チベット高原2000Kmを行く 1 ラサからコンボ・ギャムダへ
旅のラクダに揺られて幾千里、金と銀の鈴をつけて行きました。しかし、この東南の道(拉薩からみて)はラクダでなく馬(ロバ)が主役だ。激しい高低の差、心臓の動悸が聞こえる。上下の差は最大5000mにも達する。いわゆるシルクロードに比べて1000年以上古いという。その名は茶葉古道という。最長距離で3500Km以上、今回は約2500Kmを走った。K218はラサからガンツェまで行ったことがあり、K117はジョンホン(シーサンパンナ)はいづれも行ったことがあり、今回でそれぞれ繋がった。ガンツェ(チベット)からジョンホン(雲南省)まで3500Km(K218)以上が繋がったのだ。
中国国内で最も素晴らしい自然・人文景観が集中しているのが、「茶馬古道」だ。この貴重な文化遺産を埃に埋もれさせたり、廃墟と化したり、破壊してはならない。シャングリア(桃源郷)に継ぐ世界の有名観光地として開発することができる(中国国家観光局)。
東漸の道
コンボに行くなら食ものに注意しろ。喩え知人であっても、もてならわされる食べものには手をつけるな。とりあえず水と食べものには注意しろとよく言われる。チベットでは拉薩(都会)の人たちがコンボ(田舎・流刑地)を見下し、特別の地と認識していたには違いないようだ。痩せた黄色の大地の拉薩に比べコンボは緑豊かな、大樹の生い茂る、果物の豊富な神の祝福を受けた土地に違いないが、不毛の拉薩から見れば、やっかみも加わりこの地を蔑視するようでもある。コンボは桃よりも甘いジュウシーなりんごがたわわに実る、素晴らしい天国なのだ。今回は機会を得て拉薩から馬街道(茶馬街道を逆順)を行く機会を得たので旅文化人類学的考察を加えて報告する(渡辺一枝)。
四川省とチベット自治区を結ぶ幹線道路、川蔵公路(南路)をチベットの中心都市ラサから東のほうに出発すれば山南ロカ地域、コンボ地域、チャムド地域(カム地域)をえてマルカム(芒康)に到り、ここより南下すれば、真(サンズイ編)蔵公路(いわゆる茶馬古道)をとおり麗江、昆明(雲南省)に至る。塩井から北及び西はチベット自治区に入る。
人によってはジョンフォン(思芽)から徳欽(塩井)までを茶馬古道と表現しているが、此処では特別断らない限り雲南から拉薩チベットまでを茶馬街道と表現する。しいて言えばマルカム(芒康)までが茶馬古道であり、マルカムより西側は川蔵公路(南路)であり、合わせて此処では茶馬街道と称する。
「茶馬古道」の難路途中、地形は著しく変化し、厳しい寒さとひどい暑さを体験する。空気は薄く、息切れがする。パイフェル(喘鳴)も出るようだ。%SpO2は60%を切り最低を示す。海抜の落差は最大で4900メートルに達した。シーサンパンナの野象谷から蒼山やジ海のある大理古城、剣川の沙渓古鎮から玉竜雪山(5596メートル)の麓の麗江古城も訪れた。金沙江に沿って憧れのシャングリラへも入り、徳欽の梅里雪山(6740メートル)では一面に朝焼けに染まった壮麗な景色も目にした(2日間滞在)。瀾滄江と怒江を渡り、バルン・ズァンボ川が流れ、天険の地・タンメを抜け、ヤルン・ズァンボ川の大峡谷やナムチャバルワ峰(7756メートル)、シシャパンマ峰(8027メートル)では、神山や聖水の魅力とその雄大な姿を楽しみたい。「茶馬古道」の、絵のような美しい景色と独特な風土や人情が、素晴らしい印象を深く心に刻み込んだ。凡そチベットとは赤茶けた不毛の大地しか思い浮かばないが、緑豊かな自然、水と雪と氷の作り出すハーモニーが中国的神秘の旅えと誘ってくれる。九賽溝(四川省アムドチベット自治区)や黄龍でもそうだったがほんとにスイスの自然を見る思いだった。特に今回は数多くの氷河に接しその素晴らしい光景と自然に敬服した。
