シルクロード(楼蘭)紀行 3/15/05〜3/27/05   編纂中(NowUnderConstruction)


楼蘭故城址大仏塔と胡楊樹の大木(住居の柱跡)の写真




Since 7/5/05



 長年夢を見ていた楼蘭故城址を訪れるツアーがあったので参加した。シルクロードは過去数回訪れているので、あまり新鮮味がなかった(今回の旅では4箇所の未開放地区を訪問した)が、憧れのロマンを掻き立てる楼蘭故城址訪問があったのであえて参加した。ツアーはJR西日本の機関紙に掲載されていたが、実際は日本旅行が計画実施したものであった。ツアー参加者は6名(男4人女2人)で他に団長と添乗員各1名づつの計8人のグループだった。団長山田勝久先生はNHKのシルクロード講座を担当し、その道の第一人者であり、その博識と豊かな経験、その方面での知識が、われわれ参加者に深い感銘を与えた。また、この団長(大阪教育大学教授)さん中国人(ウイグル人)の日本への留学斡旋にも、関わっておられるらしく、毎日多忙中にも関わらず留学希望者の面談等、ホントにスタミナのある方のようだった。他にサポート隊として中国側総隊長(地質学者)はじめ、副隊長他隊員3名、それにスルーの通訳兼案内人(中国人6名で全員ウイグルの少数民族)で内一人は医師を兼任していたものもいた(総数14人)。楼蘭には参加しなかったが、トルファンやウルムチの手配や折衝に1人の中国人(歴史学者)もいた。

 楼蘭は普通のシルクロードの旅・旅行ではない。これは探検旅行なのだ。体力も必要であり、何分にも健康でなければならない。タクマラカン砂漠を取り巻く周囲の道も道路事情が良くなり、随分と楽にはなったが、楼蘭となるとまた話は異なり違った意味での困難が伴う。ありきたりのツアーとは違うようだ。医師の先生も同行されていて安心なようだが、この先生、テントでマッサージもやってくれるらしい。いわゆる裸足の医者かもしれないようだ。本隊の隊長さんは地質学者ということだったが、専門的な話をお聞きできなかったのは残念なことだった。如何にもプロレスラーのような、エネルギーの有り余ったような体格の持ち主だった。歴史学者という何さんには約半日、一緒に行動する機会もあったが、その方面の話をお伺い出来なかったのは心残りに違いなかった。

 車は六輪駆動の大型トラックをはじめ四駆のランドクルザー(トヨタ)の3台で構成されていた(敦煌よりトルファンまで)。ランクルは運転手と客3名の計4人の乗車であった。トヨタのランクルは新車と聞いていたがすべて40万キロに達する年代物ばかりであった。でも、砂漠の中では最新のITばかりのコンピュター制御の車では、ものの役にたたないことが立証された。修理の聞かないITより構造が単純な方がよい。
 厳しい砂漠の中の途中、第1号車のランクルのファンが粉々に砕け(ロブノールに入る前 砂漠の第2日目)、ラジエイターに穴が空いたが中国側スタッフは約2時間で修理してしまった。中国人ドライバーの応急処理能力はすばらしい。日本人ドライバーとは桁外れに立派だ。ファンのないランクルはボンネットをはずし(空冷式)、使用には耐えなかったが、どうにか最後までついてきたようだ。途中、場所によっては中国側案内人(保安)がトラックにやってきて(楼蘭故城や楼蘭墳墓)、はみ出した添乗員がわれわれの車にやってきたので5人の乗車になったときは非常に狭く、これで長距離はしんど過ぎると思われた。

 楼蘭をはじめて発見したのは誰だろうか。ヘディン(エルデック)あるいはスタインか。ある日、王国が忽然として砂漠の中に消えた。そんなことほんとかいな、まるでイタリアのボンベイのようではないか。また湖が北から南へ、南から北へとさまよい歩くという(ヘディンの1600年周期説)その王国の名は楼蘭彷徨える湖の名はロプ・ノール(彷徨える湖なんてありえないし、この件に関して次郎の新しい学説を発表する予定)。そんなことホンマかいな。いづれにしても、謎がなぞを呼び、大きなロマンを掻きたてる。

 ロプノールは中央アジアのタクラマカン砂漠に存在する湖で、その位置は一定せず何度も場所を変えるという。その理由としては、砂漠の砂の移動などにより流入する川の流水量や流路が変わることなどがあげられるが、ロプノールは大昔にはオアシスとして、そのすぐ傍にシルクロードの要衝楼蘭が栄えていた。しかし中央アジアにおける覇権争い(匈奴と漢)や、ロプノールの縮小(水がなくなり)し、砂漠に新しいロードが開発された(西域北道・天山南路)などにより楼蘭は滅亡した。その楼蘭を20世紀前半に探検家ヘディン(エルデック)が発掘し、その時ロプノールが位置を変えることを発見したという。30数年後、彼は再訪問によりその事実を確認しているという(ヘディン書さまよえる湖・エルデックとの再開の話等)。

 新華社電によると、中国科学院ロプノール科学調査隊がこのほど現地調査を行ったところ、おおよそ北緯40度50分、東経90度14分の海抜801メートル地点で、約1平方キロ・メートルにわたって湖面が広がっているのがわかった。 ロプノールは長い間、水がかれて完全に干上がった状態にあると伝えられてきたが、これまでに何回も現地を訪れている同調査隊の夏訓誠隊長は「20数年ぶりに湖水を見た」と証言。また、別の専門家はこの現象について「湖が生じたり消えたりするのがロプノールの特徴で、周期的な類似の気候条件下で新たな湖が形成されたものだ」と分析している。 (「さまよえる湖」ロプノール復活、20数年ぶり水戻る 2004/9/8 読売新聞社)(次郎の新学説参照)

 「ロブノール」はタリム盆地にある湖の名前で、「LopあるいはLob」はチベット語で「泥土」を意味し「Nol」はモンゴル語で「湖」という意味だそうだ。19世紀後半以来、スウェーデンのヘディンらによる探査の結果、流れ込む川の河道変遷のため湖は移動するとされ、「さまよえる湖」として有名になった(次郎さんの異説参照)。昔(BC100〜AD400年頃)、湖の西湖畔にシルクロードの要衝として栄え、4世紀の末ごろ突然消えてしまった楼蘭の遺跡があったが、ロプノールが干上がったために衰退してしまったという。現在ではタリム川などの河川流路が取水ダムの影響などで湖まで届かなくなり、完全に干上がっている(塩湖)。オアシスを求めてロプノールにたどり着いた旅人も、干上がった湖を見て驚いたことであろう。

 ロシアの探検家プルジェワルスキーは前後4回に亘りこの地を探索しているが、その2回目の探険で、タクラマカン砂漠をコルラからタリム河に沿って南下した時である。プルジェワルスキーは、タリム河の行き着く先に二つの湖を発見した。カラ・ブランとカラ・コシュンという。そして、タリム河を南下する際に、タリム河から東へ向かう支流を見かけていないことから、カラ・ブランとカラ・コシュンこそが、中国の史書に言うロプノールである、と断じた。すなわち、中国の古い地図に描かれるよりも、実際には、四百キロ南にロプノールはあったのだ、と。これに対して、直ちに、反論を加えたのはドイツの地理学者リヒトホーフェンであった。この人は、「シルクロード(SeidenStrassen)」という言葉を初めて使った人として知られている。つまり、中国人もローマ人もペルシャ人もソクド人も、中国とローマを結ぶ道を「シルクロード」とは呼んでいなかった時代のシルクロードが「シルクロード」になったのは十九世紀後半からである。リヒトホーフェンの反論はこうだ。中国の史書によるとロプノールは塩湖でなければならないのに、しかるに、プルジェワルスキーが発見した湖は淡水湖であった。しかも、古い地図と位置が違いすぎる。詳しく探せば、本当のロプノールがあるのでないか、と。これに対し、プルジェワルスキーもすぐに反駁したのが、世に言うロプノール論争であった。 こうして、ロプノールの位置を巡る議論は、地理学上の大きな論争を呼び起こした。

 プルジェワルスキーは、論争の決着を見ぬまま、1888年、チベットへの探険の途上、イシク・クル湖畔の町、カラクルでチフスに罹り客死してしまった。かれは探険服のまま棺に納められ、イシク・クルの湖畔に埋めて欲しい、と遺言したという。墓は、希望通り、イシク・クルのほとりに建てられた。墓碑には、「内陸アジアの最初の探求者」と刻まれているという。まさに、探険時代の扉を開けた男であった。彼の死後、論争は、弟子のコズロフとリヒトホーフェンの弟子のヘディンに引き継がれてゆくことになる。こうして、不世出の大探検家ヘディンが中央アジアの舞台に姿を現すことになる。日本人でも大谷探検隊(前後4回遠征する)も登場するがほかに深田久弥、長澤和俊等の名前があがってきた。

