茶馬古道(街道) 拉薩(チベット)からシーサンパンナ(雲南)まで3000Kmを走る
2010.07.01 設置


次郎はチベット自治区に3回入ったことになる。チャンタン高原(ラサ)には2回とアムド地方アパ(九賽溝・黄龍)に1回と行ったことがある。拉薩には少し参った(体調)がそれより高度のすこし高いガンチェ、シガチェは大丈夫だった。南米のクスコからブーノの高原列車にも乗ったが高山病はOKだった。でも今度はだいぶ事情が違うようだ。全線4000mを超える高原、はたして行けるのか、不安が付き纏う。これらは随分と以前のことだった。それから体調も崩したし、第一歩行が苦手となってしまった。こんな困難に打ち勝つことが出来れば大いに自信に繋がるだろう。
チベットには3箇所の空港がありいづれも川蔵公路に沿っている。(邦達空港(チャムド空港)、ミリン空港(林芝空港)、コンカ空港(ラサ空港))、来年にはアリ空港が開設されるらしい。アリが出来るとカイラス詣でもたやすくなり、現実のものとなるだろう。邦達空港(チャムド空港)は幣達空港のことですね(旅行人)。軍用が民用に転換されて、あるいは併用の空港は各地にあるようですが。ミリン空港(林芝空港)は八一にあるものですか。コンカ空港(ラサ空港)は従来からのものですね。アリは来年開港されるようですが、是非訪ねてみたいものです。カイラス一周は徒歩しか手段はないでしょうなあ。駕篭屋でもいれば助かるのですが(?)。(ML
chinatravel)
まず空港を調べたのは訳がある。もし体調不良のときの脱出用だ。喩え高山病にでもなったら高度の低い場所に避難せねばならない。でもこれも気休めだろう。実際は間に合わないだろう。
四川省甘孜蔵(チベット)族自治州の康定空港(邦達空港)に26日(2007/10)、史上初の民間用機が着陸した。同空港は海抜4280メートルで、四川省甘孜州康定県の西北部の折多と言う山の上に位置し、海抜4334メートルの西蔵(チベット)クンガ空港に次ぐ、海抜世界第2位の空港。今回のテスト飛行の成功により、民間機運航の幕が開いた。同空港では、空港の総工費は9億6000万元(約147億円)、年間33万人の利用客に対応でき、座席数120のボーイング737型機やエアバス319型機を受け入れることができる。年間33万人の旅客と、1980トンの貨物の輸送を計画している(2007.10.29)。
雲南からチベットに通じる道がある。茶馬街道(雲南省)で緑豊かな雲南の果実(主にお茶・塩)をチベットを越えてインド・パキスタン・ネパールへと送り届け、また帰りに彼の地の馬・ヤク(牛)等の動物を手に入れてくるという交易の要衝なのだ。この交易路はシルクロードが開設されるより古く1000年も前からあったという。茶馬街道は一応景洪(シーサンパンナ)から大理、麗江、徳欽と北上しマルカム(芒康)で川蔵公路(南路)に突き当たる。赤茶けた不毛の土地とばかり印象の強いチベットではあるが此処南部コンボ地区からカム地区にかけては高度の高い割りに素晴らしい山水の情景を呈している。緑豊かで水が豊富、雪渓(氷河)の留まる渓谷の美は何と表現したらよいのであろうか(マウイ)。まるでカナダというよりスイスの如きだ。
真(サンズイ偏)蔵公路(昆明ー康定−芒康-麗江)と川蔵公路南路(昆明-芒康ー拉薩)は現代ではほぼすべての役目を果たし、自動車の登場と共にほぼ廃れてしまったが、全路4000mを越す(チベット自治区)厳しい自然条件の下、珍しい自然環境の中、観光に一肌貫いているようだ。
ラオス、ミャンマーとの国境地帯に位置する雲南省最南のシーサンパンナやプーアルで栽培された茶葉が、北部(雲南省)の大理や麗江を経てチベットへと運ばれていく「茶馬古道」、なんとノスタルジックであろうか。この交易は7世紀の唐代に始まり、千年以上の長きに渡って続けられた。いわゆる絹の道(シルクドーロ)に始まる1000年もの以前のことである(西南シルクロードとも呼ばれる)。
