シーサンパンナに朝がきた


                                   

第一話 夢の雲南・少数民族の国(照葉樹林文化論)

 雲南、なんとエキゾチックな響きのある言葉だろうか?雲の彼方の空とおく幸い住むと人の言う。誰の作になるのか知らないが、雲の遥かかなたの南(中国から見て)の方の、世界の屋根ヒマラヤ山脈の向こう側の、ロマンと夢の国、情熱の国、シーサンパンナ(景洪)、中国であって中国でない、たまらないエクセントリックな戦慄を与える。いつか、きっと、いつかは必ず訪れたいと心に秘めながら、その実現のため、北はチベットの地から、あるいは南のタイ、ミャンマー、ベトナムから乞い願った少数民族の国の訪問がやっとかなえられたのである。麻薬常習者ではないが、芥子(ケシ)の花咲くゴールデントライアングル、激しさを内に秘めた静かなる巨龍メコンの流れ、白昼夢を思わせる蝶々の乱舞、椰子の葉影で民族衣装に包まれた女性がにっこりと微笑み、川原には真っ赤なルビーや緑こきビルマ翡翠がごろごろと散らばっている、野生の象(注1)や虎の住むという少数民族の宝庫シーサンパンナ、それははたしてどんな国なのだろうか?

 もう二十年ほど前になるが、上山春平教授(京都学派)等が、照葉樹林文化論なるものを提唱されたが、丁度ここ雲南からヒマラヤにかける地域にそのルーツを見いだすことができる。現代日本社会は情報化、工業化文化に脱皮しようといしているが、日本古来の伝統文化である、宮中の神嘗祭、新嘗祭、大嘗祭等はすべて稲作にまつわる祭りであり、陛下ご自身で田植えをされ、稲刈りをおこなわれる。皇后様はクヌギ・コナラ等で天蚕を飼育されているし、このように皇室の伝統のなかで照葉樹林農耕文化が受け継がれている。羽衣伝説、歌垣、米を主食とする食生活、和服の原型を見いだすことの出来る民族衣装、日本民族文化と雲南文化との共通点が多すぎる。このへんが、何ともいえないノスタルジーを駆り立てるのか、日本民族文化のルーツ、雲南照葉樹林文化とは?

 中国五十五の少数民族のうち、ナシ族・ペー族・タイ族・ジンポー族・プーラン族・ジノー族・ラフ族・ハニ族・モンゴル族・ミャオ族・イ族・トン族・ヤオ族・チワン族等々二十二の少数民族に出会うことの出来るという、ここは中国の少数民族の一大博物館であり、一同に会し得る唯一の場所なのだ。

第二話 三本の荒れ狂う大龍(図1)

 雲南には、北から南にかけて三本の大河が流れている。西から順に怒江(ヌーチィアン)、瀾滄江(ランツァチィアン)(写真1)金沙江(チンシャーチィアン)であり、ヌチィアンはミャンマーに入ればサルウイン川と名をかえ、ランツァチィアンは豊かなるメコン川となってラオスからカンボジアをえてヴェトナムに入り、チンシャーチィアンは世界一の大河・長江(揚子江)となり東に向かいやがては東シナ海に注がれる。それぞれチベット高原に離ればなれに源流を持ちながら、三本のこの大龍は、ここ中国西南部の辺境の地雲南で、合流するかの如く寄り添いながら(最短距離は六十五キロメートルに接近する)も、決して結ばれ、交わることなく、再び離ればなれに泳ぎ出すのである。