 現在では、1600年周期説を支持する学者は、おそらくは、いないであろう。ロプノールに水がなくなった原因は別なところに求められている。つまり、単なる川筋(樹枝河)の変更や上流での灌漑用水の使いすぎによるもので、あまりにも現実的だが、それも致し方あるまい。探険の時代が終わったということなのであろう。

 楼蘭に行くための、今の時点で、最も一般的なルートは、コルラから入るか、敦煌から入るか、チャリクリクから米蘭経由入るか、トルファンからはいるか、の四通りである。楼蘭から出るためのルートも、従って、敦煌へ出るか、コルラへ出るか、チャリクリクへ出るか、トルファン(天山越え)へ出るか、四通りである。いづれにしても、ロブの湖心を通り、西の堤より楼蘭に向かうことになる。今回の我われの旅では敦煌から入りトルファンに抜けるコースがとられた。

 1900年3月ここ楼蘭遺跡を発見したのは、スエーデンの探検家スウェン・ヘディン(現地人のエルデック)である。宇宙衛星より撮影したロブノールのさまよえる湖航空写真を見ると、年輪状にて、湖の水が干上がっていった模様がはっきりと伺える。かって日本本土の9倍の広さを誇ったロブノールの湖は、今はすっかり干上がっている。かっては崑崙山脈から豊富な水を供給した孔雀川も今はない。楼蘭とは、この孔雀川河口の三角州に出来た水の都だった。今かろうじてタクラマカン砂漠に流れる天山山脈からのタリム川両岸に生育する胡楊の木も、タマリスクの木も、芦の葉も、ここ砂漠のオアシス楼蘭にはかっては豊富に茂っていた。胡楊の木をくりぬいて作ったカポン船が浮かぶロブノールの湖、ここには人工の入り江、港もあり、楼蘭への交通路もにぎあっていた。漢の時代、楼蘭には、住居区、行政区、寺院区が整然とあり、行政区には三間房と称する倉庫があり、この遺跡からヘディンは数々の遺物を掘り出した。

 しかし、最近楼蘭に3800年前の太陽の墓と称する遺跡が発見され、ここから地中海コーカサス系白色民族のミイラが発見された。かってこんなに遠くまで地中海から多くの人達がやってきて住んだ跡があるという。まだ楼蘭の謎解明はこれからである。ロマンいっぱいのシルクロード西域の都市楼蘭なのだ。漢代の記録によると、最盛期には人口2万人以上を数えたが、外敵の侵入やシルクロード交通路の変更などによって哀え、沙漠の中に埋もれていったようだ。繁栄時期の楼蘭城は周辺に水道(路)縦横、大樹が多く、城中は高級な木造建物が多く、東西のキャラバン隊が集まった、貿易が盛んな場所でもあったという。

 漢書の西域伝によると楼蘭は戸数8157戸、人口1万4100人、兵士の数2912人だったという。玉を産し、 葭葦、タマリスク(紅柳)、胡桐多くて、人は牧畜を行い、水草を逐って生活をしており、ロバを飼い駱駝も多くみられた。戦に巧みなこと若羌の如しであった。陽関を去ること千六百里で長安を去る六千一百里なりという。

  しかしこのような万人人口が有する商業の発達した都市・楼蘭は、活気に満ちていた6世紀以後、歴史上から忽然と姿を消した。楼蘭王国の興亡史は人々に神秘と謎を感じさせ、再び楼蘭が脚光を浴びるのは20世紀の初めで、スウェーデンの探検家スウェンヘディン(エルデック)が偶然にもこの地を探険し、楼蘭を初めとする多くの遺跡を発見、発掘し、この事件は世界中を驚愕させた。

 上に飛鳥なく、下に走獣無しといわれる砂漠地帯(空に飛鳥無く、地上に走獣無し、ただ死人の枯骨を以て道しるべとなすのみ)といわれているが、実際には野生のラクダが生息しており、われわれも実際遭遇した。また、獣(狼やトラ?)にやられたラクダの屍骸も発見したし、天山越えのコルでは大きな鹿の死体も見かけた。天山の山麓(南側)には猟師小屋も見かけたものだ。コガネムシのような昆虫も糞ころがしも確認できた。この枯れ切った砂漠の中にも、結構生き物の痕跡を認めることができた。道も車の轍の痕もしっかり付いており、河床もあり、シュプールを辿って行けばどこかにつけるようだった。しかし、ヤルダンとメサはその姿は変貌し、あるいは茸のようでもあり、島となったり、妖怪であったり自由自在に変化してその姿を留め、全く起伏のない砂漠や集団墓地のように饅頭の小山が無数に存在したり、葦だけがタマリスクだけがその上に生えているといった奇形もあり、よくもまあ自然のなす造型の業をこれでもか、これでもかと見せ付けられた。砂沙漠はますます深く雲母の含んだパウダーで軽く舞いあがり、車をも飲み込んでしまうと言う妖怪の世界でもあった。

 唐の詩人王維はクチャ(庫車)に赴任するとき

     渭城朝雨軽塵潤(渭城の朝雨軽塵を潤し)
     客舎青青柳色新(客舎青青柳色新たなり)
     君勧更尽一杯酒(君に勧更に尽くせ一杯の酒)
     西陽関出故人無(西のかなた陽関出れば故人無らん)

と歌った。唐代でも陽関を出て、砂漠(タクマラカン)に入った者は2度と帰ってこないだろうと、現代では水杯を交わしての出発の思いを込めているのだろう。もともとタクマラカンという意味は一度入ったら二度と出られないという意味だそうだ。古より張騫、甘英、法顕、宋雲、玄奘、悟空、慧超、耶律楚材、長春真人等がここ玉門関(陽関)から熱砂の地獄の砂漠へと旅して行ったのであるが、そのほか商人、遊牧民、兵士、捕虜等が行き来していたに違いないようだ。玄奘三蔵の旅はことに日本人には親しみのあるものだ。玄奘の17年間にも及ぶ旅、インドよりの帰路、再度訪れた高昌国では、もう以前の賑わいが無くツワモノどもの夢の後の廃墟だった。なんと儚いことだったろう。

 楼蘭故城址への道は、ロブノール西提からの、約35Kmが大変で、途中数度のスタッグや悪路に泣かされ、この間7〜8時間を要した。途中我われの車2台はスタッグを起こし、他の車と連絡が取れず、一時はビバークも覚悟したほどだった。枯れた胡桐樹を集め焚き火を始めた時、救援のトラックがやって来た。GPSやトランシーバ・携帯電話等の連絡網が完備されているはずが、われわれ2号車・3号車にはその設備がなく、ホントに往生した。簡易GPSの測定では楼蘭故城址まで10Km足らず、一時は徒歩で連絡しようと提案する者もいた。ヤルダンの間の道は車の轍がハッキリしており、まあ軽い砂の道ということで、人間の足で10数センチぐらい食い込むが方向を見失うということは無いと思った。まるで新雪の上をラッセルして進む如くであった。帰路の天山越えでもわれわれ3号車はグループから外れて、他車は数時間探し回ったとのことで、翌日には捜索の為へリコプーターをチャーターしようと思っていたとのことであった。梧桐溝の天山のコル(1450m)で待つこと数時間、やっと合流できたが、一つ間違えれば事故につながりかねず、落陽の奇麗な割には、峠の風は冷たく、峠から少し先え下った風当たりの少ないところに野営のテントを張った。夕食は午後12時を回っていた。やはり最低限各車の連絡だけの取れる手段(トランシーバー)が欲しかった。結果的には事故もなく満足したものだったが、これは中国側旅行社(新疆中信国際旅行社)の怠慢であり、日本側旅行社(日本旅行)の連絡不十分だった。

 ロブから楼蘭まで約35Kmはヤルダンの中、昔河が流れていたのか、川筋(河床)がはっきりと認識され、巻貝が多数見受けられた。砂漠の道なんてこんなものだろうか。4駆のランクルでもすぐに砂に埋まってしまう。車の轍だけが道筋に違いないが、細かい流沙が車輪を空回りさせ、4駆輪のタイヤをスリップさせ、進まない。押そうが引こうが、車輪が砂にめりこんでしまう。アリ地獄のようにもがけばもがくほど深みに嵌ってしまう。激しい起伏で、車の振動が激しく、頭を天井に打ち付けるや窓ガラスにぶち当たるや、それこそ大変だった。帽子(スキー帽)のなかにタオルを入れて頭蓋内出血の予防にせいを出さねばならないし、瘤の数は数えきれない。ランクルの車内もち手(つり革)にしがみついているのが、せい一杯で両手とも豆だらけで、水泡が綺麗に何重にも何列にも出来ていた。ホントに凄いの一言に尽きるようだ。今年平山郁夫先生が3度目の楼蘭に行かれるようだが、やはり前2回と同様、ヘリを利用されるに違いないようだ。ご老体ではこのような陸路の訪問は無理だろう。