雲南省からは茶(プアール茶や黒茶のような醗酵茶)や塩や絹、チベットからは馬や毛皮や薬草が交易品として扱われ、それらは馬幇と呼ばれる隊商によって運ばれた。隊商の大きさは様々で、護衛と数百頭もの馬やラクダで構成される大隊商もあれば、護衛のほとんどいない小さな隊商もあったようだ。彼らは猛獣や山賊から身を守るために、片道約100日間という長い道程を自ら武装して旅を続けたそうである。
1960年代に入り自動車道の建設が盛んになると、この交易は少なくなっていったが、当時の姿を残す宿場町や現在も生産されている主要交易品の塩などから、今でも茶馬古道の痕跡を見ることができる。全路高度4000mを越す難路、自然の厳しい条件の下、すっかり荒れ果ててしまったが当時の痕跡を訪ねてみたいものだ。現在(2009.10.14)では道路は全線開通しており、ただ舗装が50%未満である。しかし地面は硬く、砂埃は相当酷かったが道幅は十二分にあり、幅の広い道路が完成まじかとなっていた。恐らく来春には全線舗装道路が開通しているだろう(11月より降雪の為工事は中断するという)。
南ヒマラヤの最高峰ナムチャバルワ(南迦巴瓦)雪山(7782m)は慄然としてその全容を現す。「蜀の山の王」とも称されるミニヤコンカは標高7556m(世界第11位)で、大雪山脈の最高峰でもある。四川省カンゼ・チベット族自治州に位置する。その登頂は「チョモランマよりもはるかに危険」と言われ、対外開放からこれまでに登頂に成功したのは20人足らずで、37人が登頂や下山途中で命を落としている。四川省の省都成都の近くの峨眉山頂から見たミニアコンガは独峯の如くまさしく慄然と上品に屹立していた。峨眉山からは真西に白衣の布を被り立っていた。また梅里雪山(6740m)玉龍雪山(5590m)が行く手に立ちはだかる。梅里雪山では京大山岳部の遭難事故(雪崩に巻き込まれて17人のうら若き犠牲者が出た)がいたたましい。
西南シルクロード・茶馬古道
青藏高原と中国内地の間には千数百年にわたって漢族とチベット族が往来する古い街道が存在していた。その街道は地勢が最も高く険しく文明文化が伝播した古道として現在世界中に知られている。この古道はまた海外文化交流の街道でもあり、シルクロードと同様、中華文明とインド文明との架橋となった。
中国雲南省の西双版納や思茅といった茶の生産地を起点とし、西北に向かって今の大理、麗江、適慶を経て、チベットの昌都、林芝、ラサへ至り、さらにラサから南下しそれぞれミャンマー、ネパール、インドへ至った。キャラバンは雲南省から大陸横断のでこぼこの山道に沿って、はるかチベット、インドへ茶、砂糖、塩などの生活必需品を運び、チベットからは復路、牛馬、羊、毛皮などを運んだ。そのため、専門家たちはこの古道を"茶馬古道"と名づけた。
茶馬古道は途中横切る山域の青藏高原は地形が複雑を極め、海抜500メートルから5000メートルの広大な地域に伸びていて、生物の多様性に最も恵まれた地区である。この4,000余キロにわたって延々と続く古道には、数多くの民族集団はこの広大な地域に分布し、それに山や川が縦横に交錯しているし、気候の垂直分布もあるし、独特な地理的単元を成して、違う民族集団の独特な民族文化を作った。これらの民族文化は茶馬古道の存在で、お互いに影響して、多彩な多民族文化を作り出した。タイ族の貝葉(ベイェ)文化、イ族の祭壇における火の文化、ペー族の本主(ベンジュ)文化、納西(ナシ)族の東巴(トンバ)文化、チベット族の雪域の文化があり、各民族はこの古道において交わりながら融合発展してきた。