チベットアパ自治区の九賽溝や黄龍を訪れた時、自然そのままに残された風景に感動したが、此処(コンボ・カム・アムド)はそれ以上かもしれない。美しさから言えば、まさに中国のスイスなのだ。チベットは赤茶けた不毛の土地だけではなかった。緑豊かな大樹の茂り、水の豊富な、自然環境の豊かなご馳走が待ち構えている。
ガンデン・コンバ(甘丹寺)(高度3850m)
ゴンパとは寺であり僧廟群を指し示す言葉だ。ゲルグ派の総本山である。釈迦の予告で建てられたという説もある。1409年ゲルク派の始祖ツオンカバによって建てられた。ここの僧院長は生仏、転生でも世襲でもなく、拉薩の学僧の中から選挙で選ばれるということである。ここで寝居を共にすと言う僧侶は壱時7500人を超すといわれていたが現在では400人程度だといわれている。激しい修業を積み重ねて、永遠の時の流れに身をおいているのかもしれないが、外から見る限りいたって穏やかで人なっつこいようだ。山の頂上に立つ要塞の如き僧坊がガンデン・ゴンバなのだ。
チベットの人々はお茶を嗜む。人々の間に、広く伝わっている物語がある。昔、吐蕃王のチートソン(赤都松)が重病にかかり、あちこちの医者に頼ったが治らない。寝室で療養していたある日、窓の外から葉をくわえた美しい鳥が飛びこんで来た。チートソンが歩み寄ったとたん、鳥は窓のところにその葉を置いた。これほど美しく、鮮やかな、すがすがしい香りのする若葉を見たのは初めてだったチートソンがそれを口に入れると、たちまち身体の渇きが癒され、頭がすっきりとして気分がさわやかになり、体調も非常によくなったと言う。
そこで彼は、その葉をなんとしてでも見つけるようにと大臣たちに命じた。大臣たちはいたるところを探しまわった。ある大臣が東へいくつかの川を渡り、現在の雲南省のあたりでようやく例の葉を見つけた。彼はそれを吐蕃まで運び、チートソンに献上した。「この薬の木は何というものか」と大喜びのチートソンが尋ねると、大臣は「漢族の人々は茶と呼んでおります」と答えた。それ以来、大臣たちは茶を薬とみなし、毎日チートソンに煎じて飲ませた。数日後、果たしてチートソンの体は回復した。お茶が最初は生薬として吐蕃に取り入れられたということは、『漢藏史集』にも記録が残っている。
チベット族の作家であり、茶馬古道研究の専門家であるザシツォマーさんに、チベット地区のラマ僧たちの茶を飲む習慣について説明してもらった。最初に茶を飲むことをチベットに取り入れたのは、ラマ僧と貴族たちであったという。現在に至るまで、寺院では茶を飲む習慣と厳しい規則が受け継がれてきた。ラマ僧たちは毎日朝、昼、晩3回の読経の後、必ず全員揃って茶を飲むが、何種類かの茶を混ぜて大きな鍋で煎じた、非常に濃厚な茶である。お茶を煎じるのも、お茶を分配するのも、専任の人が責任をもって行う。
朝五時に起床すると、ラマ僧たちはまずツォチン大殿(大経堂)で経文を唱え、朝の茶を飲んでから、それぞれの僧舎に戻って休息を取るか、あるいは経文の学習を続ける。午前9時すぎになると、再び扎倉(僧院)の大殿に集まって読経し、昼の茶を飲む、といったことが3時間ほど続けられる。また、午後3時すぎにはそれぞれの康村(僧侶の原籍によって設立された経文を勉強するグループ)のラマ僧たちが、大殿に集まって経文を読んだり茶を飲んだりする。夜にも再び「康村」に集まり、茶を飲み、神仏に祈る。
茶を飲む時間になると、僧侶たちは各自決まった位置にきちんと座り、適当に座ったり、ガヤガヤとしゃべったり笑ったりすることは禁じられている。それぞれ持ってきた茶碗を自分の前に置くと、茶の分配を担当するラマ僧が、順番に茶をついでゆく。ラマ僧たちが茶を飲んでいるとき、殿堂はしんと静まりかえっている。1日3回全員揃って飲むほか、多くのラマ僧は各自の僧舎に茶葉と小さな鍋を用意し、休息時には自分で茶を煎じて飲んでいる(つい最近まで中国人(漢人)のほぼ総てのものが個人専用の茶碗を用意してそれに秋茶葉を入れ、お湯だけ継ぎ足してお茶を楽しんでいた)。