幻の都「楼蘭故城」への旅
シルクロードに悠久の夢と浪漫を馳せて
楼蘭遺跡保護法制定
団員名簿(名単)



旅の栞】

関空出発

3/15/05 10.30 KIX−北京 JAL785
      12.35 北京着
      14.10 北京発
      16.00 西安着 西の城門観光

 西の城門(西安)

 此処からシルクロードの旅が始まった。いわば、長安の都の出発点だ(現在ではローマ(あるいはイスタンブール)から日本の奈良までをシルクロードという説もある)。西安では西の城門安定門を訪れたが昔の城門と違う(場所が)ようだ。昔の城門あたりには、モチーフが作られ、ありし日の記念碑とされているようだ。


【西安市内】

3/16/05 大雅塔・兵馬俑坑・華清池・陝西歴史博物館

      17.10 西安発 HU7827
      22.35 烏魯木齊市

突然の予定変更でウルムチに飛んだ。本来なら直接敦煌に行く予定だった。お陰で敦煌の観光では楡林窟には行けなかったが烏魯木齊市より敦煌に向かった飛行機が小型機だったので天山のポダゴ峰がマジカに見られた。これも感激の一瞬だった。


【敦煌莫高窟(444・428窟)】(2005年開放予定窟のリスト

この時期、さすが莫高窟も静閑としており、我われ5名(同行者の3人は鳴沙山に登って、頂上にある仏塔を見に行ったが、その1人(団長さん)は保安に捕まったが阿吽の呼吸で助けてもらったという)の他に観光客が数組ほど(いずれも少人数)しかみられなかった。まあ貸切状態だった。敦煌莫高窟芸術館なるところに案内されたが此処は単なる売店(書店)だった。莫高窟には3度目の訪問になったが、砂の広場が整備されまったく以前と違った趣を見せていた。(2005年公開中の窟)

 444窟 吉川小一郎 
 428窟 橘瑞超 サッタ・スターナ太子本生記

 吉川小一郎、橘瑞超の落書きはその存在を確認できませんでしたが、資料館に両氏の落書きの写真が展示されていた。日本人はどこえいっても落書きしよる。カンボジアのアンコールワットでも日本人の墨書による達筆な落書き(2箇所)を見たことがある。

莫高窟見学後鳴砂山によって例の如くラクダに乗り月牙泉を周遊した。全く何回経験しても「月の砂漠」の気分だった。夕食は敦煌賓館で楼蘭故城探検隊中国側スタッフとの合同壮行会が開かれ、各隊員の紹介がなされた。


仏教東漸】


楼蘭古城址】

李柏尺牘稿(328年 楼蘭出土)

 1909年、楼蘭(ローラン)遺跡で、西本願寺中国西域探検隊(大谷探検隊橘瑞超)が、発掘・招来した文書である。李伯尺牘稿は、一般に「李柏文書」と呼ばれている。ここで掲載した李伯尺牘稿は、2通の守備完存した文書の内、文字が全体的に太い方の文書である。李伯尺牘稿は、紙に書かれている。紙の縦の長さは漢代の一尺相当であり、当時の木簡の長さと同じである。書用の紙が発明されてから200年程度経過した時期のものである。瑞超の発見した大切な楼蘭の資料(大谷大学に保存されている)に違いないが、書体等からその真偽に疑問を持つもの<http://kotenshohou.com/bun/rihakumonjyo.htm>もいるようだ。(写真1・2)



3/18/05 敦煌(敦煌賓館)より砂漠に突入する。(砂漠1日目)

 8.13 賓館の前庭にトヨタランクル3台が集合する。いよいよ出発だ。個人の荷物が車の後部座席に3号車の運転手(徐暁龍さん)によって積み込まれた。

 8.20 気温 8℃ 快晴出発。

 8.30 六輪駆動の大型トラックと合流、ガソリンも満タン補給したようだ。舗装した立派な道路を一路楼蘭目指して、玉門関へ向け西の方向に快調にすべり出す。

 9.24 ゲート(玉門関)があり、30元/1人の入場料が必要だった。 道路は舗装した立派なものだ。時速100Kmでここまで来た。

 10.05 玉門関到着。敦煌から約100Kmであった。此処にも立派な柵が設けられており、柵の外側から見学する。日本語の達者なおばちゃんがおり、馬を引いて乗って記念写真(5元)をとって欲しいとのことである。息子も同伴しており、乾し葡萄(5元/Kg以上)も売っていた。このおばちゃんの日本語は独学だそうだが見事なものだった。

      北緯 40°21′12.7″ 東経 93°51′47.8″ 高度 1017m

 10.30 西湖自然保護区関所 60元/人
ガンの群れを見た。おそらく数十羽はいただろう。どこへ向かって飛んで行くのだろうか。

 11.30 甘粛敦煌雅丹国家地質公園(12/2001建立)に到ったが玉門関からここまで87Km。
      ここにもゲートがあり60元/1人でバーが上がる(通行許可)。
      同じ敷地内(広い玉砂利の大きな庭)を100mばかりいくと地学博物館があり、ここから入場料(普通車1台50元・トラック80元)が必要という。敵さんなかなかやるわい。でも此処からのヤルダン(風化土推群)と砂漠の砂のコントラストが幻想的だった。砂(砂漠)の色て、薄く淡い青色で、海の中に島(ヤルダン)がまるで浮かんでいるようだった。

      北緯 40°30′33.7″ 東経 93°14′13.3″ 高度 940m

 12.00 龍城
  これが龍城だった。道に向かって太平洋艦隊が列を作り、今にも上陸しようとしている。ヤルダンは戦艦のようで何列にも、また何重にもつながっている。砂漠は海と全く同一だ。こんな風景は生涯忘れえないものだ。此処から真直ぐに舗装道路が延びていたが、我われは45°右に回った砂漠の中の入っていった(北西方向)。これより先は最終日天山のコルを越えて鉱山会社(一大隊鉱山会社)を超える辺りまでずーと砂漠の中の道(車の轍)だけだった。この舗装された道はいったいどこに通じているのだろうか。方向から考えて、おそらく西域南道(崑崙北路)(米蘭)のほうに通じているようだ。おそらく途中で舗装はなくなっているのだろうが。

 13.27 鉱山があり金を掘っているとのことであった。もの珍しいのか単車に乗って偵察にきよる。近くまで寄ってくるが決して真横にはこない。じっと観察しているようだった。

 13.30 敦煌より253Km、外気温18℃ 昼食 カップ麺・ナン・梨 プロパンガスで強力な炎で大量のお湯を沸かした。中国のカップラーメンは大型で味付けも苦になるものではなかった。(砂漠風景)

 16.15 羅布泊野駱駝国家保護区(生態回復項目区)

      北緯 40°23′55.6″ 東経 92°21′17.1″ 高度 806m

  オアシスがあり水溜りが出来ており周囲には葦やタマリスクが生え駱駝の糞が散乱していた。嘗めてみたが水は塩分が無く、真水のようで生暖かかった。今度のたびで水にで会うのは初めてで最後だった。砂丘やヤルダンの風景はことのほか奇麗だった。砂漠のなか、あの向こうに見える砂丘をこえて、野生のラクダが水を求めて集まってくるのだろう。

 17.00 1号車がスタッグを起こした。トラックに牽引してもらい脱出するも再度のスタッグで、今度は強く引っ張ったらギアがそのまま抜けてしっまったという。ギアが丸ごと抜けてしまうなんて全く初めての経験だ。約1時間の修理でどうにか直ったが、その後約10分ほど走ったところの山(ヤルダン)に囲まれた、広い野原で第1日目の野営をすることになった。付近ではキャンプの跡が散見され、ゴミの集積所のようなものまであった。我われも日ごろから注意せねばなるまい。砂丘の向こうに落ちる夕日がきれいだった。なんともいえない色合いの景色だが、落陽とともに冷えこんでくる。高度800mでの野営だ。キャンプ初日風邪に注意せねばなるまい。午後は休憩もあったが100Km程しか進んでいない。前途多難だ。

      北緯 40°20′10..9″ 東経 92°12′59.6″ 高度 813m  本日走行距離 318Km

  夕食は鶏(2匹)が主食で上手いこと捌きよる。初めから最後まで観察していた。すこし残酷だと思ったが美味しかった。メヌーはチキンの肉ジャガ、味付けもよく全く旨い。ビール2本飲む。

