シリアのダマスカスは旧約聖書の描かれた時代から、引き続き現存する、世界最古の街の一つで、いずれの時代にも指導者がいれかわったり、支配者が変わっても、政治的激変が訪れてもなお、都市国家としての強烈な個性を保持しながら、現在まで歴史から消えるさることなく機能し続けてきた。まさに紀元前2000年の昔から、アラビア半島、メソポタミア、地中海を結ぶ交易の中心として、東の方のシルクロードの西側起点としてその役割を果たしてきた。まさしく激動の歴史の表舞台となってきたのである。
ヨルダンのラフラクからシリアのダラーへと陸路国境を越えた。ヨルダンとシリアとの間の国境は此の一カ所のみ開かれている。ヨルダン側の出入国事務所を越えるとシリア側の事務所まで約10数キロの干渉地帯があり、峠の山道は道路も立派で、平和な、のどかな風景を呈していた。シリアの入国には事前のビザ取得が必要と案内書に記されてたが、1997年12月28日の入国に際してはビザは勿論、EDカードも必要なかった。ただパスポートにスタンプが押されただけで、入国審査は何にもなく税関の検査もまったくなかった。係員やポリさんはやたら愛嬌を振りまき、女の人にはチョッカイをだすし、底抜けに陽気だ。しかし現地の人々の審査や税関の検査は厳しいようで、後先の車はトランクは勿論ボンネットまであけて調べられていた。
国境を越える頃より夕闇が迫ってきた。国境の町の夕暮れはなんともいえない哀愁をともなう。これから約1時間、やがてボスラに着いたが、すっかり夜のとばりに覆われ城壁の全体像は把握しがたかった。しかし部分的にライトアップされた、ローマ劇場はじめ、洞窟のような通路はその規模の大きさといい十二分に圧感されるものである。此のローマ劇場は2000年以上の歴史を持ち、世界最大規模のものらしく、現在でも実際に使用され、音響効果も抜群であると言う。ここでは誇り高きイスラム教ドルーズ派教徒の剣舞と民族音楽で迎えてくれた。
ダマスカスへの道すがらは真の暗闇で、時折道路の中央にハーフェズ・アル・アサド大統領とその子息の大きな写真が掲示され、ライトアップされていた。それ以外バスのヘッドライトに照らし出されるものはほんとに何もない。暗い、とにかく暗い。ただ闇の砂漠の中をバスは走り続ける。そう思っているうちに、前方に光の束が見えだした。だんだん近づいていくとオレンジ色の明かりが間をおいて何十個か集まり、大きな花のような、幾何学的な模様のようなものを形ずくっている。さらに近づいていくと沿道の広場を飾る照明であることがはっきりわかる。それぞれ上に開いた八角錘で表面にアラベスク風の街灯は、闇にうっすらと滲む淡いオレンジ色をしていて、それだけでも不思議な情緒がみられる。そのうえ全体が花のように見える配置も綺麗で、そんな薄明かりの下に、黒いチャドル(ヒジャール)とやはり同じ黒の長衣(アバーヤ)をすっぽりまとった女たちが影のように、二、三人彫刻の像のように佇んでいる、なんともいえない幻想的な風景である。やがて街中に入ってくるとオレンジ色の丸い街灯は、その数を増し、規則正しくならび、おおきな幾何学模様の花をあちこちに咲かせている。といっても、光度は弱いし、全体としても、決して明るいわけでもなく、華やかなものでもない。やみの帳に閉ざされた街は、道路は立派だが、ロータリーの噴水も、緑地帯も、切ない幻のように眺められるだけだ。光は闇の中でこそ、明るさは暗さの中でこそ美しいことが再認識される。此の照明は炎の色であり、ぼんやりしたオレンジ色には郷愁を伴う。闇の中ではことに、その郷愁がつのる。
