Diary 2011. 8
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8月31日 (水)  7月4日以来の入院生活を終え、堺に戻りました。

39回目の陽子線照射。兵庫県立粒子線医療センターでの前立腺がん治療は、予定どおり終了しました。あとしばらく治療が続く同病患者の皆さんにお別れのご挨拶。姫路市のSさんやKさんからは、明日からの議員活動再開への激励をいただきました。また、医師の最後の診察を待つ間、私と同様に今日が最終回の愛知県のHさんや、入院先でたまたま隣室だった奈良県のFさんとも、ゆっくりと会話。治療時間帯が同じでよく言葉を交わした徳島県のMさんには、「徳島訪問の際、ぜひお寄りください」と名刺をいただきました。そして、もう再訪することがない(と思いたい)、医療センターの職員の皆さんにお礼を申し上げました。
お昼すぎにIHI播磨病院に戻り、取り置いていただいた最後の昼食。退院手続きを済ませ、荷物を車に積み込みました。ほぼ2か月にわたる治療期間中、暖かみをいっぱい感じさせてくださった看護師さんらに心から感謝の気持ちを述べ、名残惜しさすら覚える病院を後にしました。
道路渋滞はほとんどなく、自宅までは1時間40分。休む間もなく、事務所で大綱質疑の準備にかかっています。
※なお、明日からは「アクション日記」を再開するつもりです。

▼写真左=見納めになった病室からの朝景色。8月1日と同様に、きれいな朝焼けが雲を染めていました。
▼写真中=2か月暮らした病室。パソコンに向かっている私に、「まるでお家みたいですね…」と、担当ナース。
▼写真右=カードキーで管理される治療エリア。このドアの奥に5つの治療室(私はG1室)が並んでいます。

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8月30日 (火)  今日も朝から快晴で、最高気温は34℃まで上がりました。

始まったころ「2か月の先は遠いな」と思っていた陽子線治療も、とうとう38回。明日1回を残すのみになりました。
また、この2か月、午後の日課としてきたトレーニングジムは火曜の定休日ですが、温水プールは最後の夏休み特別開館。なごりを惜しんで、いつもの距離をさらに延ばして泳ぎました。そして、体調管理に利用した「フィットネスF」(ジム+プール)というコースの退会手続き。「帰られてからも、ぜひ続けてくださいね」というコーチの声に送られながら、トレーニングの記録データを受け取りました。
さらに、明日は月末休館日になる図書館に行き、貸し出しを受けている本を全部返却。「市内に入院中」を理由に発行してもらっていた貸出カードも返しました。
ところで、堺市議会定例会の大綱質疑が9月1日から始まります。私の発言は、5日(月)の10時になる予定で、発言内容をメール通告しました。

▼写真左=入院先6階の西側窓から撮影した宮山。眼下に病院の駐車場も写っています。
▼写真中=図書館近くに建つ文学碑。佐多稲子の自伝的要素を加えた小説「素足の少女」の一節が刻まれています。稲子は、播磨造船所に勤務する父と共に、14歳〜16歳(大正7〜9)を相生で暮らしました。
▼写真右=図書館玄関前の野口雨情詩碑。「相生の港は なつかし港 軒の下まで 船がつく 雲の陰から 雨ふり月は 濱の小舟の 中のぞく」。雨情の詩碑は大島山の山頂にも建っています。

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8月29日 (月)  残暑厳しく33℃。治療に通う道路沿いの田は実りの季節を迎え、鳥よけが見えます。

粒子線医療センターでの治療も最終週になり、待合ロビーの顔ぶれがだいぶ変わっています。このところお話しする機会が増えた姫路市のSさんが「朝日新聞のコメントを見た」と、記事のコピーを持ってこられました。余談ですが、Sさんが勤務されていた会社には妻の甥が勤めており、よくご存じだそうです。
さて、今日は37回目の陽子線治療。照射部の炎症が少し変わったため、入院先の皮膚科で新しい薬を処方してもらいました。午後は、トレーニングジムです。そのジムのテレビで、民主党代表選の結果を見ました。
なお、代表選での前原演説は、治療から戻るカーラジオで聞きました。外国人献金の言い訳から始まった前原氏の主張は、この人の言動にいつも感じる不安感をまとっています。他方、入院先の病室に戻り、テレビで聞いた野田氏の名演説ぶりには、いささかの驚きも覚えました。自らを「どじょう」にたとえる演出も成功したようです。また、決選投票を前にした野田氏と海江田氏の決意表明では、「下心よりも真心で、論破よりも説得で、政治を前進させたい」と語り、内容の具体性や安定感において野田氏が圧倒していたように思います。
民主党国会議員の多数は、小沢氏の思惑とは逆の「ベター」候補を選びました。それでも、2年前、政権交代に寄せた国民の期待を呼び戻せるような民主党立て直しの道は険しいでしょう。今春の統一地方選での衰退ぶりを、同党地方議員が自覚できているのかも問われるところです。