 21.00 就寝(ハルシオン服用)

 23.00 食後カラオケを楽しんでいた連中はテントに帰ってきたようだ。こんなとこまでカラオケとも思うが、次郎以外全員参加していたようだ。それだけカラオケ文化が浸透しているということか。

 3.00 寒い寒い。寒さで目が覚めた。風が少し出ているようだ。放尿(2回目)のためテントを出る。少しビールを飲みすぎたかな。テントの外はミゾレのような雪模様、零下3℃を記録する。寒いはずだ。付近一帯は薄っすらと霜が降りていた。砂漠で霜が降りるなんて珍しいだろう。西に落ちる月がきれいだった。月明かりか白い明るさで、砂漠の夜はシーンと静まりかえっていた。歩く音のみ、サクサクと耳にコダマする。隣のテントの鼾が大きく強く気になって眠れず、うつらうつらで熟睡出来ず。無呼吸発作もあるようだ。病気かどうか解らないが喉に痰を詰めている様で、突然死するやもしれない。はじめ日本人かと思っていたが朝になって中国人と判った。早く医者に行ったほうがよさそうだ。


3/19/05 羅布泊へ(砂漠2日目)

 8.00 起床、外気温2℃、快晴、砂丘の裏側でキジを撃つ。

 8.30 朝食 お粥、炒飯(昨夜の鶏の肉と出汁で作る)、ミルク、ザーサイ。味付けは最高に良い。この調子なら砂漠での食事の心配は要らないようだ。

 10.00 出発 全車調子よさそうだ。砂漠の表面は胡麻粒位の粒子の石砂(礫)で、ソレが1〜2層ありその下が深い深い砂(細かい)の層だ。表面上は硬く、むしろ凸凹道より快適そうだが、止まったり、スピードがゆっくりすぎると、タイヤは砂にめり込んでくる。我われ3号車もスタッグを起こすが全員のサポートで自力で脱出する。

 10.20 三菱パジェロの放置自動車発見。バンバーは外され目ぼしいものは何も残っていなかった。ロブまで直線で156Km(GPS)でさぞかし無念だったに違いない。次の瞬間フロントグラスが真っ白になった。オーバーヒートだ。ラジエイターが突沸して水蒸気がボンネットの間から漏れたのだ。トランクから白煙がでている。ラジエイターに補水する。大丈夫なようだ。(砂漠の砂模様沙模様)

 10.30 またも1号車スタッグする。トラックが迎えにいったが、なかなか帰ってこない。後で聞いた話ではトラックで2〜3度牽引したらしい。でもこれ以上トラックで引っ張るとトラックも砂にめり込んでしまうという。車輪の下の砂をスコップで掘り出し、野営用の毛布を敷いたりと大変だったがやっと脱出に成功したという。約1時間。

 11430 羅布泊野駱駝保護区の中心地区に入る(立看板)。核心区との看板があったが、これはガイドの言うように核実験場の中心という意味でなく、野生動物保護区の中に核心区(中心地区)・実験区・生態回復項目区等があるとのことである。なんとなく聞いておったら、ガイドは、この羅布泊で昔地下核実験が行われその中心地区だという。もう20数年前になりますが、その頃敦煌の穴倉に潜っておった次郎さんは佛窟の中に多数のガイガー計数管が設置されておったのが記憶にある。ガイドの説明もいいかげんなものだ。

 12.20 彭加木遭難碑 1人だけテントから迷い出ていくえ不明となった中国の有名な科学者彭加木の慰霊碑だ。今日のように晴天なら何も問題ないだろうに。気温29℃、ほぼ風速0m。全くのナギだ。半袖でも暑い位だ。花が添えられてあり、こんなところまでと近づいて見ればそれはホンコンフラワーだった。付近には立派な黒曜石の踏査記念碑などが多数見られた。

      北緯 40°12′35.0″ 東経 93°53′26.2″ 高度 811m

 13.30 ヤルダン葦の砂漠、これも忘れえぬ風景だった。1号車またもやトラブル発生。またもやオーバーヒート。向こうの山の麓で此処からもよく見える。でもなかなか手こずっている様だ。迎えにいったトラックに牽引されて戻ってくる。1号車のファン吹っ飛んでいた。ファンの翼は粉々に割れ、ラジエイターに大きな穴が空いた。向こうの山(ヤルダン)すそで、ここから数百メートルか。ヤルダンに上らなくても良く見える。

 14.20 昼食 カップ麺・ナン・大きなりんご ナンと言うより立派なパンだ。直径20cm以上のふっくらと膨らんだ柔らかいものでそれだけでも美味しかった。水もフンダンにあり、配給も十二分で初めの心配事は杞憂だった。

      北緯 40°11′15.4″ 東経 91°46′46.9″ 高度 791m 本日走行距離 51Km

 修理 ラジエイターを外し、穴漏れを修理しようとしている。ファンは粉々、跡形もない。こんな調子で楼蘭まで行けるのだろうか。団長さんの話では放置自動車にするやも知れないという。1号車の荷物はトラックに積むスペイスが十分にあり、1号車に乗っていたものだけを他車に振り分ければよいとのこであった。団長さんは覚悟したようだった。ボンネットも取り払った。まあ空冷式もぼちぼち行けるやも知れない。まあもう少しトラックで牽引しながら進むようだ。
 車の下に昆虫を発見する。ブンブンだろうか、糞ころがしだろうか結構生き物(トカゲ)の匂いがするものだ。この後も野生のラクダの群れや大きな鹿(天山峠)を見つけた。

 16.00 引っ張って来た1号車のロープが切れる。乗っていた人の話では、ワイヤーが切れた反動で、その切れ端が飛んできたそうだ。衝撃で左のウインカーは粉々に破損するが、フロントグラスでなく良かった。もしフロントなら人身事故にもつながっていたかもしれない。ワイヤーは横向きに飛んでくるようだ。3度もワイヤーが切れたが、どうしたことか、こんどは1号車のエンジンが掛かった。勿論空冷式だ。ちゃんと動く。最低限放置自動車にすることなくすんで良かった。中国人の自動車に対する執着心は凄い。こんなことで放置自動車にするわけないのだ。後日判明すのだが、この1号車はスルーのガイドの私物だったようだ。

 16.40 野生のラクダ群発見。全部で10匹位いた。前方を右から横切り、遥かかなたの左側の砂丘の向こうへと消えていった。親子も一組いたようで、お父さんだろうか一匹だけはずれて我われを監視するがごとき様子を窺がっていた。

 17.10 対向車の3台の中国製4駆3台に会う。ガイドの説明では盗掘者であるらしいという。砂漠に入って後にも先にも車には初めてだった。

 17.43 刀刃稜の針山を行く。鉄平石のようで大変もろくすぐにぼろぼろになった。でも車のタイヤには注意が必要で、すぐにやられるに違いないようだ。

 18.00 轍のそぐ傍に野生ラクダの屍骸を見つける。ガイドの話に因ればトラか狼にやられた痕だという。結構生き物の痕跡があるものだ。それにしてもトラなんてこんなところにいるのだろうか。

 18.55 ヤルダンが姿を消し、視野が開ける。羅布泊旧湖に入った模様だ。遅れを取り戻そうと車は疾走する。時速80〜100Km位出ているだろう。しかし1号車はまたもオーバーヒート、ラジエイターに水を補給しながら進むことになった。夕闇の中、車は順調にただひたすら西に向かって前進する。砂漠の走行には注意が必要で、ある程度のスピードが要求され、じっと止まっていると段々と砂の深みに嵌って行くようだ。スピードのとり方が難しいようだ。

 20.21 分岐点 米蘭・羅布泊・八一泉道標
 それにしても、こんな小さな道標が良く見つかったものだ。外は真っ暗だ。やはりGPSのお陰だろう。数メートルの誤差で自分の位置が確認されるという。我々は北東(八一泉)方面より下りてきた(南に向かって)のでここで135゜程右にカーブをとった。曲がらず真直ぐ進めば米蘭に行くと案内板に書かれている。米蘭に出ると、コルラからホータン(和田)に抜ける公路に出ることが出来るし、崑崙北路(西域南道)にも進めるはずだ。初めの予定ではロブの北側、土痕辺りから南下するのではないかと思っていたが、むしろ反対にロブの南の方から北に向かって進むようだ。