第三話 昆明

 昆明は雲南省の省都で、いわゆる雲南の入り口でもある。人口三百万人位の大都会であるが、街中は道路も広く整然と整備されており、立派な街路樹がどこまでもつづき、公園や緑も多くこじんまりとまとまったあか抜けした街だ。年間平均気温が十五度といい、一年中花がさいており緑が多く、温暖な気候から、まったく春城(昆明の別名)とはよく言い表している。緯度からいえば、もう亜熱帯に属するここ昆明も高度が千九百メートル米もあるので夜間は長袖のシャツが必要だ。でも昼間は紫外線がやけに強い。通りより一歩裏側に入れば、バザールあり、マーケット、食堂、野外レストラン、劇場、果物屋、お茶屋、布地屋、肌着屋などが入り交じって立ち並び、人々の生活の臭いがする。民家の軒下には、馬桶(マートン)が列をなして整然とうつむせに置かれているが、何等の不潔感もない。市内では蚊の心配はまったくなさそうだ。蚊では以前大変にひどいめにあった経験がある。ミャンマーの蚊は刺すというより、噛みよった。室内蚊のいないことを確認したつもりだったが、電灯を消すと同時にどこからともなく現れて、顔やら腕に十数カ所、いっせいに襲われ噛まれたことがあった。あまりの激痛に、はじめは蜂にさされたのかと思ったほどである。今回訪れたシーサンパンナ(景洪)はWHOで一応マラリア汚染地区に指定されていたので、それなりに内服薬の服用ならびに香取線香、防虫スプレー、キンチョールで三重に防御したので蚊の咬傷被害は零であった。ミャンマー、カンボジア、ラオスと旅も続いてくると、もうヤモリの鳴き声も気にならない。

第四話 石林とサニ族

 石林は昆明から約百キロメートル離れており、二十キロメートル四方の広大な土地が、典型的なカルスト地形を示している。丁度日本の秋芳洞と秋吉台の規模の大きなものを思い起こせばよいのであるが、約三億年前の変化に富んだ海底が地表に現れたもので、海洋の溶解現象、地殻の変動、三億年にわたる風化が醸し出した宇宙の芸術作品なのだ。剣チンネのクレオパトラニードルではないが、二十メートルをこえる石灰石が、それこそ地表にニョキニョキと林の如く、森の如く突きさっさて生えているのである。地震でも起こったら落ちてきそうな、奇岩奇石の星霜をえた立派な風景は、まあ一見する価値があるものと思う(写真2・3)。それよりサニ族のおねいちゃんが面白い。サニ族はイ族の一部族なのであるが、しかしサニ族のカラフルな衣装をみているとイ族の黒を基調にしたイメージとは随分と違っている。イ族には沢山の部族があり、少数民族の中では一番人口も多い。サニの娘さんは、丸い環型の刺繍した帽子をつけ、その両横には耳のような角が生えている(未婚の女性のみ)(写真4)。服装も黒地にバラエテイに富んだ色糸の刺繍が綺麗だ。サニ族は芸術的センスを持ち合わせているように見受けられる。女性はハンモックの中に子供をいれ、かたわらで刺繍にただひたすら熱中している。イ族と奴隷制度とは切り放して考えることはできないが、私には詳細がわからないし、理解も出来ない。イ族の奴隷制度について、もうすこしつついてみるのも面白そうだが、一過性の旅行では無理なことだ(写真5)。

 イ族は、基本的に黒は人間世界の色で、民族の強い絆と誇りと奴隷主としての権勢を表す黒色の服装をつねに着用し、白は神と霊の世界の色と考えている。それゆえに、供えものは白い鶏、白豚、白い羊に限られる。男子は、頭は頂上の一束の髪を残しすべてそり落としている。こののこった髪は霊魂が宿る場所だとして、他人に決して見せないし触れさせない。大きな大きな直径四十センチを超す帽子のように見えるのは、この聖なる場所を守るため、黒い布を幾重にも巻いているのである。装身具も独創的で面白い。