▼写真は、高校時代以来の旧友Oさんが見舞いメールに添付してくださったもの。左2枚は「本薬師寺跡のホテイアオイ」、右は「趣味で育てている綿」だそうです。

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8月28日 (日)  今日も32℃。猛暑のなか、いつも病院の窓から眺めている山に向かいました。

「相生と書いて、おう、と読ませるこの町は、瀬戸内海の小さな港のひとつであった。一里ばかり出て行けば、山陽本線の那波という停車場へ出る。それは神戸と岡山の中間にある小駅だった」。少女時代の一時期、「この町」に住んだ佐多稲子が書いた小説「素足の娘」(1940年発表)の一節です。なお、「那波駅」は1942年に「相生駅」と改称されました。その相生市での、ほぼ2か月にわたる入院生活は、あと3日で終わります。明石市生まれの私にとっては、懐かしい播州弁で話しかけられる心安まるまちでした。
治療の待ち時間にたくさん読んだ藤沢周平の作品のひとつ「小川の辺」に、「海坂領は三方を山に、一方を海に囲まれている」という下りがあります。方角は異なるといえ、相生市街の地形状況(入り江のため四方に山)も同様です。作家自身の心が安らかになる故郷のまちが、多くの藤沢作品の舞台(海坂藩)となったのではないかと、勝手に想像しています。
どこに居ても山が見える相生の風景も、心を癒やしてくれます。病室の窓から毎日見ている「宮山」に、いちど登ってみたいと思っていました。退院まで最後の日曜日となって実行。標高は174mですが、やはり休み休みの登山でした。麓にある那波八幡の境内で登り口を教えてくれた地元の人の話では、「頂上近くに水晶があって、子どもたちが探しに行く」とのこと。帰院後、「おかわりないですか?」と様子を見に来てくれたナースも、「小学生のときに登り、採ってきた水晶を今も持っている」そうです。水晶探しをするまでの元気はありませんでしたが、頂上や付近の岩場からの眺望を堪能して下山。帰り道で、大島山の山頂も確かめました。
午後は、ずっと病室で過ごし、議員活動の再開に備えて資料の読み込み。夕方図書館へ。

▼写真左=那波港から見た宮山。那波八幡は港からすぐの那波本町にあり、境内の左手が登山口です。
▼写真中=宮山山頂からの眺望。奥深い相生湾の出口の向こうに、家島諸島の島影も望めます。
▼写真右=大島山の左上の建物がIHI播磨病院。駐車場も6階病室の窓も、拡大すれば写っています。

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8月27日 (土)  海岸部は夏空で炎暑。北部に黒雲が見え、雷鳴も。夜、雨になりました。

朝日新聞の朝刊(社会面)の「菅首相退陣表明」報じる記事に、私の「談話」が載りました。
■市民運動を通じて長く交流してきた長谷川俊英・堺市議(70)は「東京電力に乗り込んだ原発事故への初期対応、小沢流政治との闘いは市民運動出身ならでは。四面楚歌の中、よくがんばった」と語った。
何人かのコメントのうち、私の評価がいちばん甘いものになっています。昨日、取材を受けたときには「中途半端だった」などのことも言ったのですが、その部分はカットされたようです。

さて、今日は治療が休みなので、コンビニで朝刊を購入後、トレーニングジムに行きました。そして午後は、相生市内にもうひとつある万葉歌碑を探して万葉岬へ。これまで巡り会うことができなかった歌碑は、ホテルに至る市道の途中から海岸に下る小径を200メートルほど入ったところに建っていました。
「縄の浦ゆ背向に見ゆる奥つ島漕ぎ廻る舟は釣しすらしも」。山部赤人の作で、歌意は「縄の浦にたどりついて振り返るとはるか沖合に見える島、あの島のあたりを漕いでいる舟は、まだ釣りのまっ最中らしい」(歌碑脇の解説)だそうです。この歌の「縄の浦」は相生湾、「奥つ島」(沖つ島)は「鬘島」(地元の人は「お椀島」と呼びます)をさすとのこと。鬘島は相生湾の入り口にある島で、そのことがはっきり分かる撮影ポイントは、歌碑のある金ヶ崎と湾を囲む反対側、壺根港に下る道路でした。(写真中)
なお、万葉岬からも海岸に至る「金ヶ崎遊歩道」があり、「海岸まで650m」との看板が出ていたので、足下を確かめながら下りてみました。その海岸では、7月31日のブログに書いた「鳴島」(君島)を、「磯越す浪に濡れにけるかも」という歌の情景そのままに見ることができました。(写真右)
また、右手に「鳴島」、左手に「唐荷島」(3島)が浮かび、その背後の家島諸島や小豆島を望める絶景です。しかし、炎天下の帰り道は、数歩上がって休む…という地獄の急坂でした。ジムで体力を維持(?)しているつもりなのにこの体たらくは、エアコン漬け生活の報いでしょうね。

