チベットはマンダラの世界


第一話 高山病

 どうも熟睡できない。数時間まえから、いやに寒い。寝返りをうって毛布をからだに巻きつけてもまだ寒い。となりでは家内がかすかに寝いきをたてているので、部屋の灯りを付けるのも気がひける。もうかれこれ数時間もうつらうつらしていたが、我慢できず机下灯をつけて時刻をみるとまだ午前三時、前夜就寝したのは十二時過ぎだったのでほんの数時間しか眠っていない。みずばながでて、頭痛もするので風邪でもひいたのかもしれない。はなをかむと鼻汁に血液がまじっている。室内の温度は摂氏五度、高度計は三千五百六十米を示している。就寝時、たしか摂氏二十五度だったので、夜間急に気温が変化したのだ。毛布のうえからベッドカバーをかけたが、さむくてなかなか寝つけない。発熱もしているようだ。

 一昨日(四月二十九日)関空より北京のりつぎ成都(標高五百米)に一泊、昨日四月三十日午前中には、ここチベットのラサ・クンガ空港(標高三千六百米)についた。快晴で雲ひとつない青空はどこまでも青く、ふかくつづいている。あまりの空の深青さにひかれて、のってきた飛行機を附近の山をバックにいれて記念撮影と、空港ターミナルに向かって走った。ここではっときづいた。そうだ、ここは富士山の頂上と同じ高さなのだ。走ってはいけないのだと。高山病が怖いのだ。でも動悸もしないし、息切れもない。なんの症状もない。そんなことでへんにからだに自信をもった。

 数年前、南米アンデスの標高三千米ぐらいのクスコ郊外の山中で次女が高山病でたおれたことがある。ひごろ少林寺拳法でからだを鍛え、七帝戦で優勝もし、一番丈夫だと思われていた彼女が、めのまえでフラフラと倒れたのにはほんとにびっくりした。この時も、私も家内もとくに異常はなかった。元来私は高さに強いのかもしれない。高山病の発症は単なる高度によるだけではないようだ。もちろん、その発症は個々の身体的条件にもよるが、その場所(緯度・経度)の違いにもよるものだと思う。症状も千差万別いろいろあるものだ。風邪の症状で、鼻血がともなってくると、まずまちがいない。いままでユーモアたっぷりな、ぎょう舌者が、急に口数すくなく、黙ってしまうと、赤信号だ。酸素吸入以外これといった治療法のないのも厄介だが、わたしの拙い経験から冠拡張剤が有効のようにも思う。一日中みずばなが続く。

第二話 ポタラ宮とダライ・ラマ

 今日は五月一日メデー。河口慧海の”チベット紀行”から”地球の旅”まで、ありあまる多数の旅行記・案内書からえたあさはかな、まずしい私の知識では、開放後のラサではいろいろの行事が開かれ街中賑っているらしい。各寺院等の入場料も今日一日は無料で開放されているらしいが、われわれ外国人には、この特典は適応されなかった。

 今日はダライ・ラマ(インドに亡命中)のかっての居城・ポタラ宮殿(写真一)の見学の予定だが、あの十数層の巨大な建物の階段を上り下りできるだろうか?何階ぐらいのぼれるだろうか?もし途中で、息切れしたり、動悸がでてきたらどうしょうかと心配してきたが、これも心配無用。宮殿横の厳しい坂道をタクシーはバックで豪音をたてながら、最上階近くまで、あっというまに上ってしまった。そんなわけで、土地の巡礼者たちとはまったく逆まわりに、上から下にお参りすることになった。

 今朝、ホテルをでるとき気温は二十七度を示していたのに、今は三十度を越している。強烈な紫外線で日当たりでは眩しくてたまらない。でも日陰では暑さを感じさせないし、空気が乾燥しているせいか、ほんとに凌ぎやすい。むしろ宮殿内や寺院内は肌寒いかんじで、真っ暗闇のなか羊乳から作ったバターの灯明の匂だけがいやに鼻につく。持参した色の濃いサングラスもたいへん貴重したが、部屋の内外ではいちいちつけかえねばならず、面倒なことだった。