茶馬古道沿線は今もまだ20余りの民族が生活している。その言語、文化はそれぞれ自分独特な一面を持っていると同時に、共通の部分もある。なぜこういうふうになったかというと、この広大な地域は歴史上多くの民族集団の影響を受けたことがあるからである。最も影響の深いのは、例えば、インド文化、中原文化、西北氏羌文化、東南沿海の百越文化など。これら世界を変えたことのある文化は茶馬古道で融合した。今日、チベット族の庭の中からタイ族の特徴のある音楽が聞こえる。チベット左貢県加朗村のチベット族村人は世世代代歌う歌の中に、雲南の蒼山耳海の明月がよく出てくる。雪山の麓に、ナシ族祖先が残った村と水利施設の遺跡がある。遍く各地にあるお寺の壁画にインド、ネパール文化と漢文化の色彩と線条が見える。川谷や山坂で沢山の似ている岩画と石棺桶墓がある。村の奥にはまだ沢山の現代文明に忘れられている特異な風俗が残っている。
馬輸送隊は金沙江の東側の雲貴高原から出発して、横断山脈の山水を横切って、広い青蔵高原に登る。つまり、この二つの高原を貫く茶馬古道を歩いて、沢山のお茶と山の特産物を輸送していた。馬追いは茶馬古道の主人公となり、相当重要な役割を果たす。彼らは馬輸送隊の大部分の仕事を担当する。人々は普通馬輸送隊の馬追いを「馬脚子」と言う。「馬鍋頭」は彼らのボス、馬輸送隊の核心で、各種のことを管理する。「馬鍋頭」、特に一部の小さい馬輸送隊の「馬鍋頭」は、大体自分で馬輸送隊に加入した普通の労働者で、ほかの馬追いと同じ鍋のご飯を食べる。「馬鍋頭」という言い方はここから由来したわけである。「馬鍋頭」と「馬脚子」は今まで大理、麗江に暮らしています。彼らの泊る宿「馬店」が今でも巍山、雲龍、寺登街などに点在している。
草木も音楽に合わせて踊るというジョンホン(シーサンパンナ)、大理、麗江、シャングリラは歴史上で「茶馬古道」の重鎮である。大自然の入神の技は、独特な地形、不思議で人を魅了させる自然の風景を作りなした。この不思議な地で、各民族がうちとけ、多様な文化交錯と共存している。その古道沿いの街、村、バザールを訪れてみると、人々は元気に暮らしていて歴史がそのまま凍りついたように時をとめて残っている。(2007年8月)
青蔵高原とは中国の青海省、西蔵(チベット)自治区、四川省西部、雲南省北西部などのチベット族の居住地域を指します。この地域は複雑な地形のため、北西部は寒く、降雨量が少なく乾燥しており、南東部は降雨量が多く、温暖で湿潤という独特な気候が形成されています。この他にもさまざまな地域的気候と著しい立体気候帯もある。ここは“世界の屋根”と呼ばれる空高く聳え立つ雪山、とうとうと流れる大きな川、点在する静かな青い湖……、ここでは群れをなして草原を移動するヤクと羊、渓谷に漂う黄金色のハダカムギなど四季折々素晴らしい高原風景を見ることができます。ここに暮らすチベット族は、悠久な歴史と独特の宗教文化を持ち、厳かな古寺、素朴な歌と踊りは人々をうっとりさせる。
南にヒマラヤ山脈がそびえ、北にタングラ山脈が延々と続き、東は横断山脈、西には昆侖山、中央部にはガンディセ山脈が連なっています。中でもヒマラヤ山脈は地球上で最も高く、年代的にも最も新しい山系で、東西2400キロ、南北200ないし300キロもある広大な山脈です。この山系は高い山峰が林立し、8000メートル峰が11座、7000メートル以上の山峰が50余りもある。このように高くそびえる山峰が一カ所に集まっているところは、世界の山岳地帯でまれに見る奇観と言えるでしょう。大きなピラミッドのようなチョモランマ峰は、群れを抜いており、独特の景観を呈し、世界最高峰となっている。地形のせいか、高い峰の頂上には常に旗雲の現象が見える。それはまるで白い雲が旗印のようにかかり、時には波のように激しく沸き立ち、空高く立ち昇る細長い炊煙や、疾駆する駿馬のようになったり、また女神のベールのようになったりする。これらはすべて雪山に珍しい風光と神秘的な色を添えている。