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第五話 シーサンパンナへの道

 昆明とシーサンパンナ(景洪)とは直線約七百キロメートル程離れているが、この間の道はまたたいへんだ。むかしはそれこそ馬で四十日間以上かかったらしい。ほんの数年前まで、昆明から飛行機で思芽まで飛び、そこからバスで八時間位要したとのことである。最近道路も大変整備され、普通バスで二〜三日の旅らしいが、バスは古くてちょくちょく故障するらしいし、はげしい振動のため下車後数日間の安静休養が必要とのことである。でも道中のすばらしい景色(玉龍雪山が見られる)はほんとに凄いらしい。ここに、数年前昆明と景洪との間に直接航路が開設された。普段は一日数便とのことで、搭乗券の入手は大変困難らしいが、丁度この時期、シーサンパンナの春節・水かけ祭りのため臨時便が飛んでおり、しかも一日中三十分毎に飛んでいた。さすが中国と感心させられるが、これほどたくさん飛んでいると、なかなか満席ということにはならなかった。

第六話 シーサンパンナと照葉樹林

 景洪の空港には夜遅く着いたので、初めは気づかなかったが街路はたいへん整備されており、整然として気持ちがよい。広い道路の両側に直径一メートルにも及ぶ大きな棕櫚(パンナ椰子)が植えられており、その外側に三輪力車あるいは自転車用の道があり、そのさらに外側は金樺樹(この時期オレンジ色の花をたくさん付けていた)あるいは椰子の並木である。部分的にあるのではなく街中この整然とした緑のトンネルがどこまでも続いていた。中国はどこでも街路は広く清潔であるが、こんなに綺麗な街路の街はホントにめづらしい。早朝、三輪力車にのって一時間ほど街中を散策した(十元)がほんとにすがすがしい感じがして気持ちよかった。

 景洪の郊外は、それこそ緑一杯、あたり一面、照葉樹林(写真1)ばかりで、上山春平教授言うところの日本文化発祥の地、日本伝統文化のルーツ、照葉樹林文化地帯なのだ。司馬遼太郎氏は書籍(注2)のなかで、雲南には照葉樹林が見られないと記載されているが、緑濃い照葉樹林がいっぱいであった。雲南照葉樹林はブナ科(カシ・シイ)、ツバキ科、クスノキ科、モクレン科等多種であるが、日本のそれとほとんど同じ種類のものだ。

 景洪市内の熱帯植物園には踊る草があった。歌に合わせ腰をくねらせ踊るという。ホントかいな、試してみたが真実の程は判らなかった。

 シーサンパンナ(西双版納)とはタイ語シプソンパンナの当て字らしく十二(シプソン)の千枚の稲田(パンナ・領土)を意味するらしく、事実ここには領主の支配する十二の立派な領土があったと言われている。景洪なる名前の由来については、ガイドのタイ族のお嬢さんが次のようにはなしてくれた。そのむかし、この盆地は大きな海原であったが、水が引いて美しいオアシスになった。ところが欲張りな悪魔がここを占領してしまったので、一人の勇敢なタイ族の若者が盆地を奪い返すために、七日七夜、命をかけて悪魔と戦い、ついに悪魔を殺し、一つのきれいな宝玉を手に入れた。若者がこのきらきら光り輝く宝玉を高い椰子の木の上に掲げると、この盆地の空に再び曙光が差し込んできた。人々は、若者の勇気を讃え記念するため、この盆地を、黎明の里(景洪)と呼んだと言う。

第七話 バニーと竹楼(少数民族の村と住居)

 モンハイの景真八角亭(写真6)見学の帰路、曼圀新纂村(六十戸・三百人)なる寒村の一軒、ハニ族の竹楼を訪れた。モンハイへの道中、タイ族の高床式住居の集落(写真7)をたびたび見かけてきたが、照葉樹林をぬって小道を歩くと、谷向こうの斜面に茅葺きの民家(ハニ族)が見え隠れする。そしてバーン(村)の出入口を固める門(写真8)にたどり着いた。門は2本柱に横木を渡しただけの簡単なものだが、竹をさいて星形に組んだターレオとよばれる魔除けの呪標をいくつも付けている。横木の上には神の使者とされる木製の鳥がおり、常時監視の眼を照らしている。また横木には、ヒゴを輪にして鎖のようにつないだ飾りものを、あたかも締め縄のように架けている。形状その他、役割もちょうど鳥居とよく似ており、おそらく日本の鳥居の原型だろう。2本柱の両外側には、男女一対の木偶が立てかけられ、変なポーズを示していた。顔の表情も十分で、性器のみ誇張された表現はなかなかユーモラスである。性行為あるいは、性器自体に悪霊を防ぐ呪力と力があると信じられており、外敵や悪霊の侵入を防御しているらしい。