やがて新市街の中心部にあるシャーム・パレスにはいったが、此のホテルの最上階のレストランからの夜景の眺めもまたすばらしい。不思議な光景だ。カシオン山が丁度街の東側に迫り、その斜面の住宅の明かりが暗黒のバックをもち点々と密集して、一八〇度のパノラマを呈している。香港、ナポリ、ヴェノスアイレスのいわゆる世界の三大夜景とは全然趣が異なる。赤など色とりどりの美しさはない。透明な凍てついた明るさもない。黒のバックなんて、どう表現したらよいのか、とにかく暗闇の中に、点々と無数に浮かび上がっているのだ。灯火どうしのつながりは見られない。ぼんやりと、不規則な調和をもって、まさに幻想的な眺めだ。まるで集団蛍の群生のようだ。こんな風景はいままで見たことがない。闇の世界がほとんどすべてで、その闇のなかに点々と、控えめに、切なく、きれることなく、小さな炎ににた光の点が散りばめられている。なんともいえない寂しさと幻影が上空にたちこめる。世界で一番古いオアシス都市、山の斜面を見ているだけでも、切なくなってくる感じが、すでにダマスカスの印象を不思議なもの、すばらしいものにしはじめている。
ダマスカスの朝は早い。午前4時ともなればアザーンの響きで目をさます。そとはまだ真っ暗だ。カフィーヤや黒いヴェールをかぶった人々がまばらにいきかう。オリエントの真珠と称えられた誇り高き都市に、今日もまた歴史の新たな1ページが加えられていく。
アーケードに覆われたハミディーエ・スークの突き当たりにある、このウマイヤド・モスクは714年に建設され、世界最古の歴史を誇り、イスラム第4の聖地だそうで、女子に対する服装のチェックが非常に厳しい。異教徒は入り口で黒い長いマントのようなフード付きガウンが貸し出され、女子はこれを着て中に入ることになる。たとえ中庭であろうともフードをはずしていれば、すぐに隣の人から注意を受けることになる。肌だけでなく、髪の毛もまたタブーなのだ。何がアッラーの神のご機嫌を損なうのか良く解らない。貸し出されるマントは黒一色であるが、髪が隠れ、素足を出していなければ、たとえば赤色のヤッケにスラックスでも良いようだ。すなわちどんな派手な色であっても、色には拘らないようである。夜間はライトアップされ、エキゾチックな景色をしめしている。
外からは塔と外壁しか見えないが、一歩中に入れば広い美しい中庭が広がり、周囲に連なる柱廊のアーチが面白い。何より目を奪うのは宝物庫とモスク正面壁のモザイクである。ことにモスクの玄関上のモザイクはグリーンや赤、黄、茶色のいろガラスが使われ樹々の多いオアシスの力溢れる風景が描かれている。実際、ほぼ左右対称をなすモザイクの大壁画の両側には、豊かに葉を茂らせた大樹が描かれ、その間に幾つもの背の高い建物が立ち並び、それぞれの家の上にも樹木が生えているので、緑の炎が天に向かって燃え揚がっているようだ。おそらく宮殿と木々をモチーフとしたダマスカスの古代都市をあたかも象徴しているようだ。
此のモスクには3つのミナレートといわれる尖塔があり、それぞれ西の塔、イエスの塔、花嫁の塔と名付けられ、それぞれに伝説が語り告げれている。南東角にあるマドハード・イーサー(イエスの塔)は1759年に建てられ、3塔の中では一番高い。オスマン様式を取り入れられ、イスラムの伝承によればイエスが最後の審判の前、キリスト教に迫害を加える者達と戦うために、此の塔を伝い天から地上に降りてきたという。建立された時期といい、最後の審判の時期といい、矛盾に満ちているが、イスラムではイエスもヨハネも単なる予言者に過ぎない。そういえば大聖堂のなかほどにヨハネの墓がみられた。もともとこの場所にハダテの神が奉られていたが、ローマ時代になるとジュピターの神殿となり、4世紀頃になるとキリスト教会になり予言者で洗礼者のヨハネに奉られるようになった。これが後にウマイヤ朝のワーリド1世によって、長い年月ののち、今日のような立派なモスクとなっていった。初期の時代はイスラムも、キリスト教も渾然としており、じじつ聖堂内はバシリカ様式であるが、コリント様式の円柱もみられ、なおかつステンドグラスも見ることができ教会の名残を留めているし、モスクの建設後も随分長い間キリスト教徒の礼拝もここで行われていたという。