      北緯 40°02′33.4″ 東経 91°14′45.4″ 高度 775m 本日走行距離 190Km

 21.00 前方に灯りを確認する。この灯りは右に見えたり、左に変わったりするが、車のほうが蛇行しているのだろう。段々と近づくと井戸小屋の灯りであった。こんな砂漠の真ん中に井戸があったのだ。また、ここらあたりでは塩化カリの採掘が行われているようだ。ここでは採掘に関わる数軒の掘ったて小屋があり、また驚いたことにはハミ(伊州ハ蜜)から此処羅布泊まで砂漠の真ん中を高速道路(写真)の建設中だった。新華社電によるとこの塩化カリの発掘採集事業は国家プロジェクトとして大規模に施行(2005.4)されるらしい。ロブには無尽蔵の塩化カリが眠っているだろうし、その肥料としての価値は莫大なものだろう。そらそうだろう、いくらなんでも経済的効果が無ければ砂漠の真ん中に、たんなる観光客目当てには高速道路をつけないだろう。でも、反対に高速道路が出来、ハミから4〜5時時間でこれるなら、きっと観光化されるだろう。

 22.20 各車合流して夕食となる。タマリスクの枯れ山(これもヤルダンの一種)に囲まれた風の当たらない土地を選んでキャンプとなった。今晩はシシカバブーだ。大きなヤギ1匹が今夕のご馳走でスパイスの麻と椒(羅)が良く効いており、格別のご馳走となった。燃料には困らない。胡楊の枯れ木やタマリスクや葦の枯れ葉などがなんぼでも見つかる。羊の焼けた香りが辺り一面充満し、食欲をそそる。調理人さん達は慣れた手つきでつぎつぎと、小さな肉片を串に刺していく。胡椒の味付けが程よく按配され、何回(なん本)もお代わりした。また、残りの羊でとった出汁で蒸炒飯(ポロ)もでたが、これも格別旨かった。砂漠の真ん中でビールもタラフク頂き、ほんとに至福のひと時であった。
 食事中、遅れを取り戻すため、また1号車の具合が悪く、気温の上がらない夜中中走るとのことを告げられた。今晩は徹夜走行なのだ。

 1.20 出発

 2.15 羅布泊村
   ハミからここロブノールまで公路が建設されらしい。ここら辺りでは建設されるというよりほぼ基礎は出来ているようだ(工程第七合同段 写真)。国家プロジェクトだそうだ。(中国新華社電)

 7.15 羅布泊湖心到着 多くの探検隊の踏査記念碑がやはり黒曜石の立派な碑石が見られた。

     北緯 40°25′35.9″ 東経 90°18′36.2″ 高度 784m 

 8.20 湖心のすぐ近くで野営する。此処から楼蘭故城址まで35Kmの直線距離だ。何も遮る物は360度無い。全く地平線の真っ只中だ。ビュービューと強い風が吹く。今は朝の8時過ぎ、外は薄明るいようだ。就眠時間が短く、熟睡も出来ない。ハルシオンを服用する。

     北緯 40°21′19.2″ 東経 90°14′45.4″ 高度 775m 本日走行距離 271Km

3/20/05 羅布泊(砂漠3日目)

 11.00 目をさます。四方八方見渡す限り砂漠(岩塩を含む湖底)の真ん中。ロブはほんとに広い。見渡す限り(360度)地平線で山脈もなにもない。ロブの地肌、サメ肌の極端なやつはショル(ヘディン)と言うそうである。塩を含んだ粘土が煉瓦のように固く凝固して波頭のようにささくれて連なっている。雪山に出来る雪襞(エビの尻尾)のようだ。ビュービューと強風が吹きぬける。テントの羽ばたく音も凄まじい。まだ誰も起きてこない、爆睡中だ。テントより少し離れた所でキジを打った。こんな強風では匂いもブツもすぐに何処かえ運んでくれるだろう。隊員の皆様は爆睡中だ。四方八方360度公開中で、今朝は女性群のキジ撃ちが困るだろう。(ロブノールの写真     )

 13.00 朝食(昼食) 炒飯(ポロ)・ミルク・梨
  砂漠に入ってからいつもデザートとして梨かリンゴがでる。これらは庫尓勒(コルラ)産とかで、梨は形が悪いがたいへんジュ−シで美味しかった。リンゴは形もよく甘く美味しいものだった。

 14.00 楼蘭へ向け出発。我われの3号車は1987年製で走行距離37977Kmを示していた。湖心までバック(東方に)してから北上する。風が強いせいか、地面が割合硬い(岩塩)せいか、砂煙も少なく快適なドライブとなった。

 15.00 探検家の遭難碑と2本の到達記念碑。周囲は360度湖底の砂漠のショルで砂が吹き飛んでいる。楼蘭まであと37Km(GPS測定)。

 15.37 ロブの西の堰堤が見える。此処でしばらく休むも迎えがまだ来ないようだ。

 16.00 前方に赤い旗を掲げた4駆が前のボンネットを開けたまま道(車の轍)を遮るように立ちはだかっていた。車体には中国楼蘭と記されていた。つまり我われを楼蘭に案内してくれる中国楼蘭文物保護站の案内人(保安)たちだったが、肝心の車がOut of Orderであった。案内人は迷彩服を着て保安(ボーアン)の腕章をつけ2人いたが1人と車を残し、我われのトラックに一人を乗せ、トラックと2台のランクルで楼蘭に向かった。1号車は依然として調子悪く直接さきにすすむ(楼蘭にはよらず真直ぐ北上を目指した)ことになったていたので、トラックに乗っていた添乗員がはみ出され、われわれの3号車にやってきたので3号車は定員一杯の5名乗車となった。

 16.30 ロブの西堤(楼蘭まで21.4Km)に達する。後方には永遠とずっと地平線まで岩塩の平坦な道がロブ湖底(ショル)にハッキリと車の轍として記されていた。ここ(西堤)でハッキリと地層が異なった。ここからはヤルダン地形の中、胡楊の大きな枯れ木が散在する。ヤルダンの凹凸が激しくなり、砂の粒子も更に微細に深くなり、車のドアーを閉めているにも関わらず車内は砂塵で朦々としており、喉を痛めるや結膜炎に罹患するやら大変だった。然るうえ、車の振動が極端に激しく起伏の激しい轍道、天井で頭をぶっつけるやら、窓ガラスに顔を投打するやら、ただただ車のつり革にぶら下がっているのが精一杯な状態となった。激しい凹凸のため、車はひっくり返る(横転・従転)やも知れなかった。道は雪解け道路の如く、塩が一杯で、まるで氷結しているようにも見える。気づいたときには手のひらの何重にも何列にも水泡のマメが出来ていた。 (楼蘭故城址の写真 1)

 17.10 遂にわが3号車がスタッグを起こした(楼蘭手前約10Km)。深い深い砂砂漠。引いても押しても、ニッチもサッチも行かない。車は完全に砂に埋もれてしまっている。深い深い車の轍のなか車輪が全部砂のパウダーに埋まってしまった。トラックは先に進んで行ってしまい連絡が取れない。ヤルダンが邪魔して見通しも利かないのだ。砂の噴煙が上がる。ヤルダンの間には河の流れた痕(河床)が縦横に走っており巻貝(モノアラガイ)が多数見ることが出来た。昔は河に水が流れ、胡楊の森林が見られ、タマリスクや葦が生え茂っていた、水の豊富な楼蘭は東西貿易の要として大変栄え賑わっていたことだろう。なかには徒歩で救援に行こう(GPSの測定では故城址まで8.7Km)という意見も出たが、やがて事故の件について気づき救援に来てくれるだろうと意見でまとまった。救援のトラックがなかなかやってこない。ビバーグ覚悟で胡楊の枯れ木を集めて、焚き火も始めた。ヤルダンの間に沈む洛陽の景色は奇麗だったが、なんだか寂しい風が吹く始めたようだ。どうしても連絡がとれない。各車にはトランシーバーが設置されていないのだ。(楼蘭故城址についてから2〜3の抗議がでた。当然のことだろう。最善を尽くしているのならしょうがないが、準備不測では話にならない。)

 21.00 真っ暗ななか楼蘭故城址到着。快晴で星がいっぱい出ていた。楼蘭の入り口前にキャンプを設営する。

      北緯 40°30′51.9″ 東経 89°54′34.8″ 高度 754m(楼蘭故城址      

 22.30 夕食。夢の楼蘭到着を祝し乾杯をする。辛い事故のため真っ暗な中での到着となってしまったが、星や月が出て明日は晴天となるだろう。月明かりの中、付近を散策するが、故城址を取り巻く柵云々というのは、故城に入る一部だけで、心無い人たちで車のまま、城内に乗り入れられたらたまったものでない。このぐらいの柵なら当然のことだ。カラオケが深夜まで続いたようだ。


3/21/05 楼蘭故城・楼蘭文物保護站・楼蘭墓(彩色壁画)・楼蘭方城・龍城・天山山脈越え(砂漠4日目)