 住居は高床式の入母屋造り、竹楼(図2)で一家族が一つの竹楼に住んでいる。竹楼は上下二階に分かれており、二階が住居空間(図3)である。人々はこの二階で生活をし、二階は全体として大部屋であるが、部屋の入り口は二カ所あり男女で別々に使用しており、また部屋のまわりが小部屋のようにしきられ、個室兼寝室のようで、どの部屋にも蚊帳が張られていたし、小部屋の入り口はカーテンのみであった。四方の壁は竹の簾を張り、通風がたいへん良く涼しく、床には竹で編んだアンペラを敷いている。ベランダには炊事するスペースが造られており、男と女の家事での分担が決められているようだが、男と女は部屋の中で座る場所が、それぞれ別々に決められており、両者の間にはカーテンによる隔壁が作られていた。階下の一階の部分は、四面とも壁がなく、二〜三メートル程の高さがあり、四十本にも及ぶ直径四〜五十センチの立派な太い柱でささえられて、物置、穀物倉、畜舎等に利用されていた。屋根は竹を張ってその上を草ぶき(茅)屋根または棧瓦で葺かれており(写真9)、竹楼の周りは一メートル程の高さの竹や焼成レンガのブロック塀でめぐらされ、その内側はクワンフン(キッチンガーデン)となっている。

第八話 黄米と黄竹

 バザール(自由市場)の賑わいは凄い(写真10・11)。バザールでは衣類、肉類、くだもの、米類、香辛料類(写真12)、いろんな種類のお茶、加工食品等大変種類も多く、豊富で生活は大変豊かなようであった。餅、豆腐、納豆、コンニャク、米麺等も見られ、まったく日本のマーケットと誤認するほど、同じ種類のものが売られていた。さらに驚いたことに米の種類も多く、ウルチ米、もち米の他朱米、黒米、紫米、赤米さらに黄米が売られていたのにはおったまげた。そういえばここシーサンパンナには黄色の竹(写真13)もみかけた。べつに枯れかけている竹ではなく、青々(黄黄?)とした竹なんだが。黄色米(注3)とか、黄竹なんていったいどないなっているのだろうか?歩道いっぱいにはみ出したレストランではウドン(米麺)屋や焼き鳥屋など、すべて醤油(魚醤)の文化であり、味付けの根本はまったく日本と同じだった。

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第九話 タイ族の娘さん達

 新年正月ということもあって、若い娘さんたちは、すべて民族衣装に身を飾り、群をなして歩いている。中にはグループ全員、同じデザインの、同じ色の、全く同じ衣装のもの達が隊列を組んで歩いている。タイ族の若い女性は、決まって長い髪を頭上に巻き上げうしろで丸髷にまとめ、三日月型の櫛をさし、そのうえに花模様の頭巾を付けたり、ピンク色のランの生花を挿し飾っている(写真14)。まったくお洒落で現代的なセンスだ。あまり背丈は高くないが、すらりとしており、明るく優雅な印象をあたえる。女性は白または水色か濃い朱色の肌着に丸襟の半袖シャツを着て、シャツは袖が短く、細くぴったりと二の腕にくっつき、清楚な印象を与える。家にいるときも、外出時もいつも靴が隠れるほど長いロングの巻きスカートを身につけており、腰回りは狭くてきゅっと締まり、裾幅は広い。服装は単純に見えるが、なかなか工夫され、センスも非常に斬新で、シャレた現在的な感覚のもので、素朴さのなかに深みがあり、たとえそれをはおって、心斎橋通りをあるいていても、なんらの違和感を与えるものではない。むしろトップモードの感さえ与えるものである。女性の服地は色とりどりで見るからに絢爛豪華であるが、他の少数民族のように華やいた艶やかさはない。なかなかセンスがよく、現在のチャイナドレスの原型をみる思いだ(写真15・16)。農耕作業用と外出用とは区別しているようだが、スカートや腰巻きの下には、下着を着けていないのが古くからのしきたりだそうで、この習慣は地下に住む豊穣の神の魂を、女性自身に呼び込むためだと言われている。主として農業を営んでおり、水稲栽培にたけている。小乗仏教を信仰し、先祖を崇拝する。タイ族の女性はたいへん働き者で、一般に男女とも早婚であり、通常男性は女性ほど働かない。男性は早く結婚すればするほど、早く幸せになれるといわれているが、タイ族の女性はとにかく良く働く。中国政府の少数民族保護の政策で子供の数は特に制限ないようで、訪れたあるハニ族の民家では子供は十数人もいた。

