天山南路紀行(シルクロード)
【コルラ】
ローランに行く分技点である。ここからいよいよタクマラカンに入ることになる。
【クチャ】
クチャは、仏教東漸と縁が深い。五胡十六国時代の五世紀初頭、仏典を漢訳した高僧・鳩摩羅什の出身地であり、七世紀には、西遊記で知られる唐の玄奘三蔵が、天竺(インド)への旅の途上に立ち寄っている。イスラムの地となった今でも、山麓の水辺には多くの仏教遺跡が点在する。またクチャは天山南路の交通の要衝にあり、市街地より十数キロ離れたスパシ(キジ)古城址は天山の麓、風景のきれいところにある。土地の人の説明によると昔ここ昭怙厘寺には大きな、高さ5Mをこす大仏さんがあったがドイツの探検隊がやってきて首から上をきりとって持ち帰ったという。つづいてやってきた日本人大谷探検隊は、めぼしいものはもうなにも残っていなかったので、この首のない大仏をそっくりそのまま持ち帰ったとのことである。小生も大仏趾でこうべをたれながら小さな陶片一個を旅の記念にと持ち帰った。数千年昔の陶片である。
葡萄の美酒、夜光杯
飲まんと欲すれば、琵琶、馬上に催す
酔うて沙場に臥すも君笑うことなかれ
古来征戦、幾人が回る(王翰の「涼州詩」)
【キジル千仏洞】
キジル千仏洞は、さらにクチャから離れること約60kmで、ムザト河の北岸に東西2kmにわたってあった(クムトラ千仏洞はキジルの手前十数キロ)。キジル千仏洞は、今にも崩れ落ちそうな崖の側面に236窟が確認されているという。洞窟にはいるには、細い長い極度に揺れる梯子を登り、危なっかしい土手のガラバをはいずりまわらなければならなっかたが、いまは立派な階段もできているようだ。敦煌莫高窟についでシルクロードに咲いた仏教美術の名花である。ただ、塑像はイスラム教徒によって破壊され、顔を削り取られた涅槃仏など少数しかないし、かつドイツのル・コックやわが国、大谷探検隊によっても荒らされ、めぼしいものは、もうなにもないが、その八窟の天井には伎芸飛天が抱える五弦の琵琶が残されているのが確認される。わが国正倉院の螺鈿紫檀五弦琵琶と全く同じ形をしている。
すなわち、わがくに、正倉院に伝わる楽器に、螺鈿紫檀五弦琵琶があるが、槽、つまり琵琶の裏側に螺鈿の意匠があり、材は殆ど紫檀で作られている。正倉院御物の西域伝来の楽器のなかでも白眉の逸品であり、通常琵琶は頚が曲がっているが、この五弦の琵琶は頚は真っ直ぐで、四弦に比べてやや小ぶりである。五弦琵琶は唐時代には亀玄玄(きじ)琵琶とも言われていた。
第一第二の弦は索索
秋風松を払い手踈韻落つ
第三第四の弦は冷冷
夜鶴 子を憶いて籠中に鳴く
第五の弦声は最も掩抑す
隴水凍咽して流れ得ず
五弦並び奏す 君 試みに聴け
凄凄 切切 復た錚錚(白楽天)
崩れ落ちそうな洞窟の内部は、青い星座図を思わせる仏教世界だ。まったく深い青―色 、鉱物顔料ながら、おそらく砂漠とは最も縁遠い色が支配する四面の壁、天井に、如来、菩薩、飛天、釈迦仏の前世の物語に登場する動物たちが、交響楽団のようにびっしりと配置されている。破壊された窟にわずかに残る壁画の断片も美しい。ガンダーラ美術を思わせる西洋系の顔立ちの仏が多くみられ、漢化された敦煌と違い、ここは東西文化融合の特色がはっきり出ている。遠い遠い過去の世界が広がる石窟を出ると、まばゆい砂漠の現実の世界に戻る。そこもまた、遠い昔と同じ顔をしている。
【アクス】
ここからホータンの飛ぶ予定だったがホータンではコレラが流行しているとの情報で行けなかった。アクスから陸路直接カシュガルに入ることになった。でも以前にもアクスからホータンに飛ぶ予定がやはり同じコレラの流行とかで中止になったが、これは口実で、この時代ホータンを見せたくない他の理由があったのかもしれない。
【砂漠の味覚】
砂漠での、ハミ瓜は大きく、甘く、冷たく、安かった(約15〜50角/Kg)。二つに割り、豪快に顔を突っ込んで食べた。食べ残しはそこら当たりにそのまま放置しておいたが、風が吹いてまき散らされ、やがて羊達が来て綺麗に掃除してくれると言う。丁度このとき、ホータンでコレラが発生して、この地にはいることが禁止処置がとられていた。ホータン河で大きな緑の玉石を見つけようと張り切っていたのに残念だった。
【旅の経路】上海-西安-ウルムチ-トルファン-コルラ-クチャ-アクス-カシュガル-ウルムチ-北京