 6.30 起床・まだ暗い。身支度を終わったころガイドが起きてきた。自由に見学するという。楼蘭故城址はその城壁は333mX329mX327mの略正方形だという。楼蘭には柵で囲まれているとの報道情報があったが、それは一部だけであって、乱暴な自動車の進入にはよき防御柵であった。次郎は昨夜の内に確認済みであった。城址の中まで車で入られるのはかなわん。この柵は当然だとおもった。まだまだ早いというガイド言葉を振り切り城址内へと向かった。ヤルダンやメサが多数散在し胡楊の枯れ木も多数目に付く。

 7.30 まず、仏塔を目指す。まだまだ暗いが月明かりの中仏塔が浮かんで見える。写真を撮り(この頃よりデジカメの調子悪くなったが、初めは気づかなかった)ながら大仏塔を一周する。仏塔の写真は全方向から撮った。まもなく日の出だ。辺りが白らじんできた。仏塔の西側の小高いメサの上に登り日の出を待った。メサの坂は崩れる。風がないが噴煙が立ち昇る。非常に脆いのだ。足跡だけがハッキリと記されている。でも、強い風でも吹けば足跡なんてどこかえ逝ってしまうだろう。午前9時20分御来光だ。快晴。西側からみれば、丁度大仏塔の右側に太陽が昇る。なんともいえない感傷に浸る。このまま数時間もじっとしていたい。あれだけ苦労して此処までたどり着いたのだ。だだただ瞑想に耽りたい。座禅でもしたい気持ちだ。付近には胡楊の大木や細工された柱なのであろう散乱している。左方の三間房から大仏塔を見る。住居跡の胡楊の柱の痕跡も林立している。大きな胡楊の柱には人工の操作された痕がはっきりと確認される。見張台もみられる。ラクダの骨だろうか。葦だろうかタマリスクだろうか垣根を編んだ痕が窺がえる。河床だろうか。メサやヤルダンの間を歩く。砂丘はすぐに崩れる。あっちこっちに日干し煉瓦や葦、タマリスクの積み重ねたメサに、胡楊の枯れ木が刺さっている。河床にハッキリと足跡を残しながらあてどもなく歩いた。瀬戸物の割れた痕が散乱しているのを見つける。そんなに古いものではなさそうにも思うが。誰かいたずらに甕を割って放置したのだろうか。

 キャンプまで帰ってくると次郎のデジカメは壊れていた。レンズエラーでこれ以上写すことが出来ない。砂漠の細かい砂の粒子にやられたのかもしれない。でも最低限楼蘭は終わった。予備を持ってくるべきだった。親切にも団長さんから簡易カメラ(FujiFilm製)とフィルムを3本も付けて頂いた。後でフィルムの追加提供の申し出も受けたが欲どしすぎるのでこれは辞退した。デジカメでここまで約1000枚以上撮影したが、残念ながら残り3本のフィルムで按配しながら、残りの全行程の北京までもたした。ホントに有難う。デジカメは便利で1M FINEで撮ればCFメモリー1Gでは約2000枚以上取れることになるようだ。

 10.00 朝食 故城址の感激に浸りながら、美味しく朝食を頂く。

 10.30 出発。昨日と同じ道を引き返すも、この間スタッグしたのはだだの1回のみ。トラックに牽引されスンナリと脱出に成功した。ロブの西堤まで約1時間30分、昨日のスタッグした場所はすぐに判明したが、昨日多くの枯れた胡楊の木々を轍の中に入れ込んでおいたので、今日は車に惰力をつけて1回でクリアーした。それにしても凄い傾斜と凹凸だった。ランクルがひっくり返るかと思われた。

 11.50 ロブの西堤に入ってから湖心に向かって真直ぐ東に進路をとる。やはりガラリと風景が変わる。ロブにはヤルダンがなく、湖底は鰐肌の如く、雪襞のようで、いわゆるショル(ヘデン)は雪山にできるエビの尻尾といわれるもののようでもある。割合硬く塩の結晶も見られる。昨日来た分岐点で今度は左(北方)に曲がる(昨日来たときは南から北向きに来たので左(西向き)に回った)。
 
 12.55 楼蘭文物保護站到着。チャクリク県の人民政府から派遣された文物保護局員がこの地区全体を管理するようだ。でも腕章には保安と書かれていた。彼らは任期3ヵ年ということでこの間人里離れたここで野郎ばかり10数人で生活するようだ。特殊手当てが付くのだろうが過酷な3年の生活は如何に厳しいものだろうか。

      北緯 40°40′53.9″ 東経 90°11′44.3″ 高度 778m

 13.10 出発。2003年発見されたという極彩色の壁画( )を見学するという。保護站の中国製4駆は、相変わらず調子が悪く、数分毎にエンストを起こす。保安の1人はしびれを切らし、我われの車にやってきたので、トコロテン式に追い出された添乗員が再度我われの車にやってきたのでまたもや5人乗車となった。新華社電によると、保護局員が遺跡見回り中、2003年5月、盗掘団と見られる車を発見、跡を追ったが見失ったという。それで来た道の車の轍を逆行していってこの墳墓を発見したという。団長よりこれは外国人には未公開だから誰にも口外することあたわずとのお察しがでる。文章に記載したりインターネットで発信しないようにとのことであったが、日本ではもうすでに発表(2005.2 NHK・講談社刊行)されており、またそのほかの書籍による報告も見られる。いまさら隠し通せるもので無し、団長さんの意図が解らない。

     北緯 40°40′56.7″ 東経 90°07′54.2″ 高度 780m

  この位置にある墳墓はメサの頂上部分が爆破されており、大切な宝物は略盗まれていた。規模は75X80X20m位で壁画はほぼ完全な形で保存されていた。墳墓は前後室に分かれ、その間は小さな穴でつながっていた。楼蘭では初めての壁画は前室に見られ、丁度前室の真ん中には直径40〜50cm位の柱(胡楊製)があり、仏教に関わる法輪様環模様の彩色された環が多数散在(仏教の影響を受けている)していた。墳墓は豪族か豪商のもので、けっして王侯貴族のものではなかった。これと同様な墓が数箇所、嘉峪関辺りに掘窟され見られるという。入り口は西側にあり東向いて入ることになる。南側に主壁はあり、5人の西洋風(イラン民族)民族衣装を着け、夫婦と見られる二人はペルシャ風シャンパングラス(三角形)を手に持っていた。残る3人は召使人やお客さんかもしれない。色彩も鮮やかだった。西の壁の左には釈迦像と思われるものと、妓楽天の図があり、右には黒い一角獣(牛)が描かれ墳墓を守っていた。北側にはラクダがいて他のラクダの脚を噛んでいたがその意味は解らない。いきり立ったペニスの描写なんかも西の地方の影響かもしれない。お棺も数個あったらしいが詳細はよく解らなかった。天井には星宿図があったとのことであるが次郎には気づかなかった。

 14.30 楼蘭方城

     北緯 40°38′44.3″ 東経 90°07′04.8″ 高度 731m

  漢時代の駐屯軍の武器庫であり食料庫であったらしい。でも一説によると、ホントの楼蘭故城址であったともいわれている。延々と続く防塁はタマリスクや葦がみられメサであるに違いなかった。

 15.30 昼食にはここ文物保存站のヤルダンを掘って作ったヤルトン風食堂でラーメン(カップ麺)を頂いた。外は真夏風直射日光で暑くてかなわなっかった。食堂には生の馬鈴薯が袋積みにされていた。また簡単な自炊器具が備わっており、保護局員や保安たちが単身赴任をしているのだろう。穴倉の中はヒンヤリとしていたが、外は快晴、気温がうなぎ上りにあがり33℃を示していた。しかし風は肌寒く感ぜられ直射日光を避ければ、気温ほど暑さを感じられなかった。しかもヤルトン風穴倉は快適だった。この基地には自家発電装置やGPSのパラボアアンテナが設置されていた。

 16.20 楼蘭文物保存站を出発。一路北方を目指して進むことになる(土垠)。

 17.20 前方の北側にヤルダン(龍城)の素晴らしい景色の望む眺望の開けた小高い丘のようなところで小休止する(土垠)。ヤルダン龍城は一つづつ形が異なる。大きな松茸のようでもあり、トルコのバッムカレのお伽の国の風景のようでもあった。ヤルダンの間は少し青みがかったなんともいえない幻想的な風景で、表面の砂は塩辛く雲母混ざりであった。遠く右手にトラックと2号車がモクモクと砂塵を巻き上げ走っている。