第十話 シーサンパンナに朝がきた

 ここシーサンパンナ(景洪)のタイ族の村々では一月一日(日本歴四月十三日)から三日間にわたって五穀豊穣を祈り、一年間の幸せと健康を祈願してお祭りがおこなわれる。まず初日の一月一日には、日本の盆踊りの屋台のような竹製の発射台より「高昇」と呼ばれる、これも竹製のロケットが打ち上げられる。竹製発射台は、田圃のなかや川原などにあちこちと散見されるが、その爆発音を会い図に、いわゆる龍船競漕の開始である。数十人の漕ぎ手からなる龍船競漕は部族の名誉と誇りをかけて、はげしく龍の天に昇るがごとく争われる。翌一月二日(四月十四日)は民族衣装を纏った男女のディウパオ(歌垣)の開始である。農村では男女の知り合う機会に恵まれないので、こうした機会を捉えて日頃気にかけている相手に、歌の掛け合いをする。またこのとき三〜四センチ四方の美しい布でつくられたオモチャの座布団のような包みを投げ合う。意中の人が受け取れば恋が叶うという。民族舞踊の白象飯店なるレストランシェアターで可愛い綺麗な踊り子の娘さんより、この小さな包みが私に向かって投げられた。投げられたものが偶然私の方に飛んできたのではなく、私めがけて投げられたのである(?)とは近くの席にいた人の言であった。また、この日広場では闘鶏や堆砂(写真17)と呼ばれる小中学生による砂をかためて作る芸術(?)作品のコンテストが行われていた。そしてついに、ロケット、龍船競漕、堆砂、ディウパオ、夏空に輝く花火等の二日間にわたる前座のあと、一月三日(四月十五日)いよいよ溌水節(水かけ祭り)の始まりである。水かけ祭りは三日より始まるのに、二日モンハイへの行き帰り、もうすでに農村では子供達はバケツに水をいっぱい入れ、待ちかまえており、道路の両側から車めがけて襲撃してくる。一日早い水かけ祭りなんてルール違反だ。祭り当日にはトラックターで民族衣装に身を包んだ娘さん達(写真18)が立ったまま、満員満杯で太鼓や鐘をならしながらやってくる。ある村からはトラックの荷台一杯、すしずめぎゅうぎゅう一杯、それぞれバケツをさげ、行進曲のボリューム一杯やってくる。逃げまどう子供や娘さん達、子供より大人の方が熱心だ(写真19・20)。私もビニール製合羽風レインコートにフードカバーを着け、当地で手に入れた十五元の軽機関銃の水鉄砲で完全武装し、出かけたがものの見事すぐさま、濡れネズミとなってしっまた。後ろに回った、狡い大人が洗面器一杯の水を顔からぶっかけた。と同時に、フードははぎ取られ、ビニールコートを持ち上げ、下からバケツで一挙にやられてしっまた。こんなわけでメイン会場に行き着くどころか、ホテルの前庭で撃沈されてしまった。子供も、大人も、女も、男も楽しそうで、ほんとに新年を祝う楽しい行事であった。でもだんだんエスカレートして激しいものとなっていった。