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8月26日 (金)  ほんの少し雨粒を感じましたが、ほぼ夏空が回復し、最高気温も32℃。

陽子線照射は36回目です。いよいよ来週(月、火、水)3回の治療を残すだけになりました。
今日は、菅直人首相が退陣表明をするというので、トレーニングジムを休み、病室のテレビでその模様を見ていました。民主党両院議員総会での菅さんの挨拶は…
@党内事情やねじれ国会など環境は厳しかったが、やるべきことはやった。A新しい代表を選ぶなかで国民に信頼される党になり、また、ひとつの方向性を出したときはみんなで進めていく党にしてほしい。B退任後も、原発に頼らなくてもやっていける社会の実現をめざして、一政治家、一市民としてやっていきたい。
そんな内容の菅さんの話を聞きながら、支持率低下と「やめろ、やめろ」の四面楚歌の中、政権を維持してきた精神力を、古い友人としてねぎらいたいと思いました。厚生大臣当時に会った折、「長谷川さん、官邸を握るってすごいことですよ」と、菅さんは言いました。自分が辞めた後の小沢政治の復権、原子力村の巻き返しを考えれば、権力を手放さずにがんばれるだけがんばろうとしたのだと、私は推察していました。
もっとも、「脱原発依存」をはじめ、期待された政策に対して中途半端であったことは否めません。きっと反対勢力の厳しい包囲網があったのでしょう。退任後「一市民としてやっていく」と挨拶を結んだ菅さんに、また期待をしようとも思いました。
※私が菅直人さんとはじめて会ったのは、1976年の8月。菅さんが29歳、私は34歳でした。同年2月に発覚したロッキード事件で7月に田中角栄元首相が逮捕され、日本中に金権政治への怒りが渦巻いていました。その2年前に市川房枝さんを担いで参議院選挙の事務局長を務めていた菅さんは、「批判するだけではダメ、自分たち自身が参加して政治を変えるべきではないか」と考え、自民党型の金権選挙ではない新しい選挙スタイルのモデルをつくり、「東京と大阪で三、四人ずつ出そうか」(菅直人『日本大転換』光文社、1996年)と思いたって、堺市で地域住民活動をしていた私を訪ねてきてくれたのです。若者仲間と一緒にわが家に泊まった菅さんと一晩語り明かしましたが、私の考えは、地方政治をとおして菅さんと同じ思いを実現するということでした。結局、その年12月の衆院選には菅さん一人が立候補しました。

▼写真中=市川房枝さんのお別れ会の後、路上での立ち話。菅さん34歳、長谷川39歳。(1981.2.1)
▼写真右=団塊世代の社会参加をめざす運動の一環…軽井沢での団塊塾合宿。(2006.7.29)

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8月25日 (木)  あちこちに大雨警報が出ました。相生でも断続的に激しい雨です。

35回目の陽子線治療を受けました。残りは4回となり、最終日の31日に退院する予定です。
さて、今日は堺市議会8月定例会の開会日。午後1時から初日本会議が開かれたのですが、治療中のため、やむなく欠席通知を出しました。病室でインターネット中継の提案理由説明を聞きながら、事務局から送ってもらった議案書をチェック。とはいえ、パソコンに写る議場の自席(画面右端最前列の議席)が空いているのは複雑な思いです。長年の議員生活で、本会議を休むのは初めてのことだったと思います。
ところで、粒子線医療センターでは、私の治療が終わった後で照射装置にトラブルがあったそうです。私よりも少し遅く隣室に入院されたFさん(奈良県の方)は、復旧めどが立たないためにいったん病院に戻り、再度出かけて治療を受けられたとか。「病院の夕食に間に合わなくなり、相生駅前で食事を済ませ、いま帰ったばかりです」と話してくださったのは、午後7時ごろでした。
ちなみに、写真中は私が受けている照射装置です。中央の治療台の上で右図のように上向きに横たわり、体型に合わせて作られた固定具を腰部にかぶせて治療を受けます。陽子線の照射は左右交互に行われ、右から治療する際には、まるで部屋が回転するように照射機が180度動きます。

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8月24日 (水)  治療の帰り、県立大学付属中学校沿いの道路で、野生の鹿と出会いました。