チベットの一般の人々も、1日3回お茶を飲む習慣がある。朝、普通はバター茶を飲む。沸かした湯に、煎じた濃厚な茶を混ぜ、塩とバターを入れ、チベットの特有のバター桶で加工する。バター茶は喉の渇きを潤す、チベット人の生活に欠かせない飲み物である。昼に甜茶(紅茶にミルクと砂糖)を飲むのはインド、ネパールから取り入れた習慣である。夜には清茶を飲む。自宅だけでなく、茶店でも茶を飲みながらおしゃべりをする。ラサ市内には大小ひっくるめて百以上の茶店があるという。
小昭寺前の茶店「唐拉歓聚」の前で、おかみさんのヤンツォンさんが熱心に客の呼び込みをしている。店内の明かりはほの暗く、テーブルをいくつか並べただけの、田舎の学校の教室のように質素な店である。並んで座っている客たちは、茶を飲みながらテレビを見ている。
「お茶を飲みにくるお客様が一番多いのは午後ですね。忙しいときで、百人以上のお客さんがやってきますよ」
ヤンツォンさんが熱々の甜茶をいれてくれた。飲み終わると、チベット族が客を接待するルールだといって、もう一杯飲めと勧められる。「チベット族の家にお客さんがあれば、主人は必ずお茶をふるまいます。お客さんの方は茶碗を手にしたら、二杯以上飲まなくてはなりません。一杯目を全部飲んでしまってはいけません。ほんの少しだけ残し、二杯目をいれてもらうのを待ちます。一杯しか飲まないのは、友好的ではないとみなされます」
それを聞いて、慌ててもう一杯ごちそうになった。
ヤンツォンさんの茶店を出て、一軒一軒回って当時の「茶馬互市」の跡を捜そうとしたが、残念ながら何も見つけることはできなかった。街の両側に並んでいるのはほとんどが日用品を売っている新しい店で、わずかに数軒が四川省雅安産のお茶を売っているだけであった。ある大きな茶屋の前で、店主のバイマさんと話をした。
「かつては内陸からの茶は、まず列車でゴルムド(格爾木)に運ばれ、それからトラックでラサに運ばれたので、非常に手間がかかっていました。今では青海・チベット鉄道が開通したので、ずいぶん便利になりました」
ラサの最後の夜、「浮遊」という名の小さなバーで、北京からやってきたという斌子、雷子と名乗る若い歌手に出会った。「チベットに来たけれど、ラサから成都へ行って、雲南省にも行きたい。行き着いたところなら、どこででも歌うんだ」
私たちがジープで茶馬古道を巡ってきたことを知ると、雷子さんは羨ましげな表情を見せた。私たちにせがまれると、「白樺林」という歌を歌ってくれた。
「静かな村に真っ白な雪がひらひらと舞う。暗い空の下にハトが飛んでゆく。」
チベットのヒチたちの話には必ずハトが出てくる。遠い異郷で、家族のことを懐かしんだのだろうか。人々の心揺さぶる歌を歌いながら、雷子は目に涙をためていた。
ヒマラヤ山塊や横断山脈、何れも特定はし難いが見るだけで楽しい。遠い遠い(距離的にも時間的にも)若かりし時の夢となってしまった。望遠レンズなら何処までも伸ばせる。第一歩くことが苦手な現在2000m以上のレンズが頼りであり、しかも赤外線フイルムだ。これだと少しぐらい雰囲気が出てくるだろう。この世の風景とはとても感じられない。この世は総てデジタルではない。



チベット高原2000Kmを行く 2 (拉薩)
チベット高原2000Kmを行く 3 (八一)
チベット高原2000Kmを行く 4 (然鳥)
チベット高原2000Kmを行く 5 (拉古)
チベット高原2000Kmを行く 6 (芒康)
チベット高原2000Kmを行く 7 (塩井・梅里)
チベット高原2000Kmを行く 8 (徳欽)
チベット高原2000Kmを行く 9 (維西)
チベット高原2000Kmを行く 10 (剣川)
大理古城を行く 11 (雲南)
麗江を行く 12 (雲南)
シーサンパンナに朝が来た
(文中敬称略)