第十一話 西双版納水かけ祭り伝説

 いまから約一千年前、悪魔の王様パャツァーコム(巾白 雅炸)がこのへんの山の中に住んでいた。近くの村々からいつも食べ物や財産を盗んできて村人を困らせ、また村々の一番綺麗な、美しい娘さんをかどわしてきて自分のお嫁さんにしていた。あちらこちらの村から若い娘さんを、さらってきた......ので悪魔の王パャツァーコム(巾白 雅炸)には7人のお后がいた。七人のお后の中でも、一番若くて、美しい七人目の村の庄屋の娘ナンムォーナ(喃木諾娜)は、たいへん聡明でした。悪魔の王様は魔法を使い、たいへんな武器を待っていましたので、村人はどうすることもできませんでした。以前、村人のなかで一番力のある若者が、悪魔を退治しよう挑戦し、剣を胸に突き立てましたが、悪魔は不死身で、悪魔の心臓からほとばしり出てきた血液で返り血をあびたところから、体がくさりだし、若者は死んでしまいました。それから何度も何度も悪魔に挑戦する若者が出て来ましたが、いずれの時も、返り血を浴びたところからら身体が腐りだし敗れて死んでしまいました。あ日、仙人がナンムォーナ(喃木諾娜)のまえにあらわれて言いました。「悪魔倒すには、どんな鋭い刃を以てしてもだめだ。悪魔は不死身なのだから。だだひとつ、悪魔を殺す方法は、悪魔自身の髪の毛で、悪魔の首を絞めると悪魔を殺すことができる」と。

 ある日、ナンムォーナ(喃木諾娜)は悪魔がたいへんよく眠っているとき、悪魔の部屋に忍び入って、一本の髪の毛を奪い抜き、その毛で悪魔の首をしめました。悪魔は両眼を沙羅のように大きく開き、断末魔の雄叫びをあげましたが、ときすでにおそく、悪魔の首は、ぽつりと体から離れ、首の切り口から血液が吹き出てきました。とうとう悪魔は死んでしまいました。聡明なナンムォーナ(喃木諾娜)は返り血を浴びましたが、他の六人の妻や村人達が集まり、この娘に水を掛け、血を流し落としました。ナンムォーナ(喃木諾娜)は村人の協力で、洗い清められましたので、返り血を浴びた身体も腐ることなく、いつまでも元気で、村人の尊敬を集めながら、長生きをしたということです。時まさに一月三日のことでした。以来この地方には新年一月三日には、お互い水を掛け合って、身体を清める儀式ができて来ました。これが水かけ祭りの謂れです。(現地ガイドのタイ族のお嬢さんから聞いたお話)

第十二話 旅行後記

 中国の変化は凄い。まさに加速度的変化だ。はじめて中国を訪問した三十数年前とは天地の変わりようだ。三十年も経てば変化するのも当然だが、ここ数年間の激変ぶりは当惑せざるをえない。千九百九十七年四月の今回の旅行で身をもって感じたことは、もう全く資本主義そのものだ。今回の旅行は広州から入ったのであるが、この街の変化には驚嘆せざるをえない。場外馬券売場かと見違えるほどの証券市場の賑わい。夜のダウンタウンはネオンであふれ、昼間以上に明るい。ほんとに一メートルごとに現れてくる夜の蝶々、台北(台湾)の街からはすっかり追放された観光理髪店の居並ぶ三元里、ビンロウ売りの屋台。資本主義諸国でも、もうこんな情景は見られない。今回の旅では共産党少年団の赤いネッカチーフの青少年には、とうとう旅行中ただの一人も見かけなかった。