     北緯 40°52′49.2″ 東経 90°15′47.1″ 高度 752m

 18.00 他の車はどっかえ行ってしまったようだ。ヤルダンの間をぬうように、河の跡らしき所をどんどんスピードを上げて進む。ただ轍の痕を頼りに、ひたすら北の方へと進む。もう2時間以上他の車を見ていない。道に迷ったかなあ。遠くに山並みが散見されるようになった。砂漠の地平線以外山脈を見かけるのは敦煌を出てから初めてだ。山脈の間の河底(河床)を噴煙を巻き上げはしる。天山の支脈らしきとこの手前で猟師小屋を発見する。小屋には1人の老人がおり、狩でもしているのだろう、鹿と思われる皮のなめしたものが乾してあった。小屋の横には国旗がはためき、道と方向を教えてもらう。だいたい進行方向は間違っていなかったようだ。

 18.30 左に1号車を発見。車の調子悪く楼蘭を通らず直行した1号車が見の前にいた。お互いに平行しながらスピードを上げる。2台になると心強い。エンジンを吹かしながら天山の支脈を登っていく。たいへんな勾配だ。

 20.00 やっと天山のコルに到着した。コルの上は昔旅人の休憩所か宿屋があったのか、レンガ造りの割合大きな建物跡があり、このあたりは高度1550mを示していた。なるほど、龍城から800mほど高度をあげたことになる。落陽はホントに素晴らしかった。それにしても他車は遅すぎる。事故でもなければ良いがと心配する。日が落ちると急に寒くなってきて、風も出てきたようだ。反対に我われを探しているかも知れないと考えた。

 22.50 遂にトラックと2号車がやってきた。やはりわれわれ3号車を探していたとのこと、今日中に見つからなければ、明日にはヘリコプターをチャーターして捜索するつもりだったという。いづれにしても全員無事でよかった。全車一堂に会する。コルを越えて数分ほど下ったとこの風のあたらない所で野営する。今晩は砂漠最後の晩である。今晩は山の上、たいへん寒いだろう。あるものすべて着衣のうえ就寝する。

     北緯 40°18′20.9″ 東経 90°04′53.5″ 高度 1447m


3/22/05 天山コル・一大隊鉱山・リカル・トルファン

 7.00 1500mでの野営で最高の寒さを覚悟して何枚も重ね着をして寝たので寧ろ暖かかった。外気温零下4度、やはり霜が降りていた。気温は夜中にはそれほど下がらず、朝方になって急に冷え込むようだ。

 8.00 朝食は例のポロ、食後食卓や不必要なもの全て焼く。もう全ては終わったようだ。いまでは、懐かしくもう一泊してもよさそうな気がする。

 9.45 いよいよ砂漠ともお別れ、ひたすら、タマリスクの生い茂る中の河床の轍の跡を探し求め縫うように全速力で走る。もうもうと砂塵を巻き上げ猛進する。

 11.20 一大隊鉱山に到着、大きな鉱山だ。鉱石を運ぶ大型トラックが2両連結で走っている。もう砂漠の旅は終わったのだ。石炭を掘っているとのことだったが、積み上げられている鉱石を見ているとマンガン鋼のような気がする。他のレアメタルもあるかもしれない。

 13.30 またも1号車パンクする。パンクなんてヘッチャラだ。もうすぐ地道ともお別れだ。

 15.00 リカルに到着、40〜50軒の部落だ。藩老三飯荘という食堂で焼うどんを食べる。食堂とは名ばかりでビールのコップも無く、湯飲み茶碗で生暖かいビールをのんだ。でもうどんは素晴らしく美味しかった。

 16.00 魯克沁(町)を通過する頃より舗装道路となった。

 18.00 近道を通ったが工事中のため、結局国道に回り、火焔山の麓を通りトルファンに帰った。緑州賓館到着。

 21.00 楼蘭探検成功を祝し祝宴・乾杯(日本側・中国側全員の15名参加)

  宴会の途中、楼蘭故城訪問証明旨(No52)を頂く。此処の新疆中信国際旅行社で案内した旅人の第52番目ということだ。
宴会途中、次郎さんの着用している時計が総隊長の目に止まり、気に入ったのでわけて欲しいとガイドを通じて申し入れを受けた。この時計はCASIOの1471で、いわゆるTorburecといわれるもので時間のほか方向、温度、湿度、気圧(高度)が測定できるものだ。センサーが2個入っており、約10年ほど前にはじめてチベットに行くとき求めたものだ。この時分は物凄く高価であったが、現在では性能ももっと良くなり、しかも安価になっているだろう。このときはタイマイを支払ったが、まあよいか、お世話にもなったし、贈呈することにした。でも隊長さん扱い方解るかなあ。


【羅布泊(ロブノール)・楼蘭故城址・タクマラカン砂漠地図】


トルファン

 吐峪鈎(さんずい)大峡谷・西千佛洞(2004.5より開放地区となった)

 麻孔村・清真寺・千佛洞・大峡谷を見学する。子供たちに風船の細工物や飴玉をあげたら大変喜んで大勢集まってきた。小さな赤ちゃん(子供)ばかりか、お爺ちゃんやお婆ちゃんも並びだす始末となった。村には大きなモスクがあり村人たちは割合古くからムスリムだという。でも爺ちゃんたちは例の白の小帽子を被っていた。

 交河古城(Xi Gu Shi )・西谷寺・ヤルフト石窟・車師王陵廟

 トルファンにある文物保存站(博物館内)で非公開場所への入場許可をとり未開放部落に立ち寄った。ヤルフト(牙尓呼千佛洞)千佛洞(雅尓湖石窟)・ヤルホセブネクコ車師王陵(車師王廟)および洞窟(大輪の蓮の大きな華が見事だった。ことに王墓の西斜面にある洞窟の蓮のコバルトブルー(ラスピピラ)はよく保存されていた)を訪ねた。

 牙尓呼千佛洞は交河古城西台地の断崖(鈎(さんずい)西墓地)にある。石窟は五世紀に始建され、九世紀になって回鶻人(Uighur)によってさらに修建され、描かれた。今は7つのアーチ型石窟が残されている(未開放地区)。壁画の残存しているのその内半数ほどあった。車師軍団は馬をよく使用した北方系の民族だろう。ヤルホセブクロ王墓には沢山の馬の骨が見られた。しかし王墓稜は盗掘を恐れてか山の上の頂上でしかも深い深い井戸のような穴を掘って墓稜とした。

 ヤルフト千佛洞より車師王陵に向かう途中、尾根の間の小川のなかで車(4駆)がスタッグした。保安と考古学者と次郎の3人で押したりしたがだめだった。まるで砂漠の中の道の如く、底なし沼のようであった。車体のドア付近まで砂に溺れ、にっちもさっちもいかず、結局近所の住民にブルドーザーの力を要請することになったが約3時間立ち往生することとなった。この時間を利用して近所の農家を訪れたが、丁度昼飯の時間で食べていかないかと勧められたがこれは辞退した。この家の家族構成はご主人が外に働きに出ており、おばあちゃんと若嫁さんと小学校に行く前位の可愛い女の子(5〜6歳位)のようであった。若嫁さんは丁度食事を終えたところであり、お茶を飲んでいたが、すぐに立ち上がり家の前のぶどうの木に肥料(堆肥)をやりはじめ、土を開墾(耕す)もしはじめた。若嫁さんは大切な働き手、食後もおちおち休息をとっておられないようだった。子供さんにボールペンをあげたら、大変喜び胸に挿していた。

 此処の保安は阿吽の呼吸が良く通じた。

 
【ウルムチ(北庭古城址・北庭西大寺 未開放地区)】

 吉木薩爾県北庭故城

 周囲数キロuの兵どもの夢の跡だった。土塀の一部は残っていたが、北側の隅に残っている数箇所の洞窟(洞穴)には壁画もなにもなかった。城内には河が流れ、小高い土塁の上には羊飼いの兄ちゃん達が休んでいた。砂漠特有の起伏のある広々とした野原という感じで気分は爽快であった。足跡がハッキリ残る程度で、足がめり込むということはなかった。

 北庭西寺の管理人のオバサン、どこでも通用する阿吽の呼吸を知らない。門塀は鍵で閉じてしまい、なかなか中に入れてくれない。でも販売中の西寺(北庭湖城址)に纏わる切手を購入すると、少し軟化して庭には入れてくれた。僕らはガイドを入れて9人、僕一人なら例の手口を使い寺内に入れてもらえただろう。折角此処まできたのに寺内を見学できず残念だった。この西寺には交脚菩薩が見られるというが、この菩薩は北限とされているようだ。つまりここより北には交脚菩薩は見られないという。ほしいことをした。.