礼拝堂の中に入ってみると印象は一変する。横長のだだぴっろい空間には絨毯が敷き詰められており、天井から、豪華なシャンデリアが幾つもつり下げられている。中央のドームの高さは三七メートルあるとのことで、大変勇壮で、豪華で、きらびやかに色づくダマスクス、白い大理石に覆われた理想都市を演出している。これだけ広い空間なので、此の大きなシャンデリアによっても、部屋中は明るいというほででもない。七色に輝く大シャンデリアのもと、なにか魅力的な薄闇と、その中に集まってくる不思議な群衆が波打って見える。礼拝堂では真ん中は勿論、前方の席は男子専用の場所であり、女子には部屋の隅の後ろ2列のみが充てられている。特別縄張りがされているわけでもないのに、席の区別は厳然となされていた。善男善女、たいがい熱心に、繰り返し繰り返し立ち上がり、あるいは膝間ずいてお祈りしている。何の願いか解らないが、これだけ熱心にお祈りされては神様も無碍にお断りにはならないだろう。イスラム教の原理は神の前では、たとえマホメットであろうとも、どんな予言者であろうとも、人間皆平等というところから出発しているはずなのに、男尊女卑がきびしく守られている。堂内の最前列には教壇のようなものが置かれ、イスラムの指導者が善男(善男善女でない)をまえにしてコーランの教えを説いている(善女は広い堂内の後ろの方に座しているので、説教の話は聞き取れない)。勿論偶像は置かれていないので、みんなが礼拝している堂の壁の向こう側はスークの道で、その他は何にもなかった。
騒音と煤煙と砂塵で覆われた喧噪の街から、博物館の門を入ると以外にも静かな広い庭に出る。庭にはヒッタイト時代や、ヘレニズム時代の石像や石棺などが無造作におかれ、奥の一角に、八世紀ウマイア朝時代の砂漠宮殿の壮大な門が復元され、それがそのまま博物館の入り口と成っている。なるほど立派なものだ。しかし考え方によっては、わざわざこんなところまでもってきて、復元しないで、砂漠の中にあったほうが良いようにも思われる。時代別、場所別に配置されているが規模はそれほど大きくはない。しかし、なにしろシリアは紀元前3000年以来実にいろいろな、様々な文明が生起し交錯してきた国であるから、展示品はすこぶる変化にとんで面白い。シナゴークから、パルミラの地下墳墓、ヘレニズム、ローマ、ヴィザンチン、イスラムと宗教も文化もめぐるましく移り変わり、数千年間をほんの数十分で行き来してしまう感がする。有名なラピス・ラズリと黄金でつくられた「獅子がしらの怪鳥」など目の当たりにして感激の一瞬である。興味のあるものとっては垂涎のほうこであった。何千年前の古いものなのに、つい最近できたアクセサリーのようにそのデザインは大変斬新だった。西アジアの農耕文化は豊穣の「地母神」の像を生んできたが、古代シリアでは、それを抽象的な表現で捉えられている。神像とは思えないようにまでデフォルメされ、幾何学模様の胴部を強調したもの、顔も胸もただの突起に過ぎなくなって単純化の最先端を行くもの、目ばかり強調した土偶のようなものまであり、その眼光の力により悪霊を祓う「邪視」の思想が表現されている。5000年後の、現在でも目の偶像は広く民間に生きつずけている。シリア£札に見られる、アクセサリーや像はほとんど此の博物館で現物を見ることができる。
パルミラ最後の女帝ゼノビアは誇り高き女だった。東のササン朝ペルシャに対抗して勢力をのばしてローマとも直接戦うことになる。彼女はクレオパトラの娘だと自称し、息子を「アウグスト」と呼ばしめていた。ローマ軍に包囲されたパルミラは頑強に抵抗し続けたが、やがてローマのアウレリアヌスによって272年に打ち破られることになった。ローマに捕虜として連れて行かれた彼女は絹の衣を纏い、黄金の鎖に縛られていたという。これでパルミラの繁栄の時代は終えんする。パルミラの遺跡観光には数日を要するだろう。我々は1日半ですべの遺跡、墳墓の谷、アラブ城まで見て回ったが、アラブ城からの落陽がいちばん印象深く、砂漠の中の遺跡の全景と共に、何千年まえの営みに心が馳せた。