 ダライ・ラマの居城だったポタラ宮や慧海の学んだセラ寺、ヂョカン寺等では釈迦からはじまって阿弥陀仏、弥勒菩薩、その他いろいろの菩薩、高僧活仏等の像や各種マンダラ、仏典類(写真二)が無数に見られるが、わたくしには、それぞれの区別さえはっきりわからない。もうすこし神話でも勉強してきたらもっと楽しめたはずなのにと悔やんでもはじまらない。ただ激しい、きびしい自然条件のなか、まずしい生活環境のなかでも、輪廻転生の思想を信じ、ただひたすら祈り、巡礼する真摯な姿をまのあたりにして、心打たれるものがある。五体投地をくりかえし、何年もかけて、何千キロの道のりをやっとここまでたどり着いた巡礼たちが、高価なバターを灯明にさす姿を見て、これは信心だとか宗教だけの問題ではなく、社会に於ける生活の仕組ではないかと、何だかすこし理解できるようにも思う。人生の数分の一にもたっする時間を、ただ巡礼のためだけに費やすこのエネルギーの源泉は、来世の幸福を願う輪廻の思想からだけではなく、きびしい自然条件のもと究極のカールチャクラなのかもしれない。

 寺のベランダから、街の風景をみているとき、急に風がでて曇ってきたかとおもうと、みぞれまじりの雪が降ってきた。さきほどまでの摂氏三十度を越す暑さもどこへやら、寒いと思うと気温は摂氏四度を指している。なるほど、ここチベットでは一日の中に四季がみられるといわれているのも当然のことなのだ。

 ヂョカン寺周りの八角街はラサのもっとも賑やかなところで屋台が立ち並び、巡礼あいてにいろいろの日常雑貨から土産物までなんでも売られたいた。このなかに倣骨董品やトルコ石等の装身具のたぐいにまじって、シェーデルがうられていたのには、ほんとうにびっくりした(写真三)。そういえば寺院内の仏像のまえに銀で裏打ちされたシェーデルの上半分に、白酒が供えられているのを、実際みたが、これが街中で屋台に無造作に多数ならべられ、売られていたとは!シェーデルでもとくに高僧のものでつくられた酒杯は、霊験あらかたとかで、ありがいとは屋台のオバチャンの言であった。老眼ぎみの私は、眼鏡をはずして手に取ってみたが、SUTURAもちゃんと、たしかにあり、これらは本物であることがはっきり理解できる。値段は百〜百五十元位で、日本円では一千〜一千五百円位のものだ。 中華人民共和国政府発行の宣伝書籍の”チベットの神話”のなかで農奴制度時代の人骨で作られた笛や人間の皮で作られた衣等の写真や解説がのせられていたのをよんだことがあったが、まさか、白昼どうどうと、こうしたしろものが売買いされていたとは!どこのどなたさまのものかわからないが、仏教(密教)を実生活に取入れ、生活の糧にしている現地人をみるとき理解に苦しむ。”バルドゥ・トェ・ドル(死者の書)”の教えるように、肉体と精神は全くべつのものかも知れない。南無阿弥陀仏。(topに戻る)

第三話 チベット式葬送の儀

 若いかわいいおおぜいの子供の僧が問答を繰り返していたセラ寺(写真四)の裏山が、かの有名な烏葬場であったが、政府より外国人の烏葬の見学は禁止されており、持参した二百ミリのテレでは思うような写真をとることができなかった。二千ミリを持参しなかったことがくやまれる。