 帰途ジムサルでシシカバブーとラグ麺を食べた。シシカバブーは羊の肉とレバーとがあったがいづれもとてつもなく美味しいものだった(1本5角、ウルムチでは1元、北京では2元だった)。ラグ麺も味付けが日本的で、ともかく全部たいらげた。食堂のある町はバスターミナルがあり、沢山の店屋があり、果物の種類も豊富で、バスも方々に出ており、旅行者で賑わっていた。

 ウルムチを中心とする新疆自治区は、古より遊牧民族の支配するところであったが、前漢時代には西域都護府が置かれ中国王朝の支配するところとなった。また中国王朝の勢力の伸退によっては遊牧民族との軋轢を繰り返してきた。モンゴル族のオイラート(明代)が支配するようになって初めて都市らしい体裁を持つようになって来たようだ。清王朝は満州八旗兵を駐屯させ、このウルムチを新疆支配の中心とした。19世紀に入るとロシアの南下政策とぶっつかリ、対ロシアの軍事拠点としても栄えた。清から中華民国にかけては、諸外国の侵入にあったりしたが、中華人民共和国が建国してからは西域地区の新疆自治区として隆盛を極めてきた。最近ではキリギスを中心とする独立運動も見受けられるが、国の融和方針で独立運動は完全に押さえ込まれているようだ。新疆自治区は石油が沢山産出し、石炭や希少金属類(燐、モリブデン等は全中国の90%以上)が多数産出するという。こんな宝の宝庫、豊かな新疆を中国は絶対手離さないだろう。昔の辺地も現在では宝の山となったのである。ウルムチは、最近では人口320万人を超え、地下街(辰野地下街)もでき、最新のファッションの素晴らしい店舖で一杯で、オスナオスナの盛況ぶりであった。この地下街は約300mの長さがあり、工事費用は約1億円で出来たそうな(日本人との合弁で大阪出身の辰野さんは6000万円を負担し残りは中国人の友人が負担したという)。ファッションの店が立ち並び若いお嬢さんたちが、爛々と目を輝かし、100元札の束を握り締めて、買い物に血眼になっていた。


 とにかく終わったのだ。苦しいこともあった。楽しいことのみではなっかた。とりあえず天候にも恵まれ(当たり前の話、砂漠では雨が降らないのが普通なのだ。)黒嵐にも会わず、全員そろって楼蘭故城址に行けたし旅は全くの大成功裏に終わった。団長さんの自負される如く今回の探検旅行は大成功のうちに終わったのだ。

 この旅行は先にも述べてが団長山田先生が主催され、日本旅行が実際の実務を手配した模様だった。山田先生が新疆からの留学生たちのお世話をなさっており、そのOB(黄氏)が新疆中信国際旅行社に勤務しており、その方の手配で施行された。全て中信旅行社の手配で行われたようで、日本旅行がそれに注文をつけるということだった。スルーのガイドもこの黄氏がつとめた。事前説明会が2回ほどもたれたが、JR西日本は始めから顔を出さなかった。この会場もJR西日本のものと思っていたが日本旅行のもののようだった。ハッキリ言って、山田先生と日本旅行との打ち合わせが不十分で、それぞれが自分の立場で物を考えており、一般参加者には、迷わせられることも多々あった。
 まず、初めにスルーのガイド黄氏は山田先生の教え子ということで、その黄氏と日本旅行の弘中氏(添乗員)と具体的に企画して旅は実行された。楼蘭訪問は120%成功したし、道中何かとお世話になり、何も文句はないのだが小さなことだが、各車ランクルの連絡がいつも取れる状態にして欲しかった。各車トランシバーを持っているだけで十分なのだ。
 全行程中3回ウイグルの家庭に呼ばれて食事する機会があった。1回はスルーのガイド宅で家族揃って歓迎された(ウルムチ)。ほんとに他のツアーでは味わえない経験をさしていただきありがとう。もう1回は、団長の学校に留学中の師弟の家庭を尋ねた(トルファン)。ここでも家族総出で歓迎された。招待されたが、大切な息子を留学生として送り出している親の気持ちが痛いほど理解できる。これも団長さんのお陰だった。初めちょっとしたナッツなんかが、置かれていただけだったが、次に山のような料理や多種類の地方料理が出た。味付けも日本人好みで結構なことだった。ウイグルでは料理を腹いっぱい食べてからお酒を飲むらしい。日本のように先ずビールで乾杯というとこはなさそうだ。はじめ、テーブルの上のナッツ類だけを見て、帰りにはバザールに行こうと団長さんも発言なさっていた。やはり、風習の違いも、初めに理解しておくべきだった。最後の3回目にはウルムチ師範大学のズブが我われ日本人を歌舞大劇院(新疆二道橋美食歌舞大劇院)に招待してくれるという。このズブさんも以前の留学生であったそうな。ズブさんは女のかたで、外に師範大学に留学中の男子学生一人と海外青年協力隊として、やはり師範大学で日本語を教えている女子学生一人と、中国側日本語教師(女)2人が一緒に、民族舞踊を鑑賞しながらフルコースの食事を頂いた。こんなに大勢で女の細腕にたかったりしてすみません。二道橋に行くバスの中で団長さんが、これだけ大勢で招待を受けるのだから、タダでは申し訳なく、日本からのお土産として高価なナイコン製デジカメをもってきたと披露された。それは、それで結構なことだ。昔の師弟関係から微笑ましいことだった。では、このために特別のお土産も持っていかなった、われわれはすべて、タダ食いしたのだろうか。か弱き女性や留学生として人質をとった善良なウイグルの少数民族の家庭に多大の負担をかけたのであろうか。ビールや白酒、ぶどう酒腹いっぱい、飲み腹いっぱい食べたのであろうか。
 出発前の説明会で、お土産のデジカメや立派な日本の着物を披露なさっていた団長さんを思い出す。添乗員は団長さんは特別だから、われわれとは関係ないと言っていたが。次郎さんは普段の旅行のときと同じように煙草マルボロ(5カートン)と子供たちのために飴(2Kg)、派手な風呂敷、絵葉書、ミニカー(10台)を用意した。もっとハッキリ出発前に説明されるべきだったと思うが。夕食付きツアーと説明されていたし、費用の中に全食事代も含まれているものと思っていたが、これは現地の人の好意に甘えるということだったのか。日本旅行に支払った食事代はどこえ行ったのだろうか。旅は楽しければそれで十分だ。それ以上詮索すべきではない。

【参加者】

日本側団員

 団長(男)さん 大学の教師らしく、他人を平気でアゴで使いよる。日ごろは学生さんの親方だが、こんなところに日頃の癖が出るようだ。でも、シルクロードの専門家ということだが、学者臭がなく親しみやすい。近畿の師範大学(教育大学)を束ねていかねばならない立場だという。大学再編も大変だ。文部省の科研費も幾らぐらい貰っているのだろうか。文科系の大学では科研費もままならないだろう。これでトップ30にランクされるのだろうか。

 団員T(男)さん リタイアー後の計画をしっかり立ててござる。3年計画で中国語の学習中の2年目だそうだ。中国語の習熟度はまあまあというところ。でも目的意識を持っておられるので必ず成功するだろう。カラオケ大好き人間。とくに女性に親切なようだ。NHKシルクロード講座受講生。自称パソコンに強いらしい。

 団員N(男)さん 放送関係の仕事をしておられるという。福井TVの役員でもあるようだ。大学の講師(失礼名誉教授かな)も勤めておられるようだ。世界中を股にかけて旅行しておられるようだ。羨ましい限りだ。ビデオにハッスル、脚も丈夫のようで、よく動かれるようだった。旅行のビデオ頂いたが、個人情報の関係で住所わからず、この場を借りてお礼を申し上げたい。

 団員T(男)さん 根っからの山男。さっぱりした気性。はりきりボーイ。テントの設営もこまめによく働く。すべて協力的。ヘディンのシルクロード(岩波書店)を読んでおられた。まあこれから中国も勉強してもらいましょう。土建屋さんかな。みやげ物店で大きな額物を購入しておられた。よっぽど大きな部屋があるのだろう。

 団員J(男)さん 正体不明の若き旅人。雑学博士かな。ホントに浅く広く知っている。シルクロードも数回訪問しているという。

 団員H(男・添乗員)さん 若くハンサムボーイ。まあ優秀な添乗員だろう。日頃は会社で営業の仕事をしているという。なかなかの勉強家。

 団員T(女)Kさん きれいなお嬢さんタイプ。音楽の先生らしい。エレキトーンを持参してこられた。山田教室の生徒。

 団員T(女)Fさん 昨年定年退職した大阪のおばちゃんタイプ。時間が出来たので、これからはいろいろのところへ行きたい、張り切ってこれから青春を取り戻そうと色々計画中という。




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