緯度の高い北海道では内地より+1000mの高さが妥当だとされている。つまり北海道の2000m級の山々は内地の3000m級に匹敵するという。7月16日(2009/7)10数名の遭難事故がおきた(北海道大雪山系トムラウシ岳2141m)。夏だからといって油断大敵、山を甘く見すぎたのだろう。異常体温低下現象だという。異常気象には違いないが、真摯に取り組むべきだろう。山の高さに応じて、それ独自の表情を持っている。本場アルプスでは唯の瞬間だはあるがアイガーの北壁も見たし、3000m〜4000m以上の山々にも登山列車・ロープウエイではあるが経験した。でも5〜6000m級の山、7〜8000m級の山々は又違うようだ。シャツを脱ぎ捨てた厳冬期の不還の峰(唐松岳)でも天候が違えば遭難ものだ。でも6000〜7000m級の山が直ぐそこにある。手を伸ばせば届くようだ。これが未踏峰なんて信じられない。つい散歩のついでに登ってみたいものだ。変な欲望に取り付かれる。白いだけではない。青白く光り輝いている。氷なのだ。アイスバーンなのだ。
悠久なる歴史と文化
人々がチベット族地域の景観に憧れを抱くのは、チョカン寺、ポタラ宮、ギュゲの古城、ゾンサンの砦など、その悠久な歴史と独特の宗教文化を今に残す人文景観にあります。様々な風習に対する人文的理解を持って始めて、そのロマンチックで神秘的な色彩に富む景観を本当の意味で満喫することができるのです。
仏教の原点
チベット仏教はチベット族の伝統的文化の基礎で、政治、経済、教育、生活、伝統的民家はその他の文化の形態と同じように、独特な個性を持つものです。チベット族の民家はカラフルで、チベット南部と四川省カンズ(甘孜)地区の谷のようなくぼ地のトーチカ風家屋、北部の牧畜地区のテント、ヤルツアンポ江流域の営林区の木造建物はそれぞれ特色があり、アリ(阿里)高原では横穴式住居を目にすることさえあります。これらは仏教寺院を通じてのもので、住居、風俗、習俗などの諸方面に深い影響を及ぼしています。
華麗なるチベット民族
チベット族はおしゃれで、美を表現することに長じた民族です。男女問わず珊瑚、めのう、トルコ石、金、象牙などさまざまな装飾品を身につけ、服装と頭飾りのデザインは、地区ごとの違いはあっても、その模様と色づかいはみな、吉祥を願い美麗を尊ぶ(たっとぶ)ことで共通しています。昔は男女ともみな弁髪(べんぱつ)をしたものです。女性は、弁髪に色糸(いろいと)を編み入れ、頭上で巻きつけます。男性は弁髪を一本にするか、または髪が頭を覆う程度に短く切ります。服飾は華麗にして、中国各民族の中でも際立っています。住居の装飾も非常に重んじ、室内の壁の上部に吉祥の象徴である模様が描かれているのをよく見かけます。また客間の内壁には青空・土地・海を象徴する青、緑、赤色3本の帯が描かれています。濃厚な宗教色に富むこと、これこそチベットの民家がその他の民族、民家と違う著しい特色と言えます。服装と住居は、もちろんチベット族の優れた伝統文化の重要な一部となっています。チベット族地域は世界中の旅行者、特にカメラマンにとって一つの神秘の楽園、或いは夢の楽園だと思われています。この地球上で一番高い高原はロマンチックな処女地とも云われ、いつも私はこの風土に誘われるのです。私はかれこれ数十回にもなりますが、あまりに広くて、まだ行っていないところは勿論、二度、三度と訪れたいところが沢山あります。(2007年8月)
青藏高原と中国内地の間には千数百年にわたって漢族とチベット族が往来する古い街道が存在していた。その街道は地勢が最も高く険しく文明文化が伝播した古道として現在世界中に知られている。
キャラバンはこのでこぼこの山道に沿って、はるかチベットへ茶、砂糖、塩などの生活必需品を運び、チベットからは復路、牛馬、羊、毛皮などを運んだ。そのため、専門家たちはこの古道を"茶馬古道"と名づけた。この4,000余キロにわたって延々と続く古道には、西双版納(シーサンバンナ)タイ族の貝葉(ベイェ)文化、イ族の祭壇における火の文化、ペー族の本主(ベンジュ)文化、納西(ナシ)族の東巴(トンバ)文化、チベット族の雪域の文化があり、各民族はこの古道において交わりながら融合発展してきた。