 ヤク皮でできたボートに乗るためヤルツォンポ河の支流キチュ河畔までいったときのことである。河岸にはところどころ、土手が川のなかの方に突きでて、その先端にケルンのように石積みされてタルチョのはためいているところがある(写真五)。高さもせいぜい70〜80センチぐらいの石積みで数本の旗とタルチョがはられているだけである。偶然そのとき、そのひとつの一番近くの目の前のところで老女がダビにふされた。突然のことで、一瞬なにが起こったのかわからなかったが、火の手があがったかとおもうと、つぎの瞬間もうもうと黒煙があたりいったいにたちこめた。一人だけの僧侶の読経で、ほんの数人の家族らしい野辺送りの人たちだけの、さびしい水葬の儀式が行われたのだ。あわててカメラをかまえたが、ちかくの人に肩をたたかれ注意をうけた。すべてが終わってから、附近にいた人にきいてみると、アブラか石油のようなものをかけるとパッともえあがったとのことで、充分に燃えつきていない仏様は、数分割のうえ河にながされたとのことである。数年前に”インド漂流”というTVでガンジス河畔での火葬のおこなわれたシーンをみたことがあったが、このときは直径十数センチもあろう立派な薪をいげたにくみ、その上でダビにふされた。死体は充分に焼かれ、残灰は聖なるガンジスに還えされたのである。しかし材木のすくないチベットでは、ほんの数センチの太さの数本の薪だけが使用された。勿論充分に焼くことが出来るわけではない。元来、チベットでの葬儀のやりかたは、霊塔葬(ミイラ作成)、天葬(烏葬)、水葬、土葬の四つの方法が取られている。木材のとれないチベットでは、火葬はまず行われないのは当然のことだ。特別高僧のミイラ葬とか、金持ちの烏葬とかは別にして、普通一般には水葬がおこなわれているらしい(追記1参照)。チベット人には川魚を食しない習慣があるときいてはいたが、この水葬を見て、はじめてなるほどと、理解できるようになった。輪廻思想から川魚を食べないとばっかり思っていたのは、わたしの早とちりで、いろんな意味があったのだ。

第四話 標高五千米を越えて

 ラサからカンパ・ラ(峠・4441m)とカロ・ラ(5050m)の五千米を超す二つの峠を越えて、イギリスとチベットとの古戦場跡ギャンツェ(標高四千米)までやってきた。途中の、タルチョのはためくカンパ・ラからのヤムドウク湖の青さといったら、なんと表現してよいか、筆舌に絶するものがある(写真六・七)。ただ雲だけが、世界で一番高所にあるといわれる湖に影をおとし、遠くには万年雪をいただくヒマラヤの山々がみられる。欧州のアルプス、ロッキー、アンデスとはまた違った、生涯忘れえぬ風景の一つだ。

 我々はラサからギャンツェまで一日できたが、慧海は約二月間(往路)もかかっている。そういえばわれわれは日本から一日半(気流の関係でクンガ空港は午前の早い時間しか開かれていない。もし一日中開港されていたらその日のうちに着くことができる。)でここチベットまできたが、慧海は徒歩でインドからネパールを経て、ここチベットまで約三年を要している。昔のひとはほんとに偉い。慧海しかり、多田等観、能海寛にしても敬服に値する。

第五話 輪廻転生

 シガツェ(標高三千九百米)のタシルンポ寺はパンチェン・ラマの居城だ。ダライ・ラマにしても、パンチェン・ラマにしも、その位は代々転生者によって受け継がれる。輪廻転生の思想で、ダライ・ラマは釈迦仏の、パンチェン・ラマは弥勒菩薩の転生者で、それぞれ現在、未来の世界を救済する(追記2・3参照)。ここタシルンポ寺には歴代パンチェン・ラマの霊搭殿が祭られており、奈良東大寺の大仏をはるかに凌ぐ大きさの、金銀宝石で飾られた弥勒菩薩の座像がみられた。

第六話 消えたチョモランマ(8481)

 今回シガツェまで足をのばしたのは、ここから数百キロ先のチィングリまで行きたかったからである。チィングリから丘にのぼれば世界最高峰のチョモランマ(エベレスト)はじめ、チョー・オユー、マガルー等八千米級のヒマラヤの一大パノラマをみることができるはずである。また、中国旅行社の案内によると、ここからシュミセン(カイラス)まで、旅行者、ガイド、中国語通訳、現地通訳、コック、ドライバーの最低六人構成で、ランドクルーザーを用い二十一日間(四泊五日で往復したという旅行記もある。)の行程で、費用は約十五萬元だそうだ。時間と交通手段の得られない今回は断念せざるを得ない。またいつの日か、おとづれることを夢みながら帰途についた。