粒子線医療センターでの、34回目の陽子線治療も無事に終わりました。
この治療施設のある播磨科学公園都市に「星のひろば展望台」という場所があることを知り、立ち寄ってみました。写真は展望台からの眺望で、奥の山裾に見える施設の左手がSPring-8、右手に粒子線医療センター(右写真で拡大)が写っています。
また、この展望台から下りて来ると、県立大学附属中学校横の路上に鹿が立ってこちらを見つめていました。車を止め、カメラを向けうようとしたのですが、さすがに素早く逃げ去りました。逃げ込んだのは、付属中の反対側にある山地。この林の中に展望台もあります。
ところで、照射位置の皮膚のかゆみは、処方された「ベナパスタ」を塗るとよく効いています。もっとも、医師から「炎症がある間、プールでの刺激は避けたほうが…」との指導があったので、午後はトレーニングジムだけにし、泳げない分、ランニングマシーンの距離を2倍にしました。

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8月23日 (火)  朝、北部の山々に雲が沸き起こっている様子。中国道はやはり雨でした。

昨夜から照射部の皮膚にかゆみを覚え、毎日早朝に様子を見に来てくださる主治医に相談すると、かゆみ止め塗り薬の処方がありました。陽子線治療は33回目。もう6回で終了します。看護師から「患者カルテ」の説明を受けましたが、粒子線医療センターでの治療が終わってから10年間、経過を観察して3か月ごとに報告することになります。必要な場合は、アドバイスや診察を受けることもできます。
さて今日は、今回の入院中にぜひ訪ねておきたいと思っていた岡山県真庭市に出かけました。同市は、日本で初めて不育症に対する助成金制度を実現した自治体です。昨年12月議会で堺市の不育症対策を議論した際、資料や情報を送っていただいたお陰で、竹山市長がこれまでの施策欠落を認め、助成金制度の検討を約束したのです。
あらかじめ議会事務局を通じてお願いしていたこともあって、健康推進課総括参事で保健師の大熊江美子さんと、同課課長で管理栄養士の辻本美由喜さんが待ち受けてくださっていました。12月にお世話になった大熊さんにお礼を申し上げ、制度実施後の経過などを確認。同市の助成金制度は、日々市民と向き合っている現場職員の発案によるものです。大熊さんからは、今日も思いの溢れた言葉を伺いました。
「もしも未熟児が生まれたら、ひとりの人間として最善の医療措置が講じられます。その一方、胎内で亡くなっていく命を助けることができなかったら、とても悲しいことです。不育症についての理解が広がって治療につながり、赤ちゃんが救済できることに、この制度の意義があると思います」
真庭市では、議会事務局の畦崎智世さんにもお世話になり、5町4村の合併による真庭市誕生の経緯や議会運営についての説明を受け、議場などの案内もしていただきました。なお、予定時間より2時間ほど早く到着したので、市役所本庁舎近くのエスパル(メイン施設は音楽ホール)内にある市立久世図書館や、隣接する旧遷喬尋常小学校を見学しました。

▼写真左=地元産業を反映して木材を多用した議場。対面式の発言席も設けています。
▼写真中=旧遷喬尋常小学校。1907年(明治40年)建築の木造で、1990年まで現役の小学校でした。
▼写真右=帰り道で見かけ、立ち寄った薬王寺の楼門。真言宗のお寺で、楼門は真庭市指定文化財。

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8月22日 (月)  101歳になった母の誕生日。残念ながら、今年は親子ともども入院中です。

32回目の陽子線治療の後、医師による診察がありました。残り7回、何とか副作用なく終えたいものです。午後は、2日間休んだトレーニングジムとプールへ。
ところで、しばしば書いているように、入院先の食事の味にはいつも感心させられています。間もなくの退院を控えて、食事を担当する栄養科の方と話したい…と事務局に伝えたら、すぐに管理栄養士さんが来てくださいました。この方が病院に就職したのは20年ほど前だそうですが、それ以前からずっと、自前調理の食事が患者に提供されているとのこと。
また、毎日120〜130食を準備する際、冷凍食品は使わず、地元の魚屋さん、八百屋さん、肉屋さんから直接仕入れた新鮮な食材(地場産が多い)が用いられます。コロッケやシューマイも、すべて手作りです。その上、コンソメと中華ダシのほかは既製ダシを使わず、鰹節や昆布で出すそうで、煮物の美味しさの秘訣が分かりました。
なお、以前に「この4週間に提供された昼食や夕食で、おかずが同じものだったという記憶もありません」と書きましたが、メニューは5週間で繰り返しになるのだそうです。それでも季節によって食材が変わり、また選択メニューもあります。この選択メニューは、それによって保険点数が加算されていた折に採用し、加算廃止後もサービスで続けているとのこと。写真は今日も美味しくいただいた昼食と夕食で、いずれも第二メニューを選択しています。

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