この古道はまた海外文化交流の街道でもあり、中華文明とインド文明との架橋となった。茶馬古道が途中横切る山域の青藏高原は地形が複雑を極め、生物の多様性に最も恵まれた地区で、その科学調査価値は極めて高い。
考証によれば、茶馬古道には2本の主要ルートがあり、一つは雲南省西双版納(シーサンバンナ)や思茅(スーマオ)といった茶の生産地を起点とし、西北に向かって今の大理(ダーリ)、麗江(リージャン)、迪慶(デチェン)を経て、チベットの昌都(チャムド)、林芝(ニンティ)、ラサへ至り、さらにラサから南下しそれぞれミャンマー、ネパール、インドへ至った。もう一つのルートは、現在の四川省雅安(ヤーアン)から瀘定(ルーディン)、康定(カンディン)、理塘(リタン)、巴塘(パタン)、昌都(チャムド)、ラサを通り、ネパール、インドへ至ったという。
雲南省、四川省、チベット自治区が共同発起した今回の茶馬古道総合科学実地調査活動は、歴史学、考古学、人類学、社会学、民俗学、言語学、地理学、地質学、動物学、植物学、経済学、観光生態学といった方面の多くの専門家、学者が一堂に会し、それぞれ異なった角度から茶馬古道について全面的に掘り下げた実地調査を行い、それぞれの地域の経済社会発展に科学的なよりどころを提供しようというもの。
ここに言及されている少数民族のうち、タイ族は雲南省に居住する水稲耕作を行うタイ系の少数民族で、その"水かけ祭"は有名である。イ族はチベット系少数民族で.雲南の他、四川、貴州にも分布.南詔王国を建てた騎馬民族系と農耕民族系の二種あり、前者の女性は被り物に特徴がある。ペー族もまたチベット系少数民族の一つで,主に雲南省の大理ペー族自治州に居住している。村ごとに、「本主」という土地神を信仰していて、1年に何度か祭りを行っている。
雲南「三江並流」風景区を世界遺産に (2002年 6月 9日付)
中国は先頃、雲南省西北部"三江並流"国家重点風景名勝区を世界自然遺産として正式にユネスコに申請した。これにより、中国西部の貴重な自然資源の永久保存と利用が促されることになる。
"三江並流"は、青藏高原に発する金沙江(長江上流)、瀾滄江(メコン河上流)、怒江(サルウィン河上流)の三河が雲南省西北部で約170キロ並行して流れ、担当力
(タンタンリカ)山、高黎貢(ガオリゴン)山、怒(ヌー)山、そして雲峰(ユンリン)を抜けていく。その区間で、金沙江、瀾滄江間の最短直線距離は66キロ、瀾滄江と怒江間は19キロにも満たず、 "並行して流れながらも決して合流しない"という世界でも唯一の奇観を呈している。
1988年に国務院の認可を経て国家重点風景名勝区を設けたこの区域の面積は3.4万平方キロメートル余り。高山峡谷、雪峰氷河、高原湿地、森林草地、淡水湖といった絶景と希少貴重な動植物に恵まれており、チベット族、ナシ族、リス族、イ族、トールン続、ヌー族など14の少数民族が生活し、民族色や文化も豊かである。
青海省考古学研究所の許新国(シュ・シングオ)所長によれば、青藏鉄道沿線における考古学調査で、今から3〜1万年前の細石器時代遺跡と千年以上前の古代墳墓群が発見されたという。今回の調査が始まってまもなく考古学調査員が地質部門から提供された手がかりをもとに青藏鉄道建設地、三岔河(サンチャーホー)大橋付近の地表で石核、石片、石刀など細石器時代のものを発見した。
これは旧石器時代末期から新石器時代初期にあたる細石器時代に属するもので、チベットや内モンゴルで発見されている同一時代の石器と非常に似ており、同じ流れを汲むものと思われる。この発見によって、内モンゴル自治区のハイラルからチベット自治区のニェラムに至る中華文明伝播三日月地帯のうち欠けている青海省部分を補う可能性も出てきた。それは中華民族の祖先が3〜1万年前に青藏高原青海の地で生活していたことを物語っている。