 追記

一 葬礼に関しては、いろんな報告書に、とりわけ京大、北大、神戸大学等の学術登山隊のレポートに詳細に記載されている。歴史学者色川大吉氏(東北大学西蔵学術登山隊人文班 一千八百八十六年参加)も個人的な遠慮のない意見と断った上で、踏査記(小学館)をだされている。このなかで色川氏はシガツェで高山病のため死亡した隊員の鳥葬に関して、中国登山協会にたいして、恨みつらみごとを記しておられているが、私はこれは誤解に基づくものだと思う(後年セラ寺で法要が行われ、中国側の配慮にお礼を述べられている)。現在チベツトで、烏葬を施行するには四萬元以上の費用が必要であり、水葬では四百〜一千元位ですむそうである。色川氏によれば、この時一千四百六十一元(日本円約十萬円)の費用がかかったとのことであるが、当時のチベット人の月収二十元以下では、支払限度をはるかに超えた金額である。ダライ・ラマ、パンチェン・ラマ等の活仏は別にして、チベットでは烏葬は、特別の高僧にのみとり行われる最高の葬儀であることにはまちがいない(ただ日本人的感覚には馴染まないことは確かである)。

二 専門書を読んだわけではないので正確なことはわからないが、日本で発行されているチベット密教(仏教・ラマ教)に関する数種類の書籍では、ダライ・ラマは観世音菩薩、パンチェン・ラマは阿弥陀如来の化身だと記載されている。現地のガイド、僧侶に数回にわたって聞き直したが、日本の案内書は間違いであると、いずれも同じ解答がかえってきた。

三 数年前に亡くなった先代パンチェン・ラマの転生者が、最近中国青海省で発見され、ダライ・ラマによって認定されたとの新聞報道がなされていたが、中国政府はこれを拒否したそうである。宗教に政治がからむと問題はややこしい。

四 チベット仏教4大宗派の1つ、カギュー派の活仏(生き仏)として中国政府が承認したカルマパ17世(15)が中国チベット自治区を離れ、インド北部ダラムサラに亡命政府を置く同 仏教最高位、ダライ・ラマ14世のもとにいることが7日明らかになった。事実上、亡命したと見られている。亡命政府関係者は「彼は5日にダラムサラに着いた。それ以上、何も言えな い」と述べ、中国との微妙な関係をうかがわせている。朝日新聞報道によると、カルマパ17世は、数人の供とともにチベットから約10日間歩いてダラムサラに着いた。ダラムサラで迎賓館に泊められ、ダライ・ラマ14世と会談している、という。ダライ・ラマ14世も、1959年の「チベット動乱」で、ヒマラヤを越えて陸路でインドに亡命した経緯がある。カルマパは、カギュー派の最高位の活仏。現在の17世は先 代の16世の死去後、転生霊童(生まれ変わり)として見いだされ92年に就位した。チベット動乱後、中国政府が初めて認 定した活仏であり、中国側にとってチベット仏教を管理する重 要な1歩となった。故16世の側近が別の少年を「本物」とかつぐ騒ぎもあったが、ダライ・ラマも結局、現在の17世を追認している。その17世が今回、ダライ・ラマの元に身を寄せたことになる。カギュー派信者の多いインド北東部シッキム州の僧院では 祝いの祭礼が行われているという。(1/7/2000)

五 チベット仏教
 7世紀以降にインドからチベットに伝わり定着した仏教で、現在はゲルク派、カギュー派、ニンマ派、サキャ派の4つの宗派があり、チベット仏教界の最高指導者ダライ・ラマ14世は最大宗派ゲルグ派の出身である。
 チベット仏教では、優れた僧(ラマ)を仏の化身である菩薩とみなし、その僧の死後49日以内に「転生者」を探す習慣がある。転生者と認められた人物を転生活仏、略して活仏(生き仏という意味)と呼ぶ習わしがある。


 
写真説明

一 十三層のポタラ宮殿

二 パンコル・チョエルテンのマンダラ(カタといわれる白い絹の布がかけられている)

三 屋台に無造作にならべられた頭蓋骨(酒杯には彫刻がみられる)

四 問答にはげむセラ寺の少年僧

五 キチュ河畔の水葬のおこなわれた所(ヤク舟の渡し場)

六 タルチョはためくカンパ・ラ

七 カンパ・ラからのヤムドク湖(遠くに雪をいただくヒマラヤ山系をみる)



参考文献  

チベット情報 曼陀羅 中国紀行 湖南地方 中国の変化

四川省紀行
高山病

チベット高原2000Kmを行く(川蔵南路公路)
世界の屋根 ヒマラヤ(エベレストアンナプルナ
アルプス(スイスの休日


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