グラナダ


夕食後フラメンコショウ―を見に行った。途中にライトアップされたアルハンブラ宮殿が望見された。ジプシーの歌と踊り、比較的狭い会場で迫力があったが昔マドリッドで見たベルハメスでのショウより数段劣るものだ。歌や伴奏の音楽、踊り(ダンス)の良否は判らない。ただもっと迫力があるものだったようだ。フラメンコと名を売っているのは此処ラテン系の各国だがジプシーの歌は北欧からヨーロッパ全体に及び全世界に及んでいる。悲劇の流浪の民ロマ人たちの悲劇と苦難の抒情詩なのだ。僕にはアメリカ西部を行く幌馬車隊と重なって止揚が無い。

ナスル朝

グラナダの開城(1492年)
1232、アンダルスの支配者の一人、ムハンマド・イブン・ユースフ・イブン・ナスル(アル・アフマル)は王を名乗り、1238にグラナダに王国(ナスル朝)を建国した(ムハンマド1世)。1246年、ムハンマドはフェルナンド3世と条約を結び、カスティーリャに臣従して貢納する代わりに、グラナダ、マラガ、アルメリアを保有することを許された。

ナスル朝グラナダ王国は、イベリア半島における最後のイスラム王朝として約250年間存続し、経済・文化が繁栄した。アルハンブラ宮殿は、ナスル朝時代に建てられたもので、イスラム建築の傑作と評価される。しかし、15世紀末にカスティーリャ王国とアラゴン王朝が連合王国となると、ナスル朝支配地への征服が始まり、1492年1月2日にグラナダが降伏してナスル朝は滅亡した。

レコンキスタ後

他宗教にも寛大であったナスル朝のグラナダには、当時キリスト教世界で弾圧されていたユダヤ人も多く存在していた。しかし、レコンキスタ完了後は、キリスト教徒によるユダヤ人の虐殺が行われ(スペイン異端審問裁判)、多くのユダヤ人がイベリア半島から去った。そうしたユダヤ人は、オスマン帝国などで保護され、経済発展を支える一勢力になる。

711年にイベリア半島に進出したイスラム勢力は瞬く間に半島を制圧し、コルドバなどの都市では西ヨーロッパより遙かに高いレベルのイスラム文化が花開きました。しかしキリスト教勢力がこれを徐々に押し戻し、1492年にはついにイスラム最後の砦であるグラナダが陥落し、イベリア半島は再びキリスト教勢力のものとなった。
アルハンブラ宮殿はそのグラナダを見下ろす丘の上に築かれた城塞・宮殿・離宮から成りる。アルハンブラとは「赤い城」という意味で、1238年にナスル朝ララマール王が宮殿の建設に着手、以後21人の王達の手によって増改築が重ねられていった(砦自体は9世紀に建設されたようです)。王達はアルハンブラ宮殿の造営を通して、ただひたすらにイスラムの美を追求し続けました。その姿はまるでレコンキスタ(イスラムに対するキリスト教勢力の大攻勢)という現実から逃れようとしているかのようである。グラナダ陥落後、街のモスクは破壊されカテドラル(大聖堂)が建設されました。しかしこのアルハンブラ宮殿が完全に破壊されることはなく、現在でもその優美な姿を見せている。




2011.09.26 (グラナダ・ロイター) 世界旅ニュース

 スペイン北東部カタルーニャ州で闘牛の禁止が決まったのを受け、州都バルセロナでは25日、最後の闘牛が行われた。チケットは通常の3倍近くにまで高騰したが、最後の伝統行事を一目見ようと、収容2万人の闘牛場は満員となった。 スペインでは、動物愛護団体などが闘牛を残酷だとして非難しており、継続か禁止かをめぐり熱い議論が交わされている。闘牛場の外には反対派数百人が集結。「牛にとって素晴らしい日」などと書かれた横断幕を掲げてバルセロナでの闘牛終了を歓迎し、さらに他の地域への禁止運動拡大を訴えた。カタルーニャ州自治州議会では、昨年7月に闘牛禁止法案が可決されていた。国内における南北の対立が根が深いようだ。



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