考古学調査員たちはさらに6ヶ所15基の古代墳墓も発見。そのうち最大のものは直径70メートル、高さ20メートルある。許所長によれば、その外形は、かつて青海省都蘭(ドゥラン)県で発見された千年以上前の吐蕃王国の古墳に似ているという。その他、格爾木(ゴルムド)河南岸で大小さまざまの白い石で囲んだ16基の石積み墳墓群を発見。1千〜3千年前頃の羌(チァン)族の墓と推測されている。三ヶ月間にわたる青藏鉄道文物全面調査活動は、目下進行中で、考古学調査員は国内外の考古学会に認められる確かな証拠を手にしようと、年内に三岔河(サンチャーホー)で発見された細石器遺跡の発掘調査を行う予定。
チベット貧困地区における義務教育の成果 (2002年 6月13日付)
"国家貧困地区義務教育プロジェクト"がチベットで実施されて四年余り、中央及び地方は第一期建設に教育資金2,475億元を投入、70県196ヶ所の小中学校を改築拡張し、乏しかったチベットの教育施設を大いに改善した。チベット自治区教育庁基礎教育所によれば、1998年から2000年までの第一期建設期間に対象となった小中学校では図書85万冊以上、机椅子35,000セットを購入し、校長、教師延べ4,241人を育成、1,000余万元の教育機器設備を購入し、教育基本条件を備えた小学校を自治区全体で10数か所から300ヶ所以上に増やした。 "義務教育プロジェクト"の実施以来、チベットにおける義務教育の発展は加速され、"普通6年制"(6年制の完全小学校)は11県から44県に、人口比率で言うと22%から62.84%に増加。"普通9年制"(6年制完全小学校と3年制初級中学)はゼロから5県に、10.27%増加し、チベットの普通義務教育活動を大いに促進している。
"国家貧困地区義務教育プロジェクト"は、もともと国家教育委員会と財政部が中央義務教育特別支出金を用いて設立したもので、中国の歴史始まって以来、中央が最多の特別資金を投入、最大規模の全国的基礎教育プロジェクトである。1995年に全国レベルで実施され、重点的に貧困地区における義務教育実施を支援してきた。チベットでは昨年から第二期"義務教育プロジェクト"を実施、中央は五年間で累計1.7億元、自治区が8,500万元を投入する。小中学校老朽化校舎改築プロジェクトでは中央が5,500万元を投入し、116件の建設を計画しており、現在すでに55件着工している。
青海省のしられざる景勝地(2002年 6月18日付)
青海省では、冷湖(ロンホー)"雅丹"(ヤルタン:ウイグル語で"険しい岩壁の丘"の意、乾燥地帯の風蝕地形)地区に通じる道路を改修し、これまであまり知られていなかった7千5百万年前に形成された珍しい地形区を旅行者に開放しようとしている。ツァイダム盆地の"風斧"は、数千万年にわたる侵蝕によりすさまじい奇観を呈する総面積2.15万平方キロの "雅丹"林で、これまで国内で発見されたなかでも最大の風蝕土林群だという。峠からはるかに続く丘々を望めば、数限りない雄大な"鯨の群れ"が南に向かって延々と海原に横たわっているかのようであるが、近くでよく見てみるとこれまたさまざまな姿をしている。あるものは帆に風をはらみいまにも遠方へ漕ぎ出そうとする軍船のよう、あるものは勇ましい雄鶏のようにまさに首を伸ばして鳴くところ。遣り水を引いた屋敷の東屋や楼閣にも見てとれるし、動物園にいる珍しいかわいい動物たちにも見える。
雅丹(ヤルタン)地形が最も集中している冷湖(ロンホー)地区の責任者によれば、1.7万平方キロの土地で雅丹林の面積は94%以上を占めており、至るところにその不思議な形があるという。青海省冷湖は敦煌から約300キロほど南西に下ったところにあり、甘粛省、新疆ウィグル自治区とのほぼ境界に位置しています。 こちらには敦煌の雅丹(ヤルタン)が写真入で紹介されています。トルコのカパドキアなんかもヤルタン地形なんでしょうか?
