の主要な関心はいうまでもなくベトナムにあり、そのため保護国としての地位のまま内政は国王を頂点とする在来の封建的な政治装置に委ねられていた。そこでの支配は、「愚民政策」と「放置主義」の2つを基本とするものである。愚民政策とは、ラオスの国内に教育制度を確立しようとはせずに高等教育はヴェトナムで行わせるというものであった。フランスは原住民の教育を向上させることによって反仏運動が起きることを恐れた。しかも、ヴェトナム・ラオス・カンボジアのフランス領インドシナ全体をあわせ、就学率は、英領ビルマにすら劣る3%にも満たなかったという。もうひとつの放置主義の方は、ラオスの植民地経営にヴェトナム人を登用しラオ人を最下層の労働者として扱うものだった。徳川時代のわが国幕府のやり方と似通ったところがある。鉱山やプランテーションではヴェトナム人が積極的に採用され、また下級官吏にはフランス語とヴェトナム語が必要とされたため、ラオ人が採用されることはほとんどなかった。これらの政策によりフランスはラオ人のための統治をまったく無視した。更にヴェトナム人の移住を進めたことでラオ人の独立をも踏みにじった。また、ラオスの地理的条件である場所ごとの割拠性を利用して、民族を地域的・人種的に分断して統治を行った。これによって民族間の対立が強められていく。更にフランスは、過重な税金や賦役を住民に課した。このような支配体制下では、自然に反仏蜂起が起きる。しかしそれに対してもフランスは、ヴェトナム兵やカンボジア兵をぶつけて更なる民族同士の対立をあおった。こうして他人のフンドシで相撲を取ったフランスのため、ラオ人は、国内のみならず、近隣諸国の民族とも互いに憎み合うようにしむけられていった。ラオスの伝統的な生活様式は失われてゆき、ヴェトナム人やカンボジア人との混血が進んだ。現在でも残されているフランス、フランス人の狡賢さは、此の時代から育まれてきたもので一夕一朝になったものではない。
とはいえ、フランスはラオ人の伝統を踏みにじる政策の一方で、その王権が作り出した文化を保護しようとする一面も持っていた。なによりも、フランスが庇護する王室が支配するラオスという場所が存続し続けることは、フランス自身にとって重要だった。なぜなら、この王室自体が、ラオスにおけるフランスの存在を支えてくれたからである。これが、イギリスの直轄植民地となったビルマと異なる点であった。だが、ルアンプラバンの王宮は、タイなどのものに比べるといかにも質素だ。フランスの保護下で「傀儡の国王」としてしかその権力を保てなかったラオスの王族の姿が、そこに見られる。
【日本軍の侵攻とラオ人民共和国の成立】
第二次世界大戦末期の1945年3月、日本軍はラオスに侵攻した。フランス軍を駆逐し、シー・サヴァン・ウォン国王は全ラオスの独立を宣言、ペサラート政権が発足した。日本はラオスで、ビルマと同じやり方でラオ人に独立を与えたのである。これに対してフランスは、国王を懐柔することによってラオス復帰を目指し、南部から再征服を始めた。これに対しラオス臨時政府が、外務大臣兼軍事総司令官であったスパヌヴォン自ら先頭に立ち、ラーオ・イッサラ軍を率いて抗戦する。しかし敗れ、臨時政府はバンコクに移り亡命政府となる。この亡命政府をよそに、フランスはシー・サヴァン・ウォン国王による王国政府を樹立させた。バンコク急進派のスパヌヴォンらは、ラオス北部のラーオ・イッサラ武装勢力のもとに赴き1950年「ネオ・ラーオ・イッサラ」(ラオス自由戦線)を結成し臨時抗戦政府を樹立した。フランスは、反仏運動によりラオスの維持が困難となった1953年、ついにラオスの植民地支配を断念、独立を与える。そして、1954年ディエンビエンフーでの敗北によりヴェトナムに対する支配も放棄し、旧仏領インドシナに新たな時代が訪れた。
ネオ・ラーオ・イッサラ(ラオス自由戦線)は、ネオ・ラーオ・ハクサート(ラオス愛国戦線)と発展的改編され、これがラオス革命による社会主義化を目指すパテト・ラオの中心となっていったのである。ジュネーヴ協定が結ばれ、ラオスの中立・独立・統一を保証した。ラオスの国土は、山岳部のパテト・ラオ支配地区(「解放区」)と、ルアンプラバン・ビエンチャンなど王党派の支配する領域の2つに、事実上分裂した。この直接の原因は、国内各派の確執や抗争であるが、背後で結びつく外国勢力の支援と干渉が主な原因があった。特にアメリカはフランスに代わって、多額の援助によって王国政府を懐柔してきた。一方パテト・ラオは、北ヴェトナムやソ連に支援されながら解放区の建設を着々と進め、「外国に従属しないラオ人のためのラオ人国家建設」を強く説いいて、王党派勢力が後ろ向きの懐古に浸っている状況の中で、ラオスが自給的な農村経済から資本主義を超えて一足飛びに「歴史の前線」に立ちうるマルクス・レーニン主義を全面的に打ち出していった。1975年にサイゴンが陥落したのを受けてパテト・ラオは一気に勢いづき、政権奪取へと進み、その年の12月、「全国人民代表者会議」で、臨時連合政府及ぴ政治顧問委員会の解体宣言がなされた。ワッタナ王は退位を強いられ、旧王党派の官僚はメコン川を越えて対岸のタイに大挙亡命した。こうして、パテト・ラオを中心とするラオ人民革命党の一党支配による社会主義国、ラオ人民民主共和国が樹立された。
【ラオスの将来】
ベトナムのような解放政策に全面的に移行せざるを得ないし、そのような傾向も窺える。観光客の誘致が板についてきた。まことに結構だ。いつまでも鎖国政策をとり続けるには世の中の情報伝達のシステムが発展しすぎた。ケシ栽培経済からの脱却を国際社会で暖かく援助すべきだ。我ら地球仲間みんな一緒に幸せにならろうではないか。