 ほんの十年ほど前は、北京のような首都でさえ、街灯もまばらにしか点灯されておらず、街路はほんとに暗かった。その暗い街灯の下で読書に励んでいた学生達が思い出される。労働貴族や党幹部が地方や中央の政治を牛ぎっていることには変わりがないが、実態はとっくに、登邑小平並びにその亡霊によって指導された資本主義社会そのものだ。この現在のうねりはもう元にもどすことは不可能だ。中国は共産主義国ではもはやありえないことは肌で感ずることが出来る。有吉佐和子氏の「複合汚染」なる読み物が書かれた時代は、もうはるか昔のこと、現在の中国では、考えもおよびつかない。本年七月より香港は中国に返還され社会主義国中国に体制のことなる地域が加わることになる。一国二体制の中国の誕生ということになるが?朝日新聞等では政治のこと、経済、社会のこと等詳細なる数ページにわたる特集記事が、ほぼ連日のごとく出ている。いまだかってこのような一国二体制制度なる現象は世界の歴史の中に存在しなかった。しかしその必要性はもうないのではないだろうか?資本主義の香港は勿論、中国本土ももうすでに資本主義国なのだから。地下のマルクス、レーニンさんもさぞかしどんな思いでご覧になっていることだろう。(未稿)

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注1

 野生の象が数百匹生息しているとのことであったが旅行中は一度も出会わなかった。家畜としての飼育は見られないという。

注2 

 司馬遼太郎:街道をゆく二十「中国・蜀と雲南のみち」(朝日新聞社)のなかで、雲南には照葉樹林が見あたらないと記載されている。しかし土地の人たちに問いただすと昔からこれらの樹木がたくさん見られたという。同様の指摘は地球科学者野元世紀氏の著作(シーサンパンナへの道)のなかで述べられている。

注3

 黄米については、山梔子(クチナシ)の実で着色されているという文献がある。しかし現地のガイドに聞きただしてみたが、はじめから黄色とのことであった。

図1

 梅里雪山は京都大学学士山岳会の遭難で有名となった。遭難者はまだ発見されていない。三本の大河はここ雲南で寄り添うように、南下してちかずいてくるが決して交わることはない。

図2

 日本の茅葺き家屋とまったくよくにているが、高床式住居である。

図3

 男女の差別(サニ族)がはげしい。

写真

1 瀾滄江(メコン)の両岸は照葉樹林でいっぱいだった。

2 石林の見事な石灰石、石林のなかに細い歩道が造られていた。

3 石灰石は不安定で落下しないのが不思議に思える。

4 サニ族の少女、刺繍のはいった縁のある帽子をかぶり、髪は長く、明るい色のブラウスをはおっている。

5 ミズたばこを嗜むハニ族の老人、喫煙具は直径十センチを超える太い竹筒で、あちこちでみかけた。

6 景真八角亭は東南アジア系でエキゾチックであった。

7 タイ族の高床式住居の集落。ブロック塀のなかの建物もすべて高床式で階下では豚を飼育している。

8 バーン入り口の魔除けの門。門柱の横に一対の木製の人形がおかれ、前の白い色のが女性であり、後ろの黒いのが男性である。そのポーズはたいへんユーモラスであ る。

9 桟瓦で屋根を葺かれたタイ族の住居。

10 バザールの肉屋さん。ほとんど豚・水牛で、この一角は肉屋さんだけ。

11 買い物の品定めする民族衣装のタイ族の娘さんたち。

12 香辛料売りのお店。とにかく種類が多い。

13 黄色の竹。べつに枯れかけているわけでない。

14 この娘さん達は、髪に造花を挿しているが、これは例外的でほとんど全て生花のランを挿し飾っている。

15 十三才のタイ族の少女。

16 日差しが強いので、こんな可愛い日傘をさしている。

17 堆砂造りに励むタイ族の小学生。

18 いざ出陣。旗を掲げ、太鼓を、鐘をならし、手に手にバケツをもって。

19 ホテルの庭でも、バケツで水を掛け合う。

20 ドラムと鐘をならし、グループでやってくる。

参考文献

    XISHUNG BANNA A NATURE RESERVE OF CHINA

       CHINA FORESTRY PUBLISISHING HOURSE

    YUNNNANN STONE FOREST

       HI FENG PUBLISHING CO

    中国雲南地方 中国紀行 中国の変化 四川紀行
 


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