チベットのあらたな貧困支援 (2002年 6月19日付)
6月18日、楊伝堂(ヤン・チュアンタン)チベット自治区党委員会副書記・貧困支援開発指導班班長は、チベットの新たな貧困支援開発は"八七貧困支援計画"にはなかった新たな5つの特徴があると語った。
その5つの特徴とは、
一) 貧困支援開発の対象増加。
これまでの48万人という貧困支援対象人口は、現在一人当たり実質年収1,300元以下の120余万人に拡大している。
二) 貧困支援開発の範囲拡大。
これまで18県だった国定貧困県は、現在34の重点支援県と393の重点支援郷鎮に拡大している。
三) 貧困支援開発の規準上昇。
もともと農業区では一人当たりの実質年収600元、牧畜区では700元、半農半牧区では650元を規準としていたが、第十期五ヶ年計画期末の一人当たり実質年収は1,700元以上に達している。
四) 貧困支援開発任務の変化。
これまで主に絶対貧困人口の生存問題を解決することから、現在では相対貧困人口の発展問題を解決することに変わってきている。
五) 貧困支援開発内容の複雑化。
貧困人口の生活問題を解決することから、総合的な開発と全面的発展に変わってきている。
絶対的貧困から相対的貧困への変化は、市場経済の発展が農牧地区へも浸透していったことを如実に物語っているようです。貧富の差拡大は農牧区のみならず都市部でも深刻な影を落としています。
何にも理解し得ないが、チベット人の中国人(漢人)に対する一種の根強い不信感がある。貧困から来た羨望もあるようだが、宗教的弾圧でコッピドクやられた心の傷が癒えていないようだ。あの文化大革命で完全にまで打ちのめされたチベット仏教に対する心のケアが不十分だ。
ウルムチ騒動(7.5事件 7.7事件)
6日(2009年)付新華社電によると、新疆ウイグル自治区ウルムチ市で5日に発生した暴動について、同自治区のヌル・ベクリ主席は6日朝、広東省内で発生した乱闘を中国国外の組織が意図的に利用して、大規模な暴動に導いたものと述べた。ヌル・ベクリ主席が指摘した広東省での乱闘は、同省韶関市の玩具工場で6月26日に発生した。新疆ウイグル自治区からの契約労働者とその他の従業員約数百人が争い、120人が負傷。うち新疆ウイグル籍の従業員は約80人で、2人が死亡した。ヌル・ベクリ主席によると、中国国外の勢力が広東省での乱闘事件を口実に、ウルムチ市内での「中国攻撃」のデモ実施を扇動。7月5日に発生したデモは、午後8時ごろまでに建物や自動車への放火などにエスカレートして、死傷者が多数発生した。中国共産党ウルムチ市委員会によると、5日午後の暴動で140人が死亡し828人が負傷。放火された車両は261台で、商店203軒が襲われた。ヌル・ベクリ主席は、「6月26日の乱闘は社会治安上の事件だったが、中国国外の勢力が悪意をもって中国共産党と中国政府を攻撃した。さまざまな策謀で真相を知らない群集を扇動し、民族間の団結を手ひどく破壊した」と述べた。
亡命ウイグル人組織「世界ウイグル会議」のラビア・カーディル議長は10日、ワシントンの連邦議会で記者会見し、暴動で死亡したウイグル族は800〜1000人に上るとの見方を明らかにした。地元からの情報によるもので、多くは中国公安当局の発砲などで殺害されたという。
地球最後の秘境
地球最後の秘境と思って挑んでみたが、一寸不便な田舎に過ぎなかった。どの邨(街)も立派なものでホテルも完備されており、レストランやコンビニも充実していた。道路はほぼ舗装(70%)されており四駆の乗り心地も良かった。よほどの物を望まない限り、現地調達はすべてOKであった。唯自然条件は厳しかった。未だ10月だというのに最低気温は氷点下10度を切り、雪にも見舞われた。でも、中国にもこんなところ(スイスやカナダのような風景)があったのかと自然の美しさに酔い痺れ再認識さされた。ポタラ宮殿始め拉薩の寺々は今回は訪問しなかった。
ダライ・ラマ 「輪廻転生にこだわらず」 横浜で講演(209.6.26)
来日中のチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世(74)は26日、横浜市内で講演し、自身の後継者選びについて「新しい方法をとってもかまわない」と述べ、輪廻転生(りんねてんしょう)制度による伝統的な選び方にはこだわらないとの考えを示した。チベット仏教指導者の後継者を巡っては、ダライ・ラマが95年、ナンバー2のパンチェン・ラマ11世にゲドン・チョエキ・ニマ氏(21)を公認したが、これを拒否した中国政府はギャインツァイン・ノルブ氏(20)を指名した。亡命チベット人社会には、ダライ・ラマが死去すれば中国政府がチベット側の意向を無視して後継者を選ぶとの懸念がある。ダライ・ラマは「(後継者について)私自身が口を挟むべきことではない」とした上で「これから先のダライ・ラマ制度を存続すべきかはチベットの民衆が決めるべきことだ」と述べた
拉薩(チベット)
シルクロード
楼蘭古城址
天山北路
天山南路(崑崙北路)
タクマラカン周遊道路
ヒマラヤ望遠
曼荼羅の神々
茶馬街道
シーサンパンナに朝が来た(ジョンホン)
四